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「逃げる」ことは、救いだ

 
 
つらい、
しんどい。
 
それが自分から生まれたものであれ、
他の人からもたらされるものであれ、
自分と他人の交わりの中から生まれるものであれ、
つらさ、しんどさは、いつも横たわっている。
 
だから、逃げようと思った。
というより、逃げる道を想像することで、自分を保とうとした。
 
それは、辞めることであったり、もしくは、存在ごと消えてしまおうということでもあった。
 
でも、想像に想像を尽くし、逃げるより、今のほうが、いくぶんマシという理由で、今を選んできた。
正直、ずっと崖の淵を歩いていた。
ふと気を抜けば、吹いてきた風に押し流されて、落っこちてしまいそうな危うさを、ずっと自分の中に抱えていた。

些細な失敗で、それが些細であればあるほど、わたしの心を折るのには十分で。
コンタクト洗浄液を少しぶちまけたくらいで、大声を出してしまうくらいには、わたしの心は疲弊していたのだと思う。
 
何かを楽しむ余裕もなければ、仕事に精を出す気力もなかった。すべてが中途半端。
そう、この1ヶ月を表すには、中途半端という言葉がぴったりだ。

頑張ろうと思えば思うほどに頑張れず、目の前の現実から逃げる方法ばかり考えてしまう。
そうこうしているうに、現実に追いかけられて、迫られて、息が苦しくなる。

どこにも肯定できる自分はいないし、肯定することさえ憚られた。
仕事ができないことを、自分がバカでアホでダメなせいにするしかなかった。

 
全部、逃げだったんだ。
 
そう考えると、なんとか逃げていたなと思う。
どうにか、精神を立たせられるくらいには、逃げていた。
心を現実から遠ざけることで、潰れてしまわないようにしていた。

もしかしたら過剰だったのかもしれないし、もっともっと潰しても大丈夫だったかもしれない。
ただ、今何もなく生きているということは、ひとまず、間違ってはいなかったということでもあるのかもしれない。
 

***

わたしは新しい逃げ方を学んだ気がする。
これを逃げというのは失礼なのかもしれない。
これまでわたしが使ってきた「逃げ」とは違うから。
 
でも、逃げって、マイナスな意味だけじゃなかったのだ。
「逃げてもいい」は、本当に本当に無理になったら、そういう手段も使っていいという、救いの言葉に聞こえていた。
事実、そういう使われ方もきっと多いと思う。
 
ただ、もっと違う意味もある気がする。
今のわたしには、「つらいところに留まり続ける必要はないよ」「幸せになっていいよ」という許しや自分をゆめるめてあげる言葉に聞こえる。
 
本当に本当につらかったら、その場から離れてもいい、何かを辞めてもいい。
それに、自分を苦しさで縛っておかなくてもいい。
何かができなくたって、何かが足りなくたって、幸せで満たされていてもいい。

「逃げてもいい」には、もっとたくさんの意味があったんじゃないか。
「逃げる」って、前向きな意味なのではないか。
 
辛さから解放されるためのすべての行為を、「逃げる」というのなら、それは前向きな意味でしかないと思う。
だって、誰もが辛いままでいいわけがないのだから。
みんながみんな幸せになれないとしても、だからといってみんなが不幸で辛くていいわけではないのだ。

誰しも平等に、辛さから解放されるよう努力をする権利がある。
その努力を「逃げ」だと後ろ向きに見える言葉で縛っていいのだろうか。
 
幸福に向かうことは、「逃げ」じゃない。
いや、「逃げ」でもいい。
ただ、その「逃げ」は間違っても、非難されるべきものでもないし、後ろ向きでもない。
ただただ、誰もが追い求める、普遍的な、前向きな行為だと思う。
 
「たった、それだけ」宮下奈都
を読んだ、4連休最後の夜。
冷房をかけるくらい、暑い夏の日のこと。


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