見出し画像

初対面の人と1泊2日した話。人間は常に正しくって大好きって話。

 ねえ、あなたは人間が好き?

1泊2日の話

 先月、初対面の人16人くらいと会って話をする、大学が主催する1泊2日の合宿に行ってきた。合宿の最初に、いつもは呼ばれない新しい名前を自分に付けて、そこから2日間が始まる。ぼくは星とか海とかを最初に思いついて、けれどそれはさすがにぼくには荷が重いとおもって、他の自然物を探して、あまりかざらない赤い実をつける植物の名前にした。(この名前はその2日間のものなので情報の海にはなげすてないでおくね)。そして、ひとり2つ質問を書いた紙を4つ折りにして混ぜて配って自己紹介した。いい質問だと思ったのは、人間は好き?という質問で、回答者は場合によると答えを留保していた気がする。

 そうして、そのあと、BBQをしたり、画用紙とクレヨンを渡されて絵をかいてそれについて説明したり、深夜3時まで同室の4人と哲学的な問いについて語り合ったり、最後にそれぞれがそれぞれに向けて、好きなところを書いて匿名で集めて渡したりした。

 とってもたのしかった。

 ぼくに来た好きなところの文字列たちは、知識の広さ、人や発言への積極性、独自の視点からの発言、傾聴、とかそういった内容だった。ほんとうは、全てテキストデータ化してchatGPTに食べさせて、特徴抽出させてもよかったんだけれど、ちょっと無粋すぎるので紙束を引き出しにしまっておくだけにしよう。それで稀に見返したりしよう。

 高校の現代文の先生は、物語は、日常→非日常→日常´(日常ダッシュ) と展開されると言っていた。日々そうやって物語は人生は紡がれていって、人々は変容した連続した日常"を歩いていくのだと思う。今回の非日常のイベントは、他の出来事と同じように、僕自身を人生を変えていく。このイベントを通して人間がより好きになった。
 
 ぼくは人間の感情と思想と行動が、そしてその表出が言葉が本当に大好きだ。人間が話す体験と思想は全部異なっていて好きだ。人間は新しい人間と出会って、新しい考えに触れて、新しい話をして、新しい本に出合って、新しい音楽に心を動かされて、新しいものを食べて、新しいものを見て感じて、生きていくべきだと思う。

人間と僕の話

 合宿で仲良くなった人と、合宿のあと会って、道端で夜4時くらいまで、人間について、僕について話をした。その時にすこし理解が深まった僕の人間観についての話をする。きちんと整理できているわけじゃないからさ、ここから先、特に後半はあんまりわかってもらえないかも知れないんだけれど、ごめんね。

 僕は人間が好きなんだけれど、どちらかというとホモサピエンスが好きで、このホモサピエンスの個体の生態おもしれ~って感じで接しているっぽい。だからその意味で人間たちを愛している。ぼくはすべての人間のことを愛しているけど、それは愛してないと一緒のことかもしれない。人間はいつも正しくていつも愛おしい。

 ある人間が行った選択や行動は、ある環境において、ある時点において、全て無条件で正しいと僕は自信をもって断言できる。正しさは社会が規定すると思われているが、じゃあ無人島にいる2人が口論をしているときに誰が一体正しさを認めるっていうんだろう。正しさは、その人の中にしかない。ある人間が今までに積み上げてきた知識と体験をもって自由意思によってその行動を決定することの尊さはなににも代えがたい。その行動が自由意思でなされたからにはそれはその時点ではその人にとっては正しかったのである。もっとも、今の自分や他人にとっては正しくなかったことなんていっぱいあるだろうと思う。正しさはただそこにあって、ぶつかり合うこともあるだろうけど、なんら効力をなくすことは無い。法律や倫理は、ただのある一つのグループのルールでしかなく、そんなものに人間の正しさは縛られない。(一応例をあげておくと、人を殺すのは罪だが、死刑や中絶は罪ではない。この日本の法律は別の国だと異なる。) (ぼくの使う正しさという語彙の使い方が気になるのであれば信念と読み替えてもいいかもしれない。なんにせよいわゆる社会的な正しさに意味はない。人間たちは絶対的な正しさを決める議論をするんじゃなくて、互いの正しさを分かり合う対話をするべきなんだから。)

 ぼくは、いろいろな人間の生態を観察しておもれ~と思う(と同時に愛する)と同じように、ぼくはぼくのことも人間のある一個体として観察していておもれ~とおもっている。そういった意味で、人間たちを観察している僕と、実際に生活している僕はよく分離している。ぼくは大体において、観客の気分で、第4の壁の客席側で人間たちを観察して面白がっているみたいだ。朝3時くらいに僕について話しているときに、その会話をしている人が、あなたはいま私を人間の一個体としてみていますか?と聞かれて、びっくりしながらも、その通りだと答えるしかなかった。だから、ぼくは観客席にいる限り、理性的に客体化された人生を送ることができて、その結果として、人々は僕を理性的で安定していると評価しているみたいである。もっとも、こういう生き方を選んだのは自分が傷つかないでいるためなのかもしれない。観客は真には悲しまないし怒らないし、苦しまないで、傷つけられない。
 ただ、ときどきぼくは観客席から引きずり降ろされて舞台に立たなくてはいけないときがある。それは、自分の強い感情の変動が生じたときである。自分の感情について向き合わないといけないほど大きなイベントがあったときには、人間たちを観察している僕は無残にも引きずりおろされて、主役として主体として行動せざるをえず、自分の感情に攻撃を受けてあたふたとしてしまうようだ。

 すべての行動は正しいという理論は既に確立してあるので、次の目標であるところのすべての感情は正しいという理論を、自分のためにぼくのなかでどうにかこうにか組み立てている最中なのである。

 ちょっと、前後半で毛色の違う話になっちゃったから、まとめると、まあ、ぼくは人間が好きってこと。人間と人間の話をするのが大好きってこと。僕にしてはあんまりまとまりのない覚書になってしまったけど、これもまた僕の記憶と記録ということで。

 じゃあ、またね。聞いてくれてありがとう。 





 ねえ、あなたは人間が好き?

 

いいなと思ったら応援しよう!