インスタが日常を軽くする
文明開化直後の日本では、AI革命が起きた去年のように、新進気鋭の若者達が成功しようと町へ繰り出し、商業を起こしたらしい。新しい可能性が目の前に茫洋と広がり、自分の限界を試してみたくなる高揚感と爆発力のある自己肯定感。その時の風を感じてみたかったなと、時々思う。最も、その後日本は富国強兵が敷かれ、敗戦へと道を辿ることになったのだけれど。2023年12月にサム・アルトマンがGPT-4を発表し、AI革命が起きた時、私は外資系企業に勤めていながら確かにその、コロナも明けたばかりのどんよりとした空気に穿たれる強烈な雷光のような破壊力を感じていた。
その中で私は身を任せながら、ネット上で、職場で、友人間で、人々の口の端に上るのを耳にし、強烈な取り残されることへの恐怖に怯え毎日を過ごした。知りたくない情報まで、ひとたびXを開けば目に飛び込んでくる昨今では、直近では8月の上旬に黒田総裁が金利上昇を発表してから起きた株価の大暴落や密かに応援していた配信者の不倫騒動など、SNSを利用していたが故に受動的に受信をしてしまい、気分を害することになる事実も多かった。「怒り」や「悪いニュース」は「喜び」や「良いニュース」よりも格段に広がりやすい。身を切り離そうと思いひとたびSNSから身を遠ざければ、いつの間にか周りと一テンポ遅れている。一テンポ遅れることで、私は酷い「FOMO」= Fear Of missing out (社会や周りから置いて行かれるのではないかという恐れ)を感じる。期間限定の面白そうなイベントは逃さず行きたい。友人が旅行先で共有する楽しい思い出を眺めて、次会った時の話題に困らないようにしたい。推しが多い著名人の結婚ニュースはそこに集まるコメントを読みたい。何故ならそれが私だから。「それなり」に情報には通じていて初めて、仕事や趣味がある。最近まで私はそう思っていた。
一テンポ遅れると、またテンポを戻すのに少し時間とエネルギーがいる。
それも面倒くさかった。今年に入って、病気の治療のため5か月以上休職をしていたことで、社会復帰の難しさを知り、自分に合うペースを見つけるまでに長い時間を要した。一度テンポやペースから、外れてもいいんだけど、覚悟と体力がない限り、戻るのが大変だ。少しずつ健常である自分を社会に発信して、完全には取り残されないようにしないといけないな……、私は根底部分でそう思っていたらしく、ここ最近、周りの情報ザッピングが完全に日常化していた。Xは常にブラウザを開きっぱなしで、インスタに関しては酷いもので、テレワークがある日は数十分に1回くらいストーリーを追っていたと思う。勿論、自身の些細な日常を共有したりもする。
特に、旅行先では日記代わりに使っていた。
長崎、熊本、宮崎、茨城、栃木。
今見返しても、今年旅行に行った場所はインスタの全部記録に残っている。ストーリーという機能は3年前の今日していたことなどが自然と表示されて懐かしむのだけれど、それはあくまで記録であって、私の感情を閉じ込めているわけではない。「インスタでその時のフォロワーの150人に一瞬でも共有された記録」だ。その150人は、私が特に親しい人達の集まりであって、少し写実的な捉え方をすれば、彼らに共有された時点で、私だけの記録ではなくなる。その記録を覗いた私の友人達は様々な感情を抱く(ことができる)。8割方ザッピング目的で無感情かもしれないが、2割くらいは友人達の楽しい記憶と結びつき、共感を得ることがある。
私は瞬時に、その場にいない人達に何かを共有できるというのは二つの意味合いを持つと思う。写真や文字付きで自分の様子を共有する行為が達成しうる、「私は元気にやっているよ」「こんな面白いことがあるから教えたい、笑わせたい」という意味合いを伝える他者を意識した外向きのコミュニケーションと、「こんな自分や作品を見てもらいたい」という他者を意識した上で自分に還元される内向きのコミュニケーションだ。後者は言い換えれば承認欲求で、ほんの10秒ほど指を動かすだけでクイックに満たされる麻薬のようなシステムだ。前者はこの意識で発信しているなら寧ろ健全な向き合い方だと思う。
