物語からはじまるショートショート 〜第十二回「キッチン」より〜
キッチンに立つのは、数週間ぶりのことだった。
そのせいか、 調理台も流しも妙につるんととのっている。 だから、ぽつんと置かれた本が、 自然 と目に入った。
仕事に、 人付き合いに、この頃はずいぶん忙しかった。 転職と引越しで、 生活はがらりと変わり、家は、寝るために帰る場所と化していた。 以前に比べると、身体は元気だけれど、頭のどこかでは、ひとりきりの時間を求めている自分もいた。
今日はめずらしく、 仕事が早く片付いた。 タイムカードを切ると、得意の愛想笑いで 「お疲れ様でーす!」 と職場を去り、そそくさと電車に乗りこんだ。
気づけばもう十二月。 さすがに定時に帰っ 「明るいうち」ではないけれど、 空にはまだ、 太陽の名残のような、 うす青さが残っている。
機嫌よく最寄り駅の改札を出ると、 すぐそこのスーパーへ。 二十時に閉まるそこを訪ねるのも、ずいぶんと久しぶりだ。 のびやかな気分で、 安売りの豚肉パックと、 日持ちのする野菜をいくつか選んだ。 これで、 じゅうぶんなおかずを作ることができる。
一人暮らしのアパートの玄関を開けると、 深い闇が迎えてくれた。
「ただいま!」
大きな声で叫び、誰も触れることのできない、この部屋の自分だけの空気を、 胸いっぱいに吸い込む。ただいま。
電気をつけ、 キッチンマットの上に、ぼん、と買い物袋を置いたときだった、その本が目に入ったのは。
「キッチン」 。吉本ばななのその本を読んだのは、もう十年近く前のこと。 表紙の、黒いチュー リップのうつくしい絵がお気に入り。 だから、 一人暮らしの部屋にも忘れずに持ってきた。 数ヶ月前、この部屋に引っ越してきたとき、 キッチンのすぐ横に、大きな窓があるのが嬉しくて、ドライフラワーやら、お気に入りの食器やら、 あれこれ飾った。 最後に少しあいたスペース に、 思い立ってこの本を置いたら、 自分のキッチンらしくなった気がした。
そんなことを考えながら、 一合お米を研いで炊きはじめた。 できあがるまでの時間に、せっかくなので本を読むことにした。
表題作である 「キッチン」 は、 みかげという女の子が、父も母も、 そしてただ一人の身内である 祖母も亡くすところから始まった。 前に読んだ時は、 私も十代だったな。 ほとんど覚えていない 中身をなぞった。 炊飯の、 しゅわーという音が遠くから聞こえる。
読んでみると、 大学生のみかげの気持ちに、 以前ほどは深く共感していない自分に気づいた。 それでも、身を切るほどの孤独を、 ありのままに受け入れる彼女の姿には、 やっぱり惹かれた。 それは、 一人分のさみしさだ、と思った。 まるで台所の小さな蛍光灯のように、ぴったり一人分だけ の空間を静かに照らしていた。それから、ご飯と大根のみそ汁と、豚の生姜焼きを作って食べた。 ちょうど、お盆一つぶんの、 小さな定食に安心する。
外からはときどき、 車の通る音がするだけ。 冷たい空気が、 町中の音を吸い込んでいるみたいだった。 あんまり静かだし、足先は冷えるしで、 私はほんのちょっと、 そわそわしてきた。
そうだ。
「いただきまあす!」
さみしいときは、大きな声を出して、しょぼくれそうな気持ちを追い出すことにしている。 わざ と大きな声で、 自分を奮い立たせるのだ。 共働き家庭の一人っ子として育ったから、一人でのご飯には慣れている。 さみしくなんてないもの。 という気持ちで、 大口でご飯を頬張れば、もう安心だ。
怒ってくれる人がいないから、 洗い物だってだらけるわけにはいかない。 そんなことをしたら、 自分が悲しくなるだけ。 さっさと流してしまうのがミソだ。 あったかいお湯を遠慮なく流して、 大きな声で、 流行りの歌を口ずさむ。 声を出すと、 自分がここにいる、 と言えている気がするか ら。 人がそばにいなくても、 冷蔵庫や、ガスコンロや、 おわんやコップが、 私の声を聴いていてく れる。
さみしがりではない、と思う。 ひとりぼっちでもないとも。 とくべつ人気者ではないけれど、友達は結構いる。 仕事でも、年下 年上関係なく、うまくやれていると思う。ただ、時々は自分に許したいのだ、 冬の冷たい風の冷たさに、身を委ねることを。 部屋の暗い闇に、思いきり寄りかかることを。
小説は、そういう一人分の孤独がちゃんと ここにある、と気づかせてくれた気がする 誰といるかとかではなくて、 私は私として一人なんだ、ってことを。それは、洗った食器が棚に置かれたときみたいな、 しっくりとした気持ちだ。 そう、 収まるところに収まるってやつね。 今ここで何かが起きて、 私が死んでしまっても、だれも見届けてはくれない。 そういうことをとき どき考える。そのせいで、 喉の奥がキュッとなる気もする。 そんなときは、水道水を、 ガラスのコップに注いで、思いっきり飲むことにしている。 消毒くさいくらいが、 ちょうど良い。 それが頭にきいんと響くくらい冷たいと、なお良い。
ごく、ごく、ぐっ。
一杯で、 身体ぜんぶ、リセットされていく。よく冷えた身体で、 なんとなく、 もう大丈夫だ、という気がしてきた。 少し寒いけれど、今日はお風呂をしっかり洗って浸かろう。 流しでコップをすすごうとしたら、 さっき読みかけた 『キッチン』の本がまた、目に入った。 今夜はお風呂で、 もうすこし、 続きを読もうかな。
※『キッチン』吉本ばなな/作
この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出してきました。
今回で、「 物語からはじまるショートショート」の連載は終了となります。
読んでくださった皆さん、ありがとうございました!
この連載では、皆さんもお手に取ったことのあるような、既存の「物語」をもとに、新たな超短編小説(ショートショート)を作り出していきます。
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