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【小説】『うまれた』第7話

 やっと土日がやってきた。
 わたしは、平日よりも断然、休日のほうが好きだった。
 やることは変わらない。むしろ、夫がいるから、昼間藍奈が眠っている間、眠っているわけにもいかないし、頼まれたわけではないけれど、ついくせで夫の分のコーヒーを淹れてあげたり、お菓子を出したりしてしまう。体力的には一人よりも夫がいるほうがつらいのかもしれない。
 でも、夫が家にいてくれれば、会話ができる。おしゃべりができる。
 笑いが家の中に咲くこともある。
 土日は、わたしがまだ出歩けないのもあって、夫が買い出しに行ってきてくれ、頼めば昼ご飯と夜ごはんの支度をしてくれる。掃除も分担して行ってくれる。
 もともと、共働きだったから、産後の家事の分担はとても楽だった。夫も生活をするためにどんな家事が必要なのかは理解していたし、わたしが担当していた部分、自分が担当していた分とちゃんと把握している。藍奈が生まれてからは、わたしの担当していた家事を少し彼のほうにもっていき、あとは育児の部分の担当を分ければいいだけだった。
 藍奈を産む前は、それですべてうまくいくと思っていた。
 

 週末の土曜日。なかなか平穏な一日だった。夫は買い物でわたしの好物のみたらし団子を買ってきてくれたし、藍奈も昼間はぐずることなくよく眠ってくれた。平穏に、何事もなく一日が過ぎた。
 しかし、夜中、みんなが寝静まった時間になると、やっぱりぐずぐずと夜泣きをした。
そして日曜になり、土曜の睡眠不足が祟ってきたのかもしれない。夫が作ってくれた昼ご飯のやきそばを食べながら、わたしは、どこから湧き上がっているのかわからないイライラを募らせていた。
 土曜の夜中のぐずりを、藍奈はまだ引きずっていた。寝つきが悪い。眠りが浅い。いい加減眠いはずなのに、藍奈は寝ない。
 寝ないということは、少しでも藍奈の気に入るようにできなければ、すぐに泣いてしまうということだ。
 今日は抱っこさえされていれば満足、逆に言えば、一時も抱っこされないときがあってはならないようで、朝からずっと小さな体がわたしの腕の中におさまっている。
 痛い。いい加減、腕が重い。
「じゃあ、あとはやっておくから、ハツは藍奈を抱っこして座ってのんびりしててよ」
「うん……ありがとう」
 この言葉のやり取りが、朝から何度夫との会話で交わされたのかわからない。
 食べ終わったお皿も、全部夫が片してくれた。食後のノンカフェインのお茶もいれてくれる。
 そこまでしてくれる夫。育児に協力的で優しい夫なのに、最後のたった一言、のんびりしててよという、そんな小さな一言を流せず思考の中にとめてしまって、モヤモヤしている自分がいる。
 モヤモヤというそんな優しいものではない。ひっかかった言葉は、そのまま、ささくれだった心から、大出血を引き起こしてしまいそうだった。
 指先の小さなささくれ。これ以上引っ張ったら、絶対に血がにじむ。赤い血液がとめどなく流れ出て、痛い思いをする。わかっているのに、ひっかかった言葉を皮切りに、とめどなくあふれそうになる。
 考えてみれば、どうしてわたしはずっと藍奈を抱いているのだろう。
 抱くのは夫にだってできる。
 いや、だって、夫はわたしの代わりに家事をしてくれているではないか。
 だから、わたしが藍奈を抱くのは当然なのだ。だって藍奈の母親はわたしだから。
 でも、夫だって藍奈のたった一人の父親ではないか。
 終わらない藍奈の泣きに付き合っているのは、もう十分じゃないか。わたしだって、一つの作業を集中して初めから終わりまでやり遂げることがしたい。
 掃除でも料理でも何でもいい。別のことがしたい。
 いや、それは誰でもできることだ。わたしでなくても。藍奈のことは、わたしじゃないとできないことだから、わたしがやらなければならないのだ。
 本当にそうなのかな。だって、わたしは藍奈を泣き止ますことができてなんて、ない。
 わたしは、藍奈が泣き止むまで、ひたすらに付き合っているだけだ。
 いつも、藍奈のことを考えている。
 藍奈が眠っているときも、ちゃんと眠っているのかな、上を向いているかな、毛布が口や鼻を覆っていないかな、と気にかかるし、すべての手を尽くしても藍奈が泣きやまない時は、永遠と、どうして泣いているのだろう、どうしてわたしは藍奈を泣き止ませてあげることができないのだろう、藍奈のことを産んだのはわたしであるはずなのに、と、どうしてよいかわからず、途方に暮れた。
 しかし、夫は違った。
 藍奈が眠っていれば、全く気にかけず自分の好きなこと(好きなテレビ番組を見て大声で笑ったり、テレビゲームをし始めたり。わたしは、藍奈にテレビのとめどなく流れ続ける音と映像はまだ早いと思って、夫がいないときは極力テレビから藍奈を遠ざけていた。)をしていた。
 お風呂もそうだ。
 藍奈を上手にお風呂に入れてくれる。
 しかしそれでおしまい。
 お風呂から出た藍奈を受け取って、バスタオルで拭って、おへそを消毒して、ボディクリームを塗りこんで短肌着を着せ、コンビ肌着を着せ、ロンパースを着せ、スタイを付けるのは全部わたしの役割なのだった。
 夫は自分のやることをやったら、おしまい、機嫌よくビールなんかを飲み始める。
 妊娠前に買った、わたし専用のノンアルコールのビールが冷蔵庫に数本ストックされていたが、わたしは飲む気になれず、一本も本数は減っていなかった。
