ひとつになるのではなく、個々のままでも手をつなげる連帯#WeNeedCulture
#WeNeedCulture というプロジェクトがスタートしたのを見て、心底ほっとするというか、心が晴れた。
演劇、音楽、映画とそれぞれの支援を求めて別々に動いていた団体が、横のつながりを持って共通の要望書を国に提出した。官民一体で文化芸術復興基金をつくろうというのが、共通のメッセージだ。提出後の動画配信を見たが、俳優や舞台監督や照明家などの裏方、ライブハウスやミニシアターの経営者、あらゆる立場の人がメッセージを寄せていて、観客の声も丁寧に拾い上げていた。(俳優がツイッターに寄せられた投稿を朗読するそのうまさ!アナウンサーとはまた違ううまさだった)
彼らが明確に伝えたメッセージは「連帯」だった。
しかも、「ひとつになる」ことではなく、「それぞれがそれぞれでありながら手をつなぐ」というスタイル。そうそう、舞台人がやらなくちゃいけないのは、これだったんだ、と思った。私自身はこの期間全く動けなかったくせに。
思えば3月初旬の「劇場の灯を消すな」から派生した演劇界の重鎮の一部の方たちの発言には、同業者ながら、正直今に至るまでずっとイラついていた。
3月の頭にライブハウスが瀕死になった時に、「演劇はライブハウスやスポーツとは(表現方法が)違う(ので、安全度が違うから劇場を閉める必要はない)」と言った劇作家の言葉に、私は崩れ落ちた。と思えば、今度は製造業と比較したり、演劇と他の業種との違いばかりを強調するその演劇人のコミュニケーション能力に、強く違和感を持った。(もちろん、ご本人の長文は全て読んだ上での違和感です)
その発言の度に、市民の冷ややかな反応が加速するのを見て、控えめに言っても「先輩、少々お黙りください」と思った(笑)
ま、私は知り合いでも先輩後輩関係でもなんでもないのですが。
当初そこにあったのは、文化芸術の特殊性への理解(特に演劇)を求めることであって、同じ文化の担い手への連帯でもなかったし、同じコロナ禍に苦しむ自営業者たちへのエール交換でもなかった。そこを、一般の人たちは敏感に感じ取ったのだと思う。
つながることの力を知ってる舞台人達がなぜ、不用意に違うジャンルや違う職業との分断を煽るのか。なぜ、「自分たちを観続けてくれる観客は庶民なのだから、あらゆる職業の人と連帯する」と先頭に立って分断を止めるメッセージを発せないのか。これでどれだけ舞台業界の風当たりが強くなったか。仲間内だけで嘆き合っていてもしょうがないのに。
とずーっともやもやして、この輪に加わりたくないと思ったし(逆にそのバッシングにも加わりたくなくて口をつぐんだ)、気持ちが日替わりであっちに行ったりこっちに行ったりして、その後あちこちから発せられるアピールに同調することにすら消極的になってしまっていた。
でも、新たな動きは、ちゃんと自浄作用的に生まれた。互いのジャンルのめんどくさい違いをそのままに(普段はけして仲がよくなくても)ここは連帯しようと、大きな視点で手をつなぎ、ただ単に文化の救済にとどまらず「我々が社会と接続していき、どういう社会を望むかという表明をしていく必要がある」「社会が成熟することで文化が根付く」という言葉が、賛同者の大友良英さんや小泉今日子さんから発せられたことにほっとした。そして、「心地よい表現、人を励ます表現だけが文化ではない」という発言も含め、ここに乗れない人も、上記の大御所も含め、インクルーシブに表現が保障されるのが文化だ、と思った。
舞台人も、文化関係者も、今が変わりどき。
別に「元に戻る」ことが理想じゃない。せっかくなら、コロナをバネにして力を溜めて、一歩前へ、進みたい。
それはすぐに舞台を再開せねばということではなく、内省と連帯を、私たちも学ばなくてはいけないということだ。
そのことが胸に落ちて、ようやく、前を向けそうな気がした。
こういう時に瞬発力で動けない私だけど、細く長く見守りたいし、舞台関係者の一員として、そっと列に入りたい。