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混沌迷宮美術館
強か酒に酔った夜、男は裏通りを覚束ない足取りで進んでいた。言葉にするのも躊躇われる悪臭と、ほんの数名が立って入れるかどうかの小さな安酒場の灯り。大手を振って昼のマーケットを歩けなくなった男にとっては最早慣れきってしまった、汚泥。
暫し歩くと突如目前に清浄な空間が現れた。清掃の行き届いた石畳は嘔吐の跡どころか靴で踏み荒らされた気配も感じさせず、己にまとわりついていた酒と汚物の匂いを掻き消すかの如き清浄な、花や香木に似た香りを漂わせていた。場違いだとは思いつつ、男は吸い込まれるようにして照りのある重たげな木の扉に手を掛けた。それは少し引いただけで軋んだ音ひとつ立てずに開き、男を招き入れた。
拍子抜けなことに階段があるばかりの狭い空間であった。だが男は却って上階への期待に胸を膨らませた。ゆっくりと段を踏みしめながら上っていけば、やはり目の前に広いメインホールらしき空間が広がっていた。壁にはみっちりと額縁が掛けられ、そのどれもが見たことのないような景色を映し出している。目も眩むようなその光景に男は圧倒され、側にあったソファに倒れ込むようにして腰を下ろした。
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「こんばんは、旦那さん。ちょっとだけ俺と話でもしていかない?」
凛とした、涼しげでいて人懐っこそうな声が男の鼓膜を震わせる。半ば恍惚のような、眠りに落ちる寸前のような状態にいた男は身体を跳ねさせ、声のする方へと顔を向けた。声から男だと判るものの、他の種族であれば女性でしかありえない可憐な容姿。雪のような白い肌に絹糸の如き白銀の髪に視線を奪われていた。
ウルダハで生まれ育ったルガディンである男は、ヴィエラの男を今この時初めて目にしたのだ。
その様を見たヴィエラの青年はさも可笑しそうに声を上げ、その長い指で軽く男の背を叩いた。
「あはは、そんな珍獣を見るみたいな顔しなくていいじゃない。俺は貴方の人生を知りたくてこの美術館に招いたんだよ?」
俺の人生。思わぬ言葉に口を半開きにしたまま暫し固まるも、それは男にとっては苦くてたまらないもの。激高に振り上げかけた腕を半ばで理性が制する。
「ほら、貴方の歩んだ光と闇を俺達に見せて」
彼が指を弾いた瞬間、壁に掛けられた絵は一瞬にして様相を変えた。それは男が生まれた家、懐かしい父母の顔、初恋の娘、早世した父の跡を継いで商人として初めて立ったマーケット。どれもが色褪せず、鮮明であった。
「そうだ、俺は…」
初恋の娘はいつの間にやら人妻となっており、愛らしい子を連れて夫と歩いていた。野望を持って仕掛けた商取引は呆気無く潰され、男の手元からは名声と財がすり抜けていった。ああナルザル神よ、なんと残酷な天秤であることか。やがて魂すら量られて、来世はきっと貧民街のサボテンダーにでもなるのだろう。
叫び出したい気持ちを飲み込むと、代わりに涙の粒が無数に零れ落ちてきた。
「神というのは不公平で残酷なもの。それを僕らは嫌というほどこの目で見てきた」
彼の隣にはいつの間にか、彼と同じ顔をした、然して真逆の雰囲気を持った青年が寄り添っていた。
「だから俺たちが神になろう、少なくとも貴方にとっては」
近付けられた二つの微笑は恐ろしく整っていて、それはまるで。
「悪魔――」
男が口を開いたと同時に、男の意識は絵画の中へと吸い込まれていった。
――ああ、ここはどこだ。
辺りを見回す男の視界に、愛してやまない乙女の姿。
そうだ。俺はずっとお前と添い遂げたかった。
『わたしはあなたの隣にいたいのよ』
鈴を転がしたような声が耳を侵す。ああ、勿論だとも。俺はいつでも、いつまでもお前の側にいる。
男の鼻腔をニメーヤリリーの香りが擽った。お前はそんな香りを纏って居ただろうか――嗚呼、そのような些事、今は思慮に及ばず。懐かしい草原が広がり、遠くにはいつか見失った懐かしい父母が見えた。頬を撫でる暖かな風に全て攫われていく。全て。
明くる日ミスリルアイの一面を飾った記事は、とある商家の跡取りが変死体として発見されたというものだった。
ゴールドコートで乳児をあやしながら新聞を開いていた女は、醒めた顔でふと呟いた。
「やっぱりこの人に才覚はなかったわね」
やがて女は立ち上がり、幼子たちを連れて去っていく。アーゼマローズの強い香りだけを残して。
「やったねノアくん、コレクションが増えたよ」
沢山の絵画で埋め尽くされた壁の中、丸椅子に腰掛けた青年が嬉しそうな声を上げる。ノアと呼ばれた、青年と同じ顔をした彼は、呆れたようでいて穏やかな笑みを彼に向けた。
「ニアさんが嬉しいのならそれでいいですけどね。……悪趣味な」
くすくすと声を上げるニアは、この美術館に新しく仲間入りした絵画に目を遣った。そこには幸せそうに佇む男と、彼の両親らしき人物、そして妻らしき女性と二人の子供が収まっていた。
「ねえ、いつか俺たちもこの絵の一つになれるのかな?」
ニアはノアの背後から腕を回して伸し掛かった。それに鬱陶しそうな顔もせず、ノアは回された手に指を絡めて親指で甘やかすように撫でた。
「僕たちが行ける先なんて決まってるでしょう」
「ふふ、それはそう」
魂を刈り取り、収容する。その行為を、それを行う者を、人が何と呼ぶか彼らは良く知っていた。
「死神の行く先なんて、地獄しかない」
地獄なんてものが存在するなら。果てる先が無ではないのなら。
この魂が、エーテルが、記憶が二人永遠に残るのなら。
「貴方とならそれもいいんじゃないですか」
静謐を極めた広間の中心で、双子の兄と弟は唇を重ねた。