傘
せっかくの日に朝から雨が降っていた。
梅雨時期なのに、ここしばらく晴天が続いていたので、すっかり今日も気持ちの良い天気なんだろうなぁと勝手に思っていた。
そんな6月最後の金曜日。
「あの日は大雨だったなあ」
と逆に思い出になって良いのではないかと、そう考えなおして
「俺ってツイてるな」と口に出していってみた。
そうすることで、気分が少し晴れるんじゃないかと思ったが、そう簡単でもないみたいだ。通勤の朝、そんなことを考えながら駅まで歩いた。
この現場に来て12年。初めてのサシ飲み。相手のO君もサシ飲みは初めてだという。
なんだかちょっと気恥ずかしい。何をいまさらと思う。だけど緊張はする。
そんな彼とは思えば14年くらいの付き合いで、いまでは現場は違うが
何も用がなくてもちょくちょく会いに来てくれる。
会いに来るといっても、滞在時間は10秒に満たない時もある。
もう帰るの?もう少し休んでいかない?と声をかけても、
「忙しいのでこれで」とさっと帰ってしまう。
ほんとに「顔を見に来た、見せに来た」という感じで。
この少し物足りない感じがなんとも絶妙で、「こんな僕に忙しいのに会いに来てくれたんだ」と心地良い気持ちにさせてくれる。
以前、自己啓発本かなにかで、誰にでも好かれる人は短い時間でも会いに来てくれる人、と書かれていたことを思い出す。なるほど、そうかもしれない。
私はといえば「何も用がないのに何しに来たんだろう気持ち悪い」と思われるのが怖くて、気になる人にも会いにいけなくてうじうじしてしまう。
そんな彼とは会うたびに「今度美味しい物でも食べに行きましょう」と社交辞令的な約束をするのだが、ここ数年実現どころか挨拶代わりになっていた。
今年に入って、私の持病が良くなってきたこともあり、ついに実現の時がきた。
「多少お高い店でもいいので美味しいとこで」というのが彼のリクエスト。
忙しい彼に代わって、食べログとグーグルマップのレビューを参考に、麻布十番にあるお店の2号店という、JR水道橋駅近くの予約しないと入れないという焼き鳥屋さんに決めた。麻布十番がどんなところか知らないが、なんだかそれだけで美味しいものを出す店なんじゃないかと思ってしまうのは、軽薄だろうか。
気合を入れて1カ月前から予約して、あと2週間、あと10日、あと2日とカレンダーを見ながらカウントダウンしてドキドキする自分が嬉しい。なんだか未来の予定が自分の存在価値のように思えてきて、それだけで幸せな気分になる。
そして迎えた当日。
待ち合わせの時間まで、なんとなくソワソワして、そろそろ時間となって、鼻毛出てないかとか、歯を磨いたりして。男同志だって気にするものは気にするのだ。清潔感を大事にしたい。この時点でもう雨なんてどうでも良くなっていた。
職場の外に出ると雨が小降りになっていて、傘をささなくても大丈夫そうだ。やっぱりツイてるじゃん。
時間通りに来たO君とは気恥ずかしもあって、挨拶もそぞろに歩き出す。
そこそこ急な坂を慎重に下っていく。マンホールの蓋で滑らないように。雨で濡れたアスファルトがやけに黒々としていて、車のライトを反射してピカピカ光っていた。
水道橋駅付近で飲むのなんて何年ぶりだろうか。5~6年前に職場の忘年会かなにかで来て以来だ。
15分程歩いてお目当ての店に到着。予約時間の10分前。ちょっと早かったかなと思いつつ、外から店の外観を眺める。20人も入ったら満席になってしまうような小さなお店だけど、店構えからしてオシャレな雰囲気が漂っている。ふと、今日という日を無事に迎えられて良かったと思う。
先客は4~5人。金曜日の18時過ぎってこんなものだろうか。店内に入って名前を告げて、こちらですと手で促された先を見ると、カウンターの隅に「Reserve」の札を見つけて内心ほっとする。両隣がテーブル席とかだと周りから見られているようで緊張するし、出来ればすみっこがいいと思っていたのだ。
ぎこちなく乾杯して、目の前で焼かれる様々な串と、赤橙色に焼ける炭を見ながら、お互いの近況報告が終わる頃にはお店はいっぱいになっていた
。
肝心の焼き鳥は素晴らしく、今まで食べた焼き鳥で一番といっていいほど美味しかった。カウンターからの景色や提供まで20分かかる調理時間、お値段、南麻布(水道橋)、全部ひっくるめてのお味だけど。せっかくの飲みなのに、シンプルに美味しいと言えないところが、貧乏性というか根っからの捻くれ者根性なんだろう。
お店に入ってそろそろ2時間経とうとしている。あっという間にすぎた時間ではなかったけど、おいしいお酒を飲んで、焼き鳥を食べ、焼きおにぎりを付け合わせのスープに半分落として、勝手にお茶漬け風にシメにしたらお腹いっぱいになった。話題も会社の愚痴やらウワサ話やらでそろそろネタ切れ。自然とじゃあそろそろとお開きとなった。
私が会計をしている間、先に店の外に出ていくO君の背中を見ながら、初めてのサシ飲みがこんなんで良かったんだろうか、彼は楽しめただろうか。かといって何が正解なのかわからないけれど。
お店の雰囲気や店員さんも親切でよかったし、料理もおいしかったし、会話はそれほど弾んでなかったけど、それはいつものことだし、こんなもんでしょうと勝手に納得して店の外に出ようとしたとき、雨がまた強く降り出していた。
店の外に一歩踏み出すと、お店の前にかけられた暖簾のすきまから、さっと傘が差しだされた。
「とりあえず傘、入ってください」
「ありがとう」
私が傘をさすあいだ、彼の半身は雨に濡れていた。
・・・
O君を水道橋駅で見送って、私は後楽園駅まで歩く。
東京ドームの出入り口から巨人戦をやっているのが見える。どっちが勝っているのか負けているのかはわからない。試合終了とぶつからなくて良かった。観客が出てくる時間にぶつかるとすごい混雑になるのだ。
後楽園駅が見えてきて、駅の構内に入り傘を畳んだ。
ふと
あの時、あの傘、
暖簾の先に予期せぬ傘が待っていたことが無性にうれしかった。
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