見出し画像

傷つくことで、だれかを傷つけずに済むのなら

わたしのだいすきな歌に、SHE'SのLetterがある。
サビの歌詞があまりにもすきで、こればかり聴いてしまうくらい。

僕らは大切な人から順番に
傷つけてしまっては
後悔を重ねていく
それでも愛したり
愛されたいと願っている
あなたを守れるほどの
優しさを探している

できることなら、誰のことも傷つけたくはない。
でも、ふとしたことで、悪意がなくたって、人を傷つけてしまうことがある。

それも、大切な人の方が、いとも簡単に傷つけられてしまう。
それは相手も同じように自分のことを大切にしてくれているからかもしれない。ただ、いくら大切にしあっていても、人と人が関わり合っていく以上、傷つかないというのはむずかしい。

そうであるとしても、できるだけ、傷つけないように配慮することはできる。
じゃあどうやって?と考えたときに、そもそも傷を知らなければ、なにが人を傷つけるのかもわからないよなと、思った。

人を傷つけないように生きるということは、まず、自分が傷つくということではないか。ちょっと自己犠牲的にも見えるけれど。

傷ついてみたって、わからずに傷つけることはたくさんある。それでも向けられた、もしくは運悪く突き刺さってしまった刃物を、引っこ抜いて同じように誰かに向けるのではなく、自分の意思で捨てて、せめて自分はやわらかい毛布のようにいようとする。
すべての人に備わったそういう部分が、きっと人を傷つけないことにつながると、思いたくなった。


・・・

最近でこそあまり気にしていないけれど、ラインの返信には、だいたい「!」やら、「…」やら、絵文字やら、なにかをつけるようにしている。
句点で終わることはあまりないし、何もつけないこともほとんどない。だってこわいじゃん、というのがわたしなりの理由。(すでにお互いをよく知っている親友やガチガチの敬語を使わないといけない相手へのメッセージは例外だけれど)

怖く感じてしまうのは、自分が「。」で終わるメッセージを受け取ると、「怒らせてしまっただろうか」「嫌われたかな」と考え込んでしまうから。そういうめんどうな自分が、怖くなく見えるメッセージをつくらせている。

たぶん、全面真っ黒の怖い文面を普通に文字通りに受け取れていたら、自分がメッセージを送るときも真っ黒で返すのだろう。
でも傷つきたがりな自分がいるから、回りまわって、その先を考えることができるとも思う。

こういうことは、知識として頭に入れることもできる。でも自分が得た知識の分しか、行動としてはふるまえない。ずっと知識ばかり入れていかなければいけない。だから想像することが大切になる。その想像を助けてくれるのは、なにより経験なのではないかと思う。

・・・


弱くて、傷つきやすい自分で生きるのは、コスパが悪いというか、効率が悪いというか、人生の要領が悪くって、損ばっかりしている気もする。

たしかにあながち間違いではないと思う。無知で鈍感でいられるのなら、わたしにとっては、それが一番幸せだと思ってしまう。(それを周囲がどう思うかはわからないし、それで人が離れていってしまうことを流せる鈍感さまでが必要だと思うからかなりの鈍感スキルが必要になる。もしくは憎めない鈍感になるか。)

ただ、弱くて、お豆腐に近いメンタルならば、その弱さやもろさの分だけ、だれかの毛布でもいられる可能性も高まる。

効率じゃないところで、誰かの役に立てるかもしれない。
いや、役に立つというほど目に見えた成果はなくていいのだ。悪意なく発生してしまっていたかもしれない傷を回避できる。それだけですばらしい。

だから、弱くて、もろくて、傷つきやすくてもいいなと思った。そしてたくさん傷つけばいいと思った。それがだれかに向けるやさしさに通じるのなら。
効率のよい生き方とはいえないかもしれないけれど、悪い生き方だとは思わない。

傷ついて、学んで、また一つやさしくなれるのなら、時間はかかるかもしれないけれど、自分のペースでやさしい道をつくっていきたいなと思う。


最後までお読みいただきありがとうございます。 いただいたご支援は、note毎日更新のご褒美として使わせていただきます!