ミュージックポートレイト(3)

「合唱組曲・山に祈る」

 わたしは高校でもトランペットを手にしていたかったのだが、入学した県ヶ丘高校にはブラスバンド部がなく、それが叶わなかった。そこで、文学部に入ろうか、と見学に行ったのだが、そこには難しそうな人達が難しそうな議論をしていて、声を掛けづらく、二の足を踏んでしまった。学校は、文系、理系、体育系、の活動がそれぞれに盛んな高校で、他にも色んなサークルや同好会があったのだが、どれもこれといって当たらず、わたしは三学期になるまで無所属だった。

 ある日、友人の熱心な誘いに負けて、音楽部を見学に行くと、皆で発声練習をしていた。「キチもやってみろよ」と言われ、一緒に「ハッハッハッハッハー!」とやっていると、意外なことに誰よりも高い声が出てしまった。わたしはそこで先輩達からも強力に勧誘され、音楽部の一員になった。

 わたしはそれまで、人前で歌を唄うことなど考えたこともなく、唄える人間だと思ったこともなかった。それは、自分の声はいい声ではないと思い込んでいたからだ。そう思ったのは小学校三年生の時だった。当時、日本中にウィーン少年合唱団のブームが起こり、全国各地の小学校で合唱団を持つことが盛んになっていた。わたしの小学校も同様で、そのために東京からツツミという先生がやって来て、体育館に集められた子供達の声を選別した。「名前は?」「誕生日はいつ?」「なんの勉強が好き?」などと簡単な質問をしながら、「ハイッ1」「ハイッ2」「ハイッ3」と、良い声の順として、123と振り分けていった。今にして思うと随分なやり方だけれど、わたしは3となり、その時以来、わたしは自分の声が良くはないと自覚するようになった。音楽は好きで、音楽をしたり、好きな歌を聴いたりはしていたのだが、自らが唄う気はなく、その能力も無い人間だと思い込んでいた。

 合唱は、小学校でも中学校でもしたはずなのに、その記憶がないのはなぜだろう。皆で唄ったのは校歌くらいしか思い出せなく、それも嫌々唄っていたような気がする。やはり、唄うことに関心がなく、楽しめなかったからだと思う。それが高校の音楽部で一変した。合唱部は運動部に似て毎日が練習で、いつも発声練習から始まり、その仕上げがカデンツァ(終章ハーモニー)だった。それは各パートが違う音を出し、その和音進行を美しく整えてゆく練習だった。わたしは声を出しながら、自分の声が皆の声と重なり交じり溶け合い、異なった色の和音の響きが動いてゆくことに感動しながら、その中に包まれていることに快感を覚えた。カデンツァは声の調弦のようなもので、各パートの音程と音量が揃う程美しく響き流れて、わたしは人の声の持つ包容力にすっかり捉われてしまった。声が合うことは息が合うことで、息は自らの心と書く通り、そんな時は心までもがそこに合ってしまう。合唱の魅力は正にここにあると思う。わたしがそれを初めて体験したのは、合唱組曲「山に祈る」だった。この楽曲は冬山に挑んだ若者達の物語で、ナレーションと歌と台詞で構成され、登山に逸る心や、遭難して立ち向かう勇気や、最後は力尽きて母に詫びながら死んでゆく悲しみが、ドラマチックに描かれていて、わたしは生まれて初めて、歌を唄うことの素晴らしさと喜びを知った。

 高校の音楽部には顧問として音楽の先生はいたが、先生が指導することはなく、部活の全てが三年生の指揮者と部長を中心に、部員だけで運営されていて、わたし達は練習に遊びに、実に自由闊達だった。青春と言えば、わたしは高校時代を思い出し、今もこうして歌をしている自分を振り返ると、「山に祈る」は、唄うわたしを生んだ母のような存在となっている。が、あれ以来その母に会っていない。
 
