コロナ後はコロナ前よりなんだかんだ幸せだと言える世の中に

経済保障に関する各国の違いを見ていると、本当に怒りをとおりこしてむなしくなり、なぜ早いうちに海外で活動できる可能性を切り開いておかなかったのかと後悔しそうにもなります。いや、それよりちゃんと政府に関心を持つべきだった。

が、おそらく日本政府も、遅かれ早かれ一律給付をせざるを得なくなるのだと思います。今まだ目に見えていない現象がどんどん起こり始めた時、きっと海外に準じた形での保障に切り替えざるを得なくなる。
だけど、それまでにどれくらいの犠牲が出ないと踏み切らないのだろう政府は。という感じ。どう考えても早く踏み切った方が国としての復興は早いはずなのにね。

物理的に働けないから一律に生活費を配る。そのことは、数十年後にはベーシックインカム的なことに発展していき、数百年後には、貨幣経済そのものが全く意味を持たないものになるのかもしれない。
ていうか、「お金って、非効率的で不合理なシステムでばかばかしくない?」ってことになっていくような気がします。もちろん、愚かな人間のことなので、別の形のシステムに苦しむ人は、数百年後もたくさんいるのだろうけれど。

同じように、学校が休校だから、今近所の子ども達は、生まれて初めてくらいの勢いで外で遊んでます。近所の人のいない公園、子どもがたまに集まっててもゲームとかしてたのに、今は走るしじゃれるし木に登るし!
この子達は自然とバランスをとってるんだなあと思うし、親の苦労を置いておけば、学校も部活も塾も習い事もない1日の過ごし方を、初めて自分たち(や家族という小さな単位)で決められることは大切な経験だろうと思う。
もっと言えば、学校が再開してもしばらく危険が伴う今は、現実的に、学校にいくかどうかを自分たちで決めている。
これも数十年後には、「学校いくことにする?ホームスクーリングにする?」ということが普通の選択肢になるような気がする。それでも、愚かな人間のことなので、いじめは多分なくならないと思うけれど。

翻って、芸術はどうだろう。今オンラインでの配信が一気に広まっているので、これはたとえこの状況が収束しても、オンラインの流れが廃れることはないような気がする。その時に、実際集まって演奏したり芝居したり、それを実際集まって観ることが、「非効率的だね」となるのか、「待ってました」となるのか。
私は希望的観測では、これまでのストレスの反動で、「待ってました」ってみんなのすごい開放感がこの分野に集まる気もするけど、一方で「ネットで見れば良くない?」と思えるものはオンライン化が加速していく気がするので、両極に分かれるのかなーと予想している。

じゃあ私はどうやって生きたい?
まだまだ答えは出ないけれど、コロナ前よりコロナ後の方がなんだかんだ幸せだよね?って言える世の中にしたい。あんなにガツガツお金のために働いてたのはなんだったんだろうねー?って。
今ある便利さを全部受け取れなくても全然いいから、人と会える幸せをみんながしみじみ噛み締めながら、ささやかな暮らしができるようになればいいな。