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日本の街並みと非日常の体験的価値について

日本の街並みはよく統一感がないと言われる。

家屋は様々な様式が混在し、屋根や壁の色もバラバラだ。加えて、店の外観も和風から中華風、洋風など色々ある。また、街中の看板や広告、ネオンは極彩色に彩られ、テロップなどの情報量が多く溢れており、「情報過多」と言わざるを得ない。電線や家々の粗雑な感じは正直つまらなく感じるし、溜息が出る。しかし、そのような混沌とした日本の景観が海外の観光客から「アジア的猥雑さ」として消費されているのも事実だ。普段生活している我々からしてみれば気にも留めないようなところが、海外の人からしてみれば珍しく映るのは、やや実感が沸かない。

東京の街並み

一方、海外の、特にヨーロッパの国々では住宅や店舗の外観までもが同じ様式、色に統一されており、一種の美観を保っている。しかしそれらの大半は昔から残っている街並みではあるが、日本とは決定的に違う。日本は第二次大戦で大きな都市は軒並み空襲で焼かれた。焼け野原となった都市を復興するために、高度成長期に急造で街が作られた(京都や金沢など一部の都市は空襲を免れた)。民主主義で個人が思い思いの建築を出来るため、結果として統一感のない街並みとなってしまった。個人主義の強いヨーロッパの国々のほうが同調圧力の強いとされる日本より、美しく統一感のある街並みを保てていると言うのは何とも皮肉な話だ。

日本は歴史的建造物こそ多くあれど、それをあまり上手くいかせてない気がしてならない。地震や経済的発展という理由やお題目さえあれど、古い建物をすぐ解体したりと大切にしない日本の風潮には憤りを覚える。日本の建物は建て替え式だという意見をTwitter上で見たが、解体する前に一度価値や波及効果について考えて欲しい。ミクロでは美的感覚はあるが、マクロでは美的感覚が欠如している。

プラハの街並み
パリ、シャンゼリゼ通りの街並み

いきなり何の話かと思うかもしれないが、私はディズニーシーが好きだ。このテーマパーク内の西洋の街並みを事細かに再現した美しくお洒落な街並みが気に入っている。アメリカンウォーターフロントやメディテレーニアンハーバーが代表的だ。これらの街並みはディズニーというブランドもあるが、パーク内の音楽とも相まって、非日常感を演出している。アニメや漫画等の娯楽もそうだ。日常にはない魔法やアイテム、種族などは非日常感を味わえ、とてもワクワクする。そういったファンタジー作品にはいつだって憧れる。しかし現実の街並みは決して面白いものではない。だからこそ、ディズニーやアニメや漫画のような「非日常の体験的価値」が上がるのではないだろうか。逆に日本の街並みをヨーロピアンな宮殿風や中世の街並みのように整備してみたら、そういった「非日常の体験的価値」や存在は下がるのではないだろうか、という見方もできる。

話は変わる。日本でも美しい景観を保全している地区はある。古い街並みを保存している京都は代表的だが、景観条例が日本一厳しいとされる兵庫県芦屋市だ。景観条例によって屋上広告やアドバルーンを全面禁止した。景観条例によってコンビニやスターバックス、電柱の色や形を街並みに沿ったものにする例は多いが、芦屋市の景観規制は郡を抜いている。正直羨ましい話ではある。全国的に景観規制を敷いて街並みをある一定の基準を設けて整備すれば、少しはマシになるだろうか?

芦屋川周辺の街並み

私は隈研吾氏の設計する建造物が好きだ。ガラス張りで奇抜なデザインだが、そこには一貫した美的感覚とセンスがある。無味無臭で統一感のない、ゴチャゴチャした日本の街並みの中に彼の建造物があると、やはり目に留まる。全ての建造物とまでは行かないが、公共施設や美術館、博物館といった施設を彼に設計してもらいたいくらいだ。居心地の良さや外観まで計算しつくされたデザインは街の景観形成に一役買っていると思う。もっと言えば、国を挙げて景観に対する政策を行ってもらいたい。日本は海外と違って規制が緩いと聞くが、景観や街並み、広告に対する整備や規制を包括的に行うべきだ。

個人の権利や自由を多少制限することに当然批判は沸き起こるかもしれないが、美しい街並みに住んでいれば日本の幸福度は上がるのではないだろうか。しかし、それと同時に「非日常の体験的価値」は相対的に下がるかもしれない。この両方をどう上手く両立していけるかが重要だ。


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