物語からはじまるショート・ショート 〜第三回「檸檬」より〜
彼女は八百屋を目にした途端、足がすくんで、うまく息ができなくなった。
軒先にりんごや玉ねぎが、うず高く積まれている、商店街の角の、小さな店の前でのことだ。
長雨だった昨日までが嘘のように、汗ばむほど上天気の午後1時。彼女はここまでやってきた。
彼女はまだ、この町に引っ越してきたばかりだ。数日にわたり、山のような段ボールを片付けた甲斐あって、今日は午前のうちにようやく、手が空いた。
何より、せっかくの天気だ。散歩でもしよう。そう思い立ち、玄関先の適当なスニーカーをつっかけて、家の外へと駆け出したのが、10分ほど前のことだった。
びろびろに破れた日よけテント、通路の細い店内。それに、ほこりのかぶった商品棚。おまけに今日の、妙にじっとりとした空気。
八百屋然としている、と彼女は思う。そこにどうしても、できすぎた均整を感じてしまう。自分が入っていくことを、許されていない、と。
しばらく経った後、それでも一歩ずつ、店に近づいていく。そして、いざ入ってしまうと今度は、もう何も買わずには出られないぞ、という気持ちが湧き起こる。
すると、段ボールの中にごろごろと、鋭く光る果実が転がっているのが見えた。レモンイエローの絵の具を、チューブから絞り出したまま。まさにそんな色。目にした瞬間、今までの不安が嘘のように消えた。彼女は、それをひとつ手にして、堂々とした足取りでレジへと持っていった。
店を出るとまた、道を歩き始めた。
景色をぼうっと眺めながら、たまにレモンに触れる。片手にぴったりと収まる大きさ。皮の、ざらついた感触。鼻に近づけると柔らかに、酸っぱい香り。学生時代に読んだ小説を、頭が勝手に思い出し始める。
『檸檬』。青年が、街の果物屋でレモンを買って、ふらふらと歩く話。目に映るものに、強く心を動かされる主人公の感性が印象深い。彼があまりに繊細で、読んだ時は戸惑いすら覚えた。それなのに、この果実の重さや色や、形を好きになる気持ちに、自然と取り込まれた。彼女がレモンに惹かれるようになったのは、それからだった。
物思いを深めながら歩みを進めていると、ふいに、公園に行き当たった。彼女は気まぐれに、背の高い遊具によじ登り、空を見上げた。
春の、雨上がり。ぬるく湿った晴れ。新しい町で見る空は、なんだか他人の顔をしていた。一見優しそうだけれど、昨日の深い雨を思い出せば、かえって不安をそそられる。穏やかそうなのに、よそよそしいこの空の表情を、彼女は顔色を伺うようにじっと見つめた。
目の前はみるみる変化していくのに、何を掴むこともできない。今は、広々とした空の下にいることが、余計に窮屈だ。彼女はいたたまれない気持ちになって、ポケットに手を入れた。拳にぐっと力が入る。
すると指先が、あの固さにぶつかった。
もう一度、ポケットから取り出して、手にのせてみる。果汁の凝縮された、独特の重み。どんなときも、この感じだけは揺らぐことがない。
そういえばあの小説は、どんな終わりだっただろうか。書店に行って、本を棚から抜き取って、山のように積み上げて…その上に、レモンを置き去りにしてくるんだっけ。
そうだ!
駅前の本屋に行こう。そこで何をするかといえば…。彼女はふふふ、と笑った。それから、何年ぶりかのいたずらに胸を躍らせながら、するりと遊具から降りていくのだった。
※「檸檬」––『梶井基次郎全集 全一巻』ちくま文庫
梶井基次郎/文
この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出していきます。
次回更新は、4月20日火曜日の予定です。小説は1回お休みして、代わりに「しろの種 こぼれ話」をお届けします。お楽しみに。
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