ミュージックポートレイト(4)

「異国の人」
 
 わたしが木彫刻の世界に入った頃は、まだ徒弟制度の習慣が色濃く残っていた。弟子の生活は楽なものではなく、朝の雑巾がけから始まり、毎日が雑用と、師匠や先輩達の使い走りで、すぐには彫刻刀を持つことができなかった。それができたのは入門してから三カ月程が経ってからだった。日々は相変わらず雑用に追われながら、与えられた彫刻刀はお古で、数も少なく、指示された仕事は単純なことばかりだったが、それでもわたしは、夢に向かっている確信と、生きている実感で、身も心も充実して嬉しかった。

 わたしが入門したT先生の所には、先輩達が三人居て、わたし達四人は窓に向かって横並びに座り仕事をした。当時は民芸ブームの直中にあり、作る物は贈答品や土産品の数仕事が多かった。始業のベルと同時に、一斉に同じ物に取り組み、黙々と彫り続けた。そして、一日が終わると、それぞれの机の上に彫り上げた製品の山ができた。彫刻刀に慣れるには数仕事が最適で、おかげでわたしの腕も着実に上がっていったのだが、同時にそれはとてもシビアな現実でもあった。同じ仕事をしていれば、仕事ができるできないは、その山を見れば一目瞭然で、いつまでも低い山しか築けない者は手当も上がらず、肩身も狭くなっていってしまう。そこで、数仕事は自然ときつい競争となり、当然ながら新米のわたしも、高い山を築くことがなかなかできなかった。それでも半年も経った頃には、仕事によってはわたしもそこそこの山を築くようになり、時には一品物を任せられるようにもなっていた。そんな時、事故が起こった。それは大振りな楕円形の掛鏡を彫っている時だった。鏡が入る内側を、刃巾七分の丸刀でしゃくり削っていた時、その刀がすべり、わたしはその勢いで、左手人差し指の第二関節を思い切り突いてしまった。通常は彫刻刀を筆を持つような持ち方で作業をするのだが、大きな力が要る時は、刀を持ったままその柄を胸で押して使うこともあり、この時もそうしている時だった。すぐに病院へ行き手術を受けたのだが、私の指は関節が壊れ、切れた三本の筋をつなぐことができず、元には戻らないとの診断だった。以来わたしは左手人差し指屈折不能というハンデを負い、親指と人差し指で物をつまむこともできなくなってしまった。この怪我は日常や彫刻刀に多少の不便をもたらしたが、落胆する程ではなかった。が、何より切なかったことは、ギターが以前のようには弾けなくなってしまったことだった。左手の人差し指はギターのポジションを押さえるのに重要な指で、それが不自由になったことは、ギタリストとしては致命的だった。それまでのわたしは、唄うことよりもギターを弾くことの方が好きで得意だと自負していたのだが、最早、ギターの独奏は諦めざるを得なかった。それでも、音楽が好きで音楽から離れられなかったわたしは、独自な指使いを工夫しながらポジションを探し、ギターをリカバーしようとしたのだが、やはり思うようにはいかなかった。そうして、ギターだけでは満たされない思いが歌に向かうようになり、歌を書き、より唄うようになった。わたしの指は今も不自由だけれど、わたしがシンガーソングライターに成れたのは、正に怪我の功名だったのかも知れない。

 木彫刻の修業は、彫り三年、研ぎ四年、お礼奉公一年といわれ、少なくても五年は師の下に居ることが慣わしだった。そして、この世界では教えられないことが二つあると言われ、それは刃物の研ぎとこらえ性で、研ぎは自分でやりながら覚えるしかなく、しかも、彫刻刀の種類は数限りなくあり、研ぎを習得することは彫ることよりも難しく、それゆえ彫り三年、研ぎ四年といわれている。こらえ性は堪え性と書く通り、意地を張って忍耐することで、今はあまり聞かれなくなった言葉だが、これはどんな仕事でも誰にでも、実は求められている。よく、自分に負けるな、と言われるが、この自分に負けない力こそ意地という堪え性で、これはやはり自分で頑張るしかない。そして、新弟子に求められるのは、素直な心とよく動く体だ、と、ことあるごとに言われたのだが、わたしは素直な心が少なく、よく動く体と、もっと動く口を持ち、意地はあっても忍耐力が乏しい若者だった。

 入門から一年近くが経った時、T先生の所では沢山くる注文に応えようと、一度に十数個も荒彫りができる彫刻機を入れることになった。まだ覚えたいことが色々とあり、第一に仕事が機械に先導されるなんてモノヅクリとして間違っていると思ったわたしは、それをやめてくれるよう師匠に何度も直談判をした。が、それは聞き入れられず、最後は「お前にとやかく言われる筋合いはない!そんなに気に入らないならここを出て行け!」と破門を言い渡されてしまった。

