ぽやぽや思ったこと。
「嫌われちゃうかな…」という懸念は、いくら考えても答えが出るものではない。
すべてが相手の心情や判断に委ねられるからだ。
答えのない問いに考えを巡らせたって自分の中で答えは出ない。
そして人の心はすぐに変わる。
だから、行動の中心に据えるべきはやっぱり自分なんだろうなと思う。
自分が好きなんだったら、そういう行動をとればいいし、それが受け取ってもらえないのならそれまでだということ。
もちろん、相手の立場や心情を察するのはとても大事なことで、それができないと、人といい関係性を保つのも難しいと思う。
でも、それを自分の行動の指針には、しない方がいいのだと思った。
だって、永遠に答えの出ない問いを考えることほどつらいことはないし、永遠に答えが出ないということは、永遠に何もできないということになるから。
やっぱり、法に抵触せず、人に迷惑をかけたり傷つけたりしない範囲で、自分の思った通りに動ける人が、強いのだろうか。
それだったらわたしはずいぶん弱いなあ。
これ、すごくアドラー心理学っぽいだろうなと勝手に思ってるけど、まだ「嫌われる勇気」を読んでいないという、ね。
そもそも買ってすらいない。
ドラマは見た。
当時はよくわからなかったなあ、ということを思い出した。
わたしも半歩くらいは進んでいるのかも。なんてのんきなくらいでちょうどいい世界に生きていたい。話逸れすぎ。
人の目を気にしないなんて無理だし、人の気持ちも考えずにはいられない。
嫌だと思われることはしたくないし、傷つけることもしたくない。気も使われたくないし、そのために気を使いたい。
考えれば考えるほど、自分で言ったことから遠ざかっている。
嫌われたくもない、というか嫌われる要素を出来るだけ減らして生きたい。
好かれるために生きることと嫌われないように生きることって、似てるようで微妙にちがう。
好かれるために生きるっていうのは、相手100%、自分0%な感じがするけれど、嫌われないように生きるっていうのは、自分100%で、でも自分のやりたいことの中に人に嫌われないという条項が入ってるから、選択して嫌われないように生きてる感じ。
嫌われないことが総合的に楽だから、嫌われないように生きるし、そのための労力はわたしの弱さの代償だから仕方ない。
といいつつ、そんなに意識的に人に嫌われないように媚びまくって生きてきてもいないのだけれど。
自分の気持ちに従って生きる、なんて難しい。
本当にやりたいことや好きなものは、あるようで幻かもしれない。
だから、人の心情に敏感になって、誰かを悲しませたり苦しませたりしないように、笑顔に幸せにしてあげられるように、生きるのもありだと思う。
だけど、あんまり人のことばっかり考えて、人のために生きていくと、だんだん人に押し付けすぎちゃったりするから、あくまで「人のためにすると自分が心地いいから」という理由の元で、人のために、人に嫌われないように、笑顔でいてもらえるように、行動したい。
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