 
「別れのサンバ」
 
 高校生の頃はフォークソングブームの真っ只中にあった。ギターが弾けたわたしは、音楽部に所属しながら、他の友人達とグループを作り、流行りの歌を唄いながら、歌も書くようになっていた。「娘色涙色」はその頃に書いた歌だ。二年生の三学期に音楽部の指揮者になったことから、わたしの生活は益々音楽一辺倒となった。そして、音大進学の希望を持ったのだが、他の教科をおろそかにしたせいで受験に失敗し、卒業後は浪人の身となった。そして、この浪人時代の一年間が大きな転機となり、木彫刻の道を歩くことになった。

 わたしは十九才で木彫刻の道に入ったのだが、丁度その頃、長谷川きよしが「別れのサンバ」でブレイクした。わたしにとってこの曲は大きな衝撃だった。唄は伸びやかで媚が無く突き放してくるようで、ギターは機関銃のように正確に打ち刻まれて、そのコードも複雑で難しく、それまでのフォークとはまるで違っていた。歌の内容も大人びてなまめかしく、これが自分と同じ十九才の手によるものだとはとても思えなかった。それ以来わたしはきよしさんのレコードを集め、その歌をコピーするようになった。実は、彫刻刀を握ることと、ギターを弾くことは、右手の使い方が正反対で、それを両立させることはとても厄介なことだ。彫刻をする時は、指先だけで体重を支える程に力が必要で、爪が伸びていると彫物に傷を付けてしまうから爪は切らねばならず、反対に、ギターを弾く時は、指先を微妙な力で動かし、爪が無ければ音が出せない。他の世界でも、繊細な作業をする人は力仕事を避けるというのはよく聞くことで、本当にそうだと思う。それでもわたしは、木彫家を夢見ながら、きよしさんにも憧れて、彫刻刀とギターに取りついていた。そして、そんな六年程が経って、わたしは独立した。それは、木彫家として生きてゆく自覚ができたと同時に、きよしさんにはギターも歌もとても敵わず、音楽の世界では自分の出番はないことを納得する期間でもあった。それでもわたしは長谷川きよしの大ファンであることに変わりはなかった。
 そんなきよしさんに会えたのは「別れのサンバ」から十五、六年が経った頃だった。当時は友人が立ち上げた福祉施設の手伝いもしていたのだが、そこを支援するための催しとして、長谷川きよしコンサートが企画され、わたしは自ら希望して、きよしさんの世話係となった。そうして、運転手や案内や説明などをしている中で、わたしはきよしさんの大ファンで大きな影響を受けながら、音楽活動もしてきたことを話し、そして、一つのお願いをした。「…それで、お願いというか、夢があるのですが、今回、前座をさせて頂けませんか?」すると、「いいよ」と承諾してくれた。当日のコンサート会場は、あがたの森講堂で、ここはかつての旧制松本高校の校舎の一部で、一帯の公園と共に市民に開放され、今は松本のシンボルともなっている。コンサートは盛況で、わたしは緊張しながら夢見心地で前座を務めた。そして、コンサートが終わり、楽屋で雑談をしながらお礼を言うと、きよしさんが「きちさんプロになれよ」と言ってくれた。青天の霹靂だった。それまで、きよしさんを師と仰ぎ、花とも憧れて、追いかけをしてきたけれど、そのおかげで自分の歌のスタイルができてきたと同時に、この人が居るからと、自分に見切りをつけ諦めもできていたはずが、その当の本人が認めてくれた一言でわたしは舞い上がり、わたしは、またわたしを呼び戻してしまった。それからは木彫をしながら、積極的に音楽活動もするようになり、遅蒔きながらプロにもなれた。

 わたしは今も、しょっちゅう「別れのサンバ」を弾いている。そして、この歌が唄える間はまだ大丈夫だろうと、歌活動の目安としている。あれから、きよしさんとは親しくさせて頂いているのだが、どうしても友達のようにはなれない。わたしにとって長谷川きよしはそれ以上の存在で、現在も時々その実演を目にすると、きよしさんを超えるアーティストは未だに出ていないな、とそう思う。

(2015年 新年)

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