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20年前、群馬から競馬の灯火は消えた~高崎競馬廃止とその後にまつわるエトセトラ~
1.境トレーニングセンター移転のニュース
競走馬の育成事業を行っている伊勢崎市の境共同トレーニングセンターが前橋市に移転する方向で調整を進めていることが分かりました。 (中略)
伊勢崎市境上渕名の境共同トレーニングセンターは、高崎競馬の旧トレーニングセンターで、面積は約28ヘクタールです。 高崎競馬が廃止となった後、2005年から調教師らが立ち上げた法人が競走馬の育成事業を行っています。 県は「跡地の新たな利用目的が決まるまで」という条件付きで、事業者にセンター内の土地や建物の一部を貸し付けていて、伊勢崎市は、この敷地を産業団地として活用したい考えを示していました。
高崎競馬の遺構のひとつ、境トレーニングセンターが前橋市に移転すると報道されたのは今年の11月末の話である。
施設そのものの老朽化は進んでいたが、跡地の利用方針が定まっていなかったため、元高崎競馬の関係者が中心となって発足した民間団体に跡地の利用目的が決まるまでという条件付きで土地を貸す状態が続いていた。
新たにトレセンを受け入れる前橋市は
「子どもや市民が見学できるなど地域の魅力が高まる施設になれば良いと考えている。市としてもできる協力はしていきたい。」
としており、あくまで民間の施設ではあるものの行政である前橋市側が協力の姿勢を示していることが異例と言える。
見学できる施設にするというのであれば、容易に考えられるのはスタンドの設置である。しかし、トレセンにスタンドを置くというのであれば、ネット投票が普及したこのご時世、再び競馬を行うことも検討できるのではないか。
トレセンだったものが競馬場になったという話でいえば、現名古屋競馬場(旧名弥富トレーニングセンター)がいいモデルケースであろう。集客機能は残しつつもネット投票が売上の9割以上を占めていることを踏まえ、比較的ミニマムな設備にしたということが記憶に新しい。
移転した結果、ナイター競馬も行えるようになり、大成功を収めているのが今の名古屋競馬である。しかし、ネット投票が普及するはるか前、廃止に追い込まれた高崎競馬の関係者たちも今の名古屋と同じような競馬場を作ろうと奮闘していた。
今回は高崎競馬の廃止とその後の動きについて、過去の記録を元にまとめていこうと思う。
2.廃止年度の高崎競馬
前年度までに約58億円の累積赤字
開催日数:53日間(最終日は9R以降中止)
売上:約33億1,546万円(前年度同期比93.5%)
単年度収支:7億1,753万円の赤字
唯一のダートグレード競走である群馬記念が232,200,500円の売上、群馬記念当日の売上が301,248,700円だったことを踏まえると、それ以外の日で約30億円を売り上げたということになる。つまり、それ以外の日の1日あたりの売り上げは平均して約5,800万円程度である。
これ以降廃止となった競馬場では、荒尾競馬場が平均して7,300万円、福山競馬場が平均して8,200万円であったことから、当時の高崎競馬はかなり厳しい開催成績だったと言えよう。
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しかし、この開催結果を見ると不思議な点が浮かび上がってくる。
まず来場者数は宇都宮<高崎である。というのも高崎競馬場は高崎駅から歩いて10分の好立地、浦和のように街にある競馬場だったため、週末に開催するとお客さんがたくさん来ることは明白だ。
ところが売上を見てみると、宇都宮>高崎となっている。GW開催の売上を見れば、分かりやすい。こんな歪な現象を作り出している要因は何か。それは高崎競馬場の中にWINSがあることであった。どうやらG1開催週の土日だけ発売を行っていたらしい。
目の前でレースが行われているにも関わらず、多くのお客さんは画面の向こうで繰り広げられているJRAの競走に釘付けになっているという皮肉な状況がこのような開催結果を招いていた。お客さんが本場のレースを買ってくれれば、売上の100%が懐に入ってくるのだが、JRAのレースだと貰えるのはそこでの売上のわずか1%分だけである。
しかもJRAのレースを売っていなければ、お客さんは来ない。これでは打つ手があまりにも無さ過ぎる。
