チャゲアスは未来だ
私にとってチャゲアスは未来である。
多くのファンの方々の青春期やその後の来し方にチャゲアスが色濃く存在しているのとは異なり、活動停止後の翌年にファンになった私は、チャゲアスのライブに行ったことがない。それでもファンになった頃は、TUGの会報での一緒の写真や対談、そしてたまに見られる二人の映像やラジオ出演などから、一つのユニットであることは十分感じていた。
ソロのコンサートはそれぞれ素晴らしく、ここからスタートした私にはチャゲアスのステージというものは、まるっきり想像できなかった。陳腐に例えるならば盆と暮が一緒に来るかのような、上寿司と最高級のフランス料理を一緒に味わえと言われているような、ディズニーランドの中にUSJがあるような、そんな感覚である。過去のチャゲアス映像を何回も見ているとはいえ、「今」の二人が同じ舞台の上に立ち、声を合わせるなんてそんな贅沢なこと、想像を絶する世界じゃないか。
それでもいつかはきっとその日が来るだろうと、その未来を待つともなく感じていた。それはよく分からないけれど「とてつもなくすごいもの」になるのだろう。それが未来だった。
しかし、どうやら、そう平坦な道ではなかったようだ。その未来の日差しが陰り、違う色合いの風が吹いた。が、未来とはもともとそういうものだ。道の先に確実なことなど、ない。だから逆に、今の景色には見えなくても、ひょんな弾みでそれがあっさりとやって来ることもありうる。そういうことって思いの外よくあるんだ。それが半世紀近く生きてきた私の実感だ(いやサバを読みました、すみません。「近く」ではなかった)。
自分の心情を正直に吐露して、それをエネルギーにして作品に結実させる一人と、周囲の人に心配をかけるのをよしとせず、何も語らずに作品を見せるもう一人。その二人の間のことは、外野の外野の地球外くらいから眺めている私には到底分かるはずもない。分かるはずもないことを、どうしてありきたりの常識で、ありきたりの言葉でジャッジできようか。
だから、私は今までと同じスタンスで、待つともなく未来を眺める。それは「奇跡」としてではなく普通にいつか起こるかもしれないし、ないかもれしれないけど。でもこれからの景色もきっといいものじゃないかな、あの二人の往く道ならば。(2019年8月28日 5時14分JST)