ミュージックポートレイト(2)

「夜空のトランペット」

 中学生のわたしは、特に音楽と国語が好きな生徒だった。小学生の頃は教科に好き嫌いはなかったのだが、中学生になると勉強もこ難しくなり、思春期の自我の目覚めと共に、心の傾向も感じるようになった。心の傾向である血の騒ぎは、持って生まれものに因るものかも知れないが、その時々に関る指導者の影響がやはり大きい。思春期や青春期という春は、人生に於いても美しく感動的な季節だ。あの頃の思い出は、あの時に咲いた小さな花や芽生えた若葉のようで、今も眩しい。しかし、振り返ってみると、あれは樹達のそれのように、花や若葉が目的ではなく、それは成長の一過程のものであり、全ては実を結ぶための期待と努力だったように思う。人の実はいつ成るのか何が成るのか分からない。それでも、子供達にとって先生は、そんな若木を慈しみ、花を若葉を愛でてくれる存在であってほしいと思う