 わたしはその後、縁あって高橋貞夫先生の弟子となり、二十才から二十五才までを大町市で過ごした。当時から大町市や白馬村は木彫刻が盛んな地で、それぞれの工房には、わたしのような弟子達が十人程いた。わたし達は「弟子の会」と称して、時々集まっては遊んだり語ったり、情報交換をしながら互いに刺激し合った。皆、出身地や入門の動機は様々だったけれど、木彫家への夢と、現実の貧しさは共に同じだった。今振り返ってみても、あの頃のわたしはどうやって暮らしを立てていたのか不思議な思いなのだが、若さに任せて貧しさの中で夢を追いながら生きていたあの頃こそが、青春の旬だったような気がする。弟子時代の手当は少なく、わたしは仕事の片手間にいろんなことをしていた。友人知人から頼まれて物をこしらえたり、小物を店に持って行ったり、現場作業の人足になったりもした。そんな中で当てにしていたアルバイトが、ギターの弾き語りだった。それは、下宿先で知り合った高校の先輩が紹介してくれたもので、松本の本町通りにあったラムージュという店に行き、週に二日、夜八時から十一時まで唄うことだった。当時はまだカラオケがなく、店にはピアノが置かれ、時々生演奏があったり、BGMとしてレコードがかけられたりしていた。わたしは店の奥隅で椅子に座り、聞いてはいない人達の中でただひたすら唄っていた。わたしは現在のように夜の酒場を騒々しくしたのはカラオケだと思っているのだが、あの頃の店は今のパブのような賑やかさはなく、明るく楽しく元気よく、といった歌よりも、わたしのような、暗くつまらなくおとなしく、悲しく切なくやるせなく、というような歌の方が似合っていたように思う。ラムージュは本町通り商店街の地下に在り、駅前の歓楽街と違って、表の店がシャッターを下ろすと人通りも少なく、ここは知る人が知る隠れ家のようで、お客も静かに飲んでいる人が多かった。マスターはわたしの歌を気に入ってくれてはいたのだが、お店柄シャンソンをリクエストされることがよくあった。そこでわたしはより多くのシャンソンを覚え唄うようになった。そんな中で、わたしの心に深く入り込んだ歌が、ムスタキの「異国の人」だった。ムスタキはエジプト生まれのギリシャ人で、歌う哲人と言われ、唄声はボソボソとしていて歌手らしくはないが、詩の内容が哲学的で、シンプルなメロディーのリフレインが多く、その風貌も手伝って、何か、仙人めいた古老の説法を聞いているような気がする。「異国の人」は、「夢を追い続ける者は傷付き汚れボロボロとなり、その心を満たすものは夢以外に何もなく、その姿はまるで異国の浮浪者のようだ。でも君は、ぼくが青春の頃に探し続けたあの王子だった。」と歌われ、特にわたしは、「君の心は酒でも女でもそれだけで満ち足りはしない」の歌詞にグッと引き込まれた。当時のわたしは木彫家に成ることだけが唯一の夢で、唄うことも生きるための方便の一つにすぎなかった。でもこの歌は、若く貧しく、生意気で意地っ張りのわたしの心にぴったりとはまり、わたしの大切な歌の一つとなった。以来、この歌を、座右の銘ならぬ座右の歌として唄ってきたのだが、あれから時が経ち、わたしは今ここにこうして、一介の木彫家と成り、時々はステージに立つ者とも成っている。振り返ってみれば、これまでの道は、自分で選び自分で歩いて来たようにも思えるのだが、それと同時に、わたしはあの時に会ったあの異国の人に連れてこられたような気もしている。

 わたしの中のあの異国の人はいつも風の中に居た。それも、季節を吹き渡す一瞬の強風の中に、気配だけがかすめた。風が季節をめくり、季節が年を巡らせ、年が歳月を記し、、時が流れ、時は何かをもたらしながら何かを流し去って、わたしをここまで運んできた。そして、振り返ればこの道を歩いてきて四十五年余りが経ち、わたしはいつの頃からか、あの異国の人を見かけなくなってしまった。あの人はどこへ行ってしまったのだろう。あれは、貧しくても落胆せず、行く先が不安でも怯えもせず、ただ一心一途で夢を追いかけていた若者だけに見えた幻だったのだろうか。それとも、わたしが憧れていたあの彫刻家の伝説だったのだろうか。いや、まてよ…。夢は他人が見せてくれるものではなく、自分が自分で見るものだ。とすると、あの人はどこかの誰かではなくて、実は夢を追いかけていた自分の投影、いや、自分の願いから生まれた自分だったような気がする。わたしがあの人を見失ったのは、いつの間にかわたしが、他に映るわたしに自己満足をするようになり、自分自身の中にあこがれの自分の姿をはっきりと描くことを忘れたからだ。わたしは今、若いころに戻りたいとは思わないが、あの頃にしていたであろう遠い目つきを取り戻して、わたしの先を歩く異国の人をもう一度見つけたいと願っている。幾ら歳を取っても、決して忘れてはならないことは、憧れの自分探しだ。夢とはそれなのだ。わたしはまた改めて自分の先に憧れの自分を描き、異国の人とも成って、静かに歩いてゆこうと思っている。

(2015年 春)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?