だが私は、前者と後者のどちらの目的も混同したまま、長い年月を過ごしてしまった。
遊び感覚で共感が得られることに、プラス要素しかないと思っていたからだ。私の発信内容は、海外の友人達に伝わるように、必ず英語のキャプションを入れた。そうして、2,3 年が経過した。
その結果、「旅行に行けば必ずインスタでシェアをする人間」に私はなっていた。面白いものを見つけて、「あ、これインスタでシェアしよう」が条件反射のように頭に浮かび上がるようになっていた。
自分の人生における、「自分が大切にしている体験」が一体なんなのか、分からなくなった。
どこへ行っても、一瞬一瞬の感動を静かに、大事に嚙み締めることができなくなった。27歳の私が、「ほら見て、面白いものを見つけた!見て見て!」とでも言わんばかりの、まだ5歳だった私達が土いじりをして、誰かの家の錆びた鍵を見つけた時の「自分の目で見つけて感じた密かな愉しみ」に似た感情は、今は自分の周りにいない、数百メートルも、数十キロメートルも離れた場所に住む友人達に共有される。でも、あの時の、周りにいる幼馴染の友達と一緒になって共有して、感動が膨れあがり、しばらく興奮で体が火照るような感覚は、もう訪れない。
見聞が一気に広がる旅行先では特にそうだ。
今年2月、病療中の私が母親と旅行した栃木で、一番楽しかったことは、「宇都宮動物園のキリンに餌をあげたこと」。手作り感満載の袋と野菜セットを握りしめ、私は、確かにキリンの口に餌を運んでやった。
だが、本当に私がしていたのは、「キリンに餌をあげること」ではなく「キリンに餌を上げる自分を撮ってもらい、インスタに上げること」だった。大分重症だとは思うが、実際にその時の私はそうだった。必死だったのかもしれない。「私はちゃんと生きていて、こんなことができている」という記録を、周りに知ってもらいたかったのかもしれない。
勿論、あの時の、キリンの舌に触れた感触や、餌が吸い込まれていく時のスリルは体に染みついていないわけではない。でも、私はその時に湧き上がる動物との触れあいから感じる温もりも興奮も、私は受け止めてやることはなかった。写真自体は記録だから、その時の周りの天候や人々の表情、動物の姿勢など、その一瞬を刻む。だけど、私の意識は一瞬で「共有」に向かい、その時の一種を自分の脳内に刻んでくれなかった。共有することに必死になり、その一瞬はひっそりと流れていってしまった。
「あの時、ああでこうで、本当に、楽しかったよねえ……」
とゆっくりと思い出される親族や旧友との懐かしい時間は、私達が死ぬまで最も大事にする記憶だと思う。でもその記憶というのは、私達の会話の中や、「写真や動画や文章」といった現物を通して浮かび上がるのであって、全く持って私達がSNSで共有した一瞬には結びつかない。
私の母親との旅行は、その一瞬一瞬を嚙みしめて、
死ぬまで大事にしたい記憶だった。
一時の「周りに教えたい」という瞬間的な、周りにFOMOを強要するようで、承認欲求を押し付けるような「共有」という行為は、その記憶の味を薄めた。共有する行為に意識が行くことで、現実味のある身体感覚が薄まっていくのが恐ろしくなってきた。
(勿論、周りに目を向ければ、同じように、スマホですぐに旅行先をアップロードする行為は全く珍しいことではない。東京の街を一つ二つ歩けば、例えば渋谷のスクランブル交差点ではセルフィーを撮影中のスマホを掲げながら歩き、浅草寺の釣り鐘の前でグッドサインをする観光客にぶつかりそうになる。彼らに何か反感を抱くとか、そんなことは一切思わない。ただ、SNSで日常を切り取り共有するのは、予想以上に日常茶飯事になっているのだと改めて気づく)