(実際、JRAのレースを売っているかと思って競馬場を訪れたけれども、売っていないと知って目の前のレースを見ることなく帰る人もいたとか)
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G1がない週にはWINSが開かないので人も来ない
補足すると、電話投票サービス(今で言うネット投票)はあったのだが…
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いつでも始められる訳でもなく、取扱銀行もあまりにも少なすぎたため、役に立っているとはあまり言えなかった。ちなみに今や地方競馬のネット投票サービスでトップシェアのSPAT4では重賞競走・ダートグレード競走だけ買うことができたらしい。
そのため、当時の売り上げのほとんどは本場と自前の場外、それに加えてたまに行われる広域発売が占めていたようだ。今とは大違いである。
3.廃止とその後の動き
1日の売上が1億を超えた日が高崎記念デー以外にないまま9月末を迎え、小寺知事が「年内いっぱいで廃止」の決断を下したのは9月28日であった。
これ以前に廃止となった中津、三条などは跡地も更地にするしかないほどの立地であったが、高崎の場合は駅から歩いて15分の好立地。赤字しか生み出さない競馬場を潰して商業施設でも作った方がいいと考えるのも当然であった。
このまま廃止に話が進むと思いきや、高崎競馬場を再建したいと名乗りを上げる企業がいた。
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「メイドさんしぃーしぃー」、「ときどきパクッちゃお」、下着泥棒でおなじみの実業家ホリエモンこと堀江貴文が社長を務めるベンチャー企業ライブドアである。
競馬法の改正により、平成17年から民間企業に馬券の販売などが委託できるようになる。つまり、企業が競馬場の経営に参画できるようになるということである。実際、この2年後にはオッズパークが帯広競馬場の経営に参加し、なんとか競馬場を存続させることに成功している。
売名行為や高崎駅前の土地を狙っているなどと揶揄されたが、廃止報道から1ヶ月後の11月上旬、ホリエモンは小寺知事に馬券発売の業務委託、廃止方針撤回の要望を出し、「赤字が出た場合も一部保証する」と直々に対話した。しかし、群馬県側は見通しが甘いと一蹴。結局廃止方針が撤回されることはなく、ライブドアは高崎競馬場から身を引いてしまう。
4.そして立ち上がる新高崎競馬応援団
それでもこのまま引き下がりたくない競馬関係者もいた。そんな有志が作った団体こそ「新高崎競馬応援団」である。これまでの高崎競馬場の敷地内で開催することはできないが、群馬県競馬組合にはもう一つ施設があった。境町トレセンである。高崎競馬場からは直線距離で25キロ、高速道路を使って40分という位置で、最寄り駅とされる伊勢崎駅からも車を使って20分という距離にある。簡単に言えば、この境町トレセンに競馬場の機能を移そうという計画であった。弥富の10年以上先を行く計画である。
高崎競馬廃止の4か月後の平成17年5月に競馬場を開設
1日5レース×54日間開催=年間270レースのミニ競馬場計画
競馬場の入場人員は1日300人程度を見込む
→本場での売上に依存せず、当時発展途上だったインターネット発売、あるいは人口の多い都心の場外発売所での売上に期待運営費は約6億円
赤字が出た場合に備えて…
1.トレーニングセンター内の馬房の一部を貸し馬房として開放
2.ネーミングライツ(個人協賛競走)
3.平成17年度から始まるJRAの地方競馬への助成金制度を活用
ちなみに日経新聞記者の野元賢一氏はwebコラム内でこの計画を次のように批評している。
年明けから施行された改正競馬法で、公益法人が競馬の本体業務について、委託を受けることが可能になったことを受けて、新たに主催団体を立ち上げるとしている。境町トレセンのある旧境町(佐波郡)は、年明けに赤堀町、東村とともに伊勢崎市と合併した。競馬を開催する場合、まず境町トレセンを農水大臣が競馬場として指定することが前提。「競馬場所在市町村」となれば、伊勢崎市は総務大臣に競馬開催を申請することができる。