 いつまた藍奈が泣き出すかわからない、いつ藍奈がわたしを呼ぶかわからない、そんな状況で自分のための時間を作り出す気持ちになれなかった。
 ほら、ハツもちょっとはゆっくりしたら? テレビでも見ようよ。
 夫が誘ってくれる。うなずいて笑顔でソファーに座っている夫の横に行くが、そういうときでも必ず、ソファーの真横にハイローチェアを置いた。藍奈が泣いたときに、すぐに対応できるように。
 夫はやることをやってくれている。わかっている。
 好きなテレビを見て、ゲームをして、ビールを飲んで、何が悪いのか。
 考えても全くわからなかった。
 しかし、どうしても、夫のそれらの行為すべてが気にかかるのだ。
 グルグルと回り続ける思考をとめようと、わたしはぐっと力強く目を閉じた。CDのオルゴールの音色に耳をそばだてた。
 これ以上何かがあふれて出てこないように、わたしは考えるのをやめた。
 夫がどれだけ育児に協力的か、わたしはどれほど恵まれているのか、夫に感謝すべきなのか、誰のおかげで生活できているのか、お金を稼いできてくれているのは誰なのか、自分のことを戒めるように、考えて、傷口を抑え込もうとすればするほど、ささくれを思いっきり引っ張ってしまいたい衝動に駆れるからだ。
 音楽を変えよう。
 藍奈を抱っこしながら、モーツァルトの曲をオルゴールで奏でていたCDを取り出した。 
 このCDは赤ちゃんがよく眠れると評判のものだ。夜泣きがひどくあまりにつらい夜に、片手でいじっていたスマホですがるような思いでぽちっと、買ってしまったものだった。が、効果はというと、わたしが眠たくなってしまうばかりで、藍奈には一切効いていないようだった。
 ブックシェルフからラフマニノフのCDを取り出して、プレイヤーに入れる。ソファーに深く沈み込んで、ラフマニノフのピアノ協奏曲に目を閉じて耳を傾ける。
 楽器はピアノ以外まともに引けなかった。ピアノも、そこまでうまくなる前にやめてしまった。自分は聴くほうが好きだと気が付いたからだ。
「あれ、CD変えたの」
「うん……藍奈にはあのCD効果ないみたいだし。わたしが聴きたいのを聴くことにしたの」
「いいね、ラフマニノフ、久しぶりだなあ」
 洗い物を終えて戻ってきた夫が、ソファーの横に座る。手にはホットコーヒーの入った分厚いマグカップがある。
 コーヒーの香ばしい匂いに癒される。本当は、その苦味を口の中で味わえば、もっとリラックスできるのだけれど。
 ふっと鼻から息をはいて、もう一度、音に意識を集中させる。
ラフマニノフは久しぶりだ。いや、久しぶりどころの話ではない。すべてにおいて、藍奈を優先せず、自分の好きなものを優先したのは、産後初めてのことかもしれなかった。
 そうだ、わたしはラフマニノフが好きだった。
 ピアノの音色が好きだ。
 オーケストラの多種多様な楽器の音色が重なるのもいい。
 クラシックを聴くと、ほかのどんな音楽よりも抽象的で、包み込むように体にメロディーがストーリーをもって染み込んでくる感覚を覚える。
 それが、わたしは大好きだ。
 夫と出会う前は、ひとりでよく、クラシックのコンサートを聴きに行ったし、夫と出会ってからは、夫も生演奏が好きだから、二人でよくクラシックのコンサートを聴きに行った。映画を見に行くことと同じような感覚で、コンサート会場に足を踏み入れた。
 はっと瞳を開ける。
 腕の中で眠っている藍奈を見つめる。
 藍奈は、気が付けばうつらうつら、目を閉じ始めていた。時たま、びくっと体を震わせ、そのせいで目をぱちっと開けることはあるが、すぐまた眠りの中に落ちそうになっている。ようやっと、眠る気になったらしい。
「もう、生演奏を聴きにいくのは無理なんだね」
 こらえきれず、ポロリと口を出た。それから、自分の発言に驚いて口をぎゅっと閉じた。
 今の、なんだか藍奈が邪魔みたいな言い方。
 違う、そうじゃなくて、そういうことを言いたかったんじゃなくって。
 うまく言葉がまとまらないまま、黙り込んでいると、夫ののんびりした声が先に響いた。
「そうだなあ、次、ハツが聞きにいけるようになるのは、藍奈がだいぶ大きくなってからだろうなあ……あ、でも、ファミリーコンサートみたいなのって、確かやっているよね。赤ちゃん連れの人専用のクラシックコンサート、とかさ。そういうのに行ったらいいんじゃないかな」
 夫の言葉に、そうだね、とあいまいな笑みを浮かべてうなずいた。
 それから、また、目を閉じる。
 音楽に集中しているふりをした。
 本当は別のことでいっぱいで、ラフマニノフの繊細で優しく、荘厳な音の重なりに集中するなんて、もはや無理だった。
 夫は当然のように、わたしと、藍奈と自分、三人でいく生演奏のコンサートを想定していた。
 わたしは?
 わたしは、わたし一人だけのことを、考えていた。
 藍奈が安からな寝息を立て始めている。
 わたしの腕の中で、それこそ、人から見たら天使の寝顔というやつだろう、気持ちよさそうに眠っている。
 相変わらず、藍奈は体温の高い子だ。触れている腕が熱くなって汗ばむほどの体温をもって、ふうわり柔らかく、すべてをわたしに預けてきている。
 その重みと熱さに、潰れてはならないと思った。どうしてこれほど無防備に、何の疑問ももたずわたしに体を預けてくれるのか、不可思議なことと思わないように、きゅっと藍奈を抱きしめた。
 わたしは、藍奈の母親だ。

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