こんなひとも、いるんだな。
はじめに
縁あってこの文章に触れてくださった方。何より感謝申し上げます。
もしも最後までお目通し頂けたならそのときは、シンプルに、フラットに
こんなひとも、いるんだな。そう捉えてもらえたら有難い。
たとえば何処からか聞きなれない鳥の声がしたとき、ふと思うこと。
『こんな鳴き声の鳥もいるんだな』それくらいの、感覚でいい。
すぐに別のことに気が向いて、そのことすら忘れてしまう人。
どんな鳥なのか気になって、調べてみる人。
その場では気にも留めないけれど、なにかの拍子に思い出す人。
鳥の声へのスタンスは人それぞれであり、それは各人に委ねられている。
だがそこで「何故そんな声なのか?別の鳴き方はないのか?」と鳥に問いかける人は、恐らくはいないだろう。
人に対しても、そうあれたらいい。
半世紀近くかけて、腑に落ちたこと
1年前、私はASD(以前でいうところのアスペルガー症候群)であるとの診断を受けた。
あらためてASDとしての観点から自己を掘り下げていく中で、アロマンティックやアセクシャル、ノンバイナリーという言葉を知り、自分をその当事者として受け入れるまでさほど時間は要さなかった。
物心ついて抱いてきた数多の葛藤から生まれたしずくはひたひたと透明な水となり、40余年私の心にたゆたっていた。この1年でその透明な水は名の付いた一つの流れとなって、すっと私の腑に落ちて全身の細胞を満たしていった。
ととのうとは、正にこのことであるかのように。
ないものと、あるもの
ASDの特性ゆえに興味の対象が限定的であることから、私には友人と呼びたい人は少なく、数にすれば片手で収まるほどだ。年齢に比例して知人の数はそれなりだが、友人と知人とは別のものであり、そこにこだわりを持つのも実にASD的である。
友人の半数は何年も顔を合わせていないが、何年ブランクがあろうと変わらぬ間柄でいられ、かつ適度な距離感を保っていられるのが、私にとっての友人だ。
また私には、世間一般にいう甘酸っぱい初恋や、きらきらとしたデートの思い出はない。誰かと時間をかけて向き合って身心を交わしたこともなく、結婚したいと思う相手に会ったこともない。
10代20代の頃はそれなりに擬態を試みたこともあり、正確には一通りのお付き合いの経験自体はあるのだが、何をするにも常に己を俯瞰しているような、心の内はじつに冷めたものであった。
そのうち相手に対する罪悪感と自己欺瞞に苛まれ、逃げるように3か月程で関係を終わらせるというパターンを繰り返し、気づくのである。そもそもがそれらに対しての願望が、私の中に存在しなかったのだと。
そんな私にも、慈しむ心はある。その対象は人に限らず、動物や植物、水や風や音、空、大地など、森羅万象すべてである。
自分なりの細やかな視点で森羅万象に美を見出しそれらを慈しむとき、そこに性別は関係しない。
むしろ恋愛や性愛、性別にとらわれずいるときにこそ、白く透明な世界にいるような、清々しいよろこびを静かに全身で感じるのだ。
それが私にとってのしあわせである。
それぞれのしあわせ
ここまで書いてきた内容は今までの経験上、世間一般には理解されないかもしれない。
それでいいのだ。こんなひとがいると示せたことに、この文章を綴った意義があるのだから。
人それぞれの個性があるように、それぞれのジェンダーがあり、それぞれのしあわせがある。それはその人だけのものであり、誰かと比べるものでも、誰かが推し量れるものでもない。
もし自分の理解をこえる個性と対峙したとき、誰もがシンプルに、フラットにそのままの相手を捉えることが出来たなら、世界は今よりも、心地よく平穏なものとなるだろう。
生きているうちにその世界を見ることが出来たなら、それは私にとってこの上ないしあわせだ。
noteという場所で表現を始めてみようと思い立ち、最初に提示されのが「多様性を考える」というテーマであった。
このことにも、有難いご縁を感じている。
この場所で、私だけの白く透明な世界を、これからも静かに綴っていきたい。