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《r6.6.11》生死に対する価値観

どうも、死に向かって生きる人です。

まず初めに私は死ぬために、今を生きていることを前提として今回の話をします。

世の中の人々は生きる目的として色んなものがあるだろう。

例えば
・夢のため
・家族のため
・推しのため
・欲しいものを買うため

こんなことでは収まらないくらいきっと色んな目的があるであろう

私にとっては《死に向かうこと》が生きる源であり、目的である

だが、他の人の目的や夢を私は否定も肯定もしない

それは人それぞれみんな考えや環境が違うから。


なぜこんな話をしたかと言うと、とある方から

「死ぬ事は経験できない。
死ぬことを考えるのは、他人の人生を自分が生きているのと同じくらい無意味だと思う」

というお言葉を頂いたことがきっかけだ

この考え方に私は肯定も否定もしない
これはこの方の考え方だから。

ただ、この文章を見た時に私が感じたことを話させて欲しい
あくまでも私個人が感じたこと。



私が死ぬことを目的に生きているのは、

耐え難い痛みや不安を毎日抱えて生きていくことは苦しいし辛い。

だからといって《自死》というのは
家族や友人や不動産屋さんや近所の人々や警察…色んな人に迷惑をかける

何より突然消えてしまったら、色んなことが中途半端になってしまう

だからあえて《自死》ではなく《安楽死》

痛みからも解放され、色んなことの準備や整理整頓もでき、お別れの期間を十分に得ることが出来る安楽死を目的にしたのだ。


この方の言う
「死ぬのを考えるのは、他人の人生を自分が生きているくらい無意味だ」

あくまでも私の捉え方だが
《死=無》
無を考えるのは勿体ない(無意味)

ということでは無いだろうか?と思った。

分からなくもない
《無を考えるなんて時間の無駄だ》
《無は何も生み出さない、生産性も無い》

そう考えてば妥当なご意見だろう。

だが、私にとっての安楽死は無ではない。

先程も書いたように
・痛みからの解放
・障害による将来の不安からの解放
・物事や人間関係の整理
・お別れのための準備


という目的であり、生きがいでもある

だから私にとっての《死》《無》ではないということ。


色んな人の考え方や感じ方があるから、私の考えや行動が可哀想だとか無駄だとか勿体ないだとか色んな捉え方があってもいいと思っている。

否定するつもりもない

が、だからといって考え方を変えようとも思わない。

十人十色、それでいい


今日も安楽死に向けて働き、生きた私は100点満点である。



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