こう書くと簡単そうだが、実現の見通しは皆無に等しい。とにかく、境町は交通の便が悪すぎる。場外発売所もあるのだが、高崎と宇都宮を細々と売るだけ。一時行っていた南関東の発売も「経費倒れ」との理由で中止された。廃止された高崎は、新幹線が停車する交通の要衝から徒歩圏内にあった。立地条件に恵まれた競馬場で、2004年度末には65億円に上ると見られる累積赤字を出したのだ。競馬場の指定に当たって、農水大臣は群馬県や伊勢崎市の意見を聞く必要がある。競馬で大やけどを負った同県は無論、農水省も、赤字確実な競馬の「続行」を簡単に認めるはずがない。しかも、伊勢崎市は既にオートレースという「お荷物」を抱えている。伊勢崎オートは2000年度に赤字転落し、昨年(2004年)3月末時点での累積赤字が約16億円。新潟県堀之内町に設置した専用場外「アレッグ越後」は、わずか3年で撤退に追い込まれ、事後処理に市は7億円を投入した。
野元氏の指摘を下に計画の概要を改めて確認していこう。2004年4月~7月までの高崎競馬の開催成績によると、来場者数と売上の相関はほとんどないと言っていい。しかし、当時は本場での売上の割合が高かったため、集客が全くできないということも問題である。肝心なのは場外やネット投票サービスでの売上になってくるが、先に述べたようにネット投票(電話投票)サービスはほとんど浸透していなかった。
そして場外発売所もこの計画自体が群馬県と対立するような形で進められたため、これまで使ってきた施設で売ってもらうことは難しい。実際、計画案の中では都心の場外で馬券の発売を行うとしていた。
しかしながら、都心に場外発売所を持っていないため、計画を実現するためには、自前で作るか他の競馬組合が所有している場外発売所に頼み込んで売ってもらうかするしかない。自前で作った場合のコストは野元氏が挙げた伊勢崎オートの例を見れば分かるだろう。廃止になった団体にそんな財源は当然ない。となると、後者を選択するしかないが、そこで全ての開催日の全ての競走を売ってもらえる保証はない。また、お返しとして提携した競馬組合が主催する競走を発売する必要があるが、発売できる施設が新競馬場以外に存在しない(もしかしたら新競馬場でも場外発売を行えない可能性がある)ため、相手にとって提携するメリットがない。これを踏まえると、馬券の売上で黒字になるビジョンが見えてこない。
そのため、赤字の補填策として、トレーニングセンター内の馬房の一部を貸し馬房として開放する、すなわち外厩としての機能を果たして収入を得る(むしろこれで得た収入を競馬開催の経費に回す)としていたが、トレセン事業の方がメインになってしまうのは競馬事業を運営する立場として本末転倒ではないだろうか。
全体的に競馬を続けたい関係者のエゴを感じる計画案であり、当時の状況で計画を実現することは非常に難しいように感じられる。
そもそも公営競技であることが前提なため、最終的には行政の協力を仰ぐ必要があった。そこで焦点となったのが廃止直後の2005年1月に行われた伊勢崎市長選挙である。3人の新人候補が名を連ねていて、その中でも自民党の財力をバックに抱える石原清次氏が当選すれば、この新競馬場計画が進展する可能性があるとされていた。
しかし、石原氏は次点で落選。当選した矢内氏には計画に協力する意思はなかった。実際、伊勢崎オートという当時不良債権だったものを抱えている自治体に競馬を運営する体力があるはずがないので、当然の判断だろう。
模擬レースを2度実施し、競馬開催を行える設備があることはアピールしたが、日を進むごとに計画メンバーの中でも競馬開催を巡って対立するようになり、新競馬場計画は破綻した。最終的に2005年4月に境共同トレーニングセンター株式会社が設立され、この境町トレセンは競走馬の育成施設兼南関東競馬の認定外厩として使われるようになり、現在に至っている。
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(写真提供:馬市ドットコム)
5.あとがき
現在、高崎競馬場の跡地はGメッセ群馬という北関東最大級の展示ホールに生まれ変わっており、競馬場があった痕跡はBAOO高崎や、施設を取り囲む1周1500mの緑道、競馬場通りという地名に残されているのみとなっています。
私は高崎という土地を一度も訪れたことはありませんが、訪れる機会があるならば、この競馬場があったところも歩いてみたいと思います。