そう思った私は、インスタで日常を投稿するのを止めた。
最近私に会いに来てくれたオーストリアの友人が二人いる。普段ならすぐにインスタでシェアするその大切な思い出だが、写真にだけ残しインスタには上げないでおいた。写真は敢えて「チェキ」を使って現像してみた。
撮った写真を眺めた。
2人との、私だけの記録だ。
現像されたチェキフィルムがまだ熱を持っているせいかは分からないが、後から温かい感情が湧き上がってくるようで、デジタル上の写真よりも何倍も愛おしく感じた。何枚か撮った写真を、SNSが発展する前のように、アルバムにテープで張って並べてみる。小さな記録は、私の脳内のスペースとしてしっかりと鎮座し、アルバムの1ページを作った。
肝心のインスタだが、2人のうち、1人は「周りが必ず使っているから使わないのは不可能に近い」と言い、もう1人は「時間が奪われてキリがないからやめた」と全く異なる意見を述べていた。今後、私の日常が彼女達にシェアされることは少なくなると思う。ライブ感がなくなって、親近感も減るだろう。だけどその代わり、私達にはメッセージがある。インスタをやっていない友人が、三人のグループチャットを立ち上げ、毎日日本での1枚を私に送ってくれている。毎日少しでも会話を交わすことで、私達はお互いを思い合える。
世界中を旅する彼女の「良き友人の定義」とは、「常につながっていることで仲良くなれる相手」ではなくて、「久しぶりに会っても、昔のように自然に会話ができる相手」だそうだ。
しばらくは、私は自分の一瞬を、自分で噛みしめる時間を作っていくつもりだ。思えば親しい友達が全員、SNSでつながっているわけではない。最も親しい友人達とは時々メッセージを交わし、毎年会って近況報告が出来ている。あまり知らない状態でインスタを交換して、更にその人を知ることができる意味では効果があるかもしれないが、お互いの日常を知らないからこそ話が面白いと感じる尊さもある。私はそう思っている。近況を知りたくて、今後コミュニケーションが増えるかもしれない。そうなれば逆に、良い効果だ。
SNSとの向き合い方を変えるなど、わざわざ発信するまでもなく、自己満足と行ってしまえばそれまでかもしれない。だが、Tiktok、「ファスト教養」時代の今、一瞬のうちにどれだけの情報を得られ、どれだけ感情が動くかが重視される時代になっている。
その中で、敢えて自分だけの記録を「一瞬と向き合い」、時に形として残していくことは、私は究極的には、「今を感じる自分を何よりも大事にする、新しい自分との向き合い方」になるんじゃないかと思っている。
(追記)
SNSは現代人の大事なツールの一つではあるし、付き合い方は千差万別だが、最近「Mr.Beastが新しい惑星(人間が居住可能な環境で)を発見した」ことくらいインパクトの大きい出来事がインターネット上で起きている。
とある有名な配信者が、「VR Chat」という、VR上でユーザーと出会い、会話、ゲームが出来る世界を発信し始めたのだ。
そこは、大体的に外の世界に発信されることはなかったものの、2016年の誕生以来、無数の魅力的な世界が有志のクリエイターたちによって無料で作られ、一大エンターテインメントの惑星となっていた。配信者が発見して私達に情報を提供してくれる今、数千百万人の視聴者に共有され、今その惑星に旅行する一般ユーザが激増しているらしい。この世界は、SNSとはまた違う、「実際にその場で自分のデジタル化された身体」を投影することで、生身の人間とデジタル上で同じ場所に居合わせることができる新たな共有の場所となっている。お互いの時間が一緒に共有される。5歳の時の鍵を見つけた発見、と同じ感覚も共有できるかもしれない。私はこの世界に、とても可能性を感じている。