落ち着いて座れる居場所であってほしい話
前の記事から、場所に入らない/入れないことについて書いています。
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この記事では、前の記事に書いたものを「空間の種類」と「心理的安全性」の視点から書き直してみようと思います。
共空間と縁空間の間
空間の種類についてでいえば、同志社大学の谷亮治先生が「相互の言語コミュニケーションが期待されるか」「物理的集会を伴うか」の2軸で人間の集まる場を共・縁・電・孤の4つに整理しています。
その上で、それぞれが思い思いの時間をそれぞれで過ごす「縁」的空間(物理的集会を伴い、相互の言語コミュニケーションを期待しない空間)を作ろうとした際に、実態が「共」的空間(物理的集会を伴い、相互の言語コミュニケーションを期待する空間)になってしまい、コミュ強しか生き残れないキメラ空間が生まれることがあることを示唆しています。
たしかにそう言われてみると、そういったハードな空間に対峙したことが何度もあるような気がします。自由に振る舞うことを許されるものの、空間には常連客ばかりで、様々な場所で”いつも通り”が行われているみたいな状況です。
当然そのいつも通りには私は含まれていないので、私が入る余白は用意されておらず、私は自分でそこでのあり方や役割を模索していくことになります。それは、私がその空間に居たいと思うからこそであって、そこまでの思いがない人はそっと立ち去ることになってしまうのではないでしょうか。
まずは椅子(心理的安全性)を用意する
そこでのあり方や役割をすぐに見つけることは、難しいように感じます。特にその場所のことをよく知らない新参者は、どういった雰囲気でどういった人たちがいて、どういった役割の隙間があるのかもわかりません。
だからこそ、まずは受け入れる姿勢で、相手に居座る口実になるドリンクや話題の提供をするのが重要ではないでしょうか。
東京都市大学の坂倉先生の「共同行為における自己実現の段階モデル」を見ても、まずは受容されたと感じることがあり、その後に場を共にすることによる所属・仲間意識の発現、その後徐々に周辺的役割行動をとる、としています。
自分の気持ちや体調に嘘をつかずに、いたいようにいられる状況がなければ、よほどその場にこだわりがあったとしても、その不自然さに消耗させられてしまうのではないでしょうか。
まずは、居てもいいことを新参者自らが理由付けしなくても良いような工夫をした上で、スタッフや常連さんの方から話しかけたり、適度に放っておくことで場や経験を共にしていけるといいのかもしれませんね。
その中で、空間の工夫や会話を含めた様々なところで共通点を見つけていけると、それがとっかかりになって座り心地が良くなっていくのかもしれないなと思いました。
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