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誰にとっても完璧な世界はないけれど。


金曜日、やっと東京に帰ってきた。

祖母と腰を悪くした母と私と犬で新幹線に乗って、父の家から東京へ。

当然ながら犬以外の重い荷物は私が持つことになる。
小さなスーツケース、自分のリュック、衣類の入ったカバン、朝買ってきた野菜などが入った袋など、両手が埋まる荷物を持って帰ってきた。

電車では座れたし、スーツケースも階段さえなければ重くないけれど、なんだかんだ帰ってから肩甲骨と背中のあたりが少し痛くなったので、まあそういうことだ。

***

駅でスーツケースをゴロゴロしながら歩いていたときのこと。
点字ブロックにめちゃくちゃキャスターが引っかかった。

片手しかあいてなかったので、いちいち持ち上げて回避するのは難しくて、あの小さな突起にぶつかるたびに、足でスーツケースを押してなんとか越えた。

普段だったら大したことはない。たとえスーツケースを持っていてもほかの荷物がなければ問題はない。

ただ、スーツケースを簡単に持ち上げられない場合、意外と些細なところでつまずくんだなあと思った。

途中の駅で、点が2列ほどないブロックがあった。それがものすごく通りやすくて、全部この型だったら…なんて考えてしまうほどには、毎度毎度スーツケースをつまらせた。

さすがに点字ブロックがなくなればいいのになんてことまでは考えなかったし、点字ブロックは絶対に必要だし、なくすどころかもっとさまざまな場所に設置していかなきゃならないものだと思う。

だけどそんな社会に絶対に必要で、撤去どころかもっと増やすべきものでさえ、特定の状況では、少し不便なことにもなるのだなあと思った。

もちろん私のスーツケースなんてその日たまたま持っていたものであり、大した不便も生み出していないのだけれど。


ただ、社会で多くの人に絶対的に良いとか必要だと思われていることだって、特定の少数の人には良くない、やめてほしいと思われる可能性があるのだと思った。

それで少数派に当てはまったために、声をあげ続けても、なかなか広まらない、浸透しない、理解してもらえないことに苦しんでいる人は、まだまだたくさんいるだろう。


公共のことはどうしても、優先順位や多数決で決められがちだと思う。

そうじゃなくても、多い方が普通とか、一般的と言われやすい。

もちろん、数や優先順位での判断が間違っているわけではない。
ただ、そこからこぼれてしまう人がどうしても出てきてしまうという話。

政治や公共的なことからすれば、1つの施策に対してこぼれてしまう人がいることは多少仕方のないことである。

ただ、だからといって、そのこぼれてしまった人を放置してはいけないし、個人的にも排除したりすることはしたくない。

常識だから、多数派だから、一般的だから、という理由で世の中に存在するものを簡単に認めてはいけないと思う。

そのために、私たちが当たり前だと思っていることにも、何か困っている人がいるかもしれないという想像力が必要だ。

そして違和感や困難にぶつかった時に、今あるものが生まれたきっかけや理由、それがどのように役立っているか、もしくは誰かの障壁となってしまっているか。
立ち止まって考えることも、忘れちゃいけないと思う。


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