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「怖い」を外に出してみる。(12月19日~12月25日)

1週間分の日記読み返して書くnote。
全体の総括をしてみたり、好きなトピックをひろって話を広げてみたり、1週間分の日記を読んだ感想を書いてみたり。
毎日の振り返りを、さらに振り返ってみる、週末日記です。

日曜日に書くはずの日記を月曜日に書いている。昨日は「語りの複数性」展に行ってきて、おかげさまで日記を書くどころではなかったという言い訳を添えて。

まだまだあの衝撃を引きずっているので、補正がかかってそうだけど、一週間の振り返り。

***

ずっと、心の奥底に横たわっているのは「怖さ」だと思う。そして、いつも急ブレーキをかけてくる。

怖さはいつもいるし、それは私の中で勝手に大きくなって、判断を鈍らせる。本当はこっちの方がいいってわかっているのに、なんだか恐怖に支配されてしまう。それでうまくいかない。

そんなことをずっと考えていたように思う。怖さが言葉として出ていたのは先週だったし、今週の日記を読み返しても、「怖さ」というワードはさして出てこないのに、なぜか絶対にキーワードは「怖さ」だと思った。

きっと今、前を向いて、少しずつ自分のこれからを描いているときに、どこかでストップをかけている自分が「怖さ」なのだ。

怖さは必要で、大切だけれど、それで手足をゆるく縛られているような不自由感がある。怖さを手放せたら、もっともっと新しい景色が見える気がするのに。ずっとつきあってきたような恐怖を簡単に手放せるわけもなく、でも捨てて壊したい気持ちが行ったり来たりしていた。

それならせめて、「怖い」と言ってみようと思った。怖いと言えれば、少しは怖さを外に出せるのではないか。そして、私が怖さを感じるのは人からの見られ方みたいなところだから、怖いと言ってしまえば、少しは見られ方という部分に、自分が安心感を覚えるのではないかと思った。(「怖いと思っている」という見られ方にある程度絞られてくるという安心感と甘えがある)

どうしてこんなに怖いという気持ちがあるのか、それともみんな怖いけど、軽やかに乗り越えてきたから怖くなくなったのか、はたまた毎度とんでもない勇気を出しているのか。

なにが私の怖さの力をゆるめてくれるのかよくわからないけれど、怖さとうまい距離感でつきあっていきたいなと思う。


おまけ

誰に向かって日記を書くのかが、少しぶれているように思う。今の自分、過去の自分、未来の自分、もしくは自分以外の人?

少しずつ、なんだか変な方向に向いている目線を、自分の方向に戻してきた一週間な気もした。

文章を書くとき、自分の言葉で書こうとしても、伝えようと思うと言葉を変換しなきゃいけないところがある。

たとえば、人に読んでもらおうと思って書いていると、近所の中華屋のことを、店の名前では書かないだろう。だってその店を知らない人たちが読む可能性の方が高いから。

そのお店を紹介するならまだしも、そこのチャーハンがおいしかったとか書くために、わざわざ読み手が知らない固有名詞は出さない。ちゃんと「近所の中華屋」っていう。

これが地元の友人なら話はまた別で、逆に近所の中華屋なんて言わずに、店の名前をだす。それはその店を相手が知っているからだし、その方が伝わるから。

普段からこうやってちょっっとずつ、読み手や聞き手のために言葉をチューニングしている。その人の知識や理解にあわせるために。

でもそれって、伝わる言葉ではあるけれど、やっぱり自分のために書いているとは少し言い難い気がする。自分が相手なら、たとえわかる人がいなくても、固有名詞を出すはずなのだ。そういう声を頭では発している。だからその通りに書きたい。

うちの母は~みたいなものも、「ママがさ~」っていうのは、なんだか気恥ずかしい。でも、私が母を呼ぶときはママだから、ママって書くのが、正直でありのままの言葉。普段から「ママ」と呼んでるのに脳内会議を母で行っているわけもなく、脳内でもママはママなのだ。

小さなことだ、ほんのささいな言葉の使い方の話。

でも、自分で読むために書く文章くらい、変なチューニングはやめたらいい。それくらい素直な言葉で書いてほしいと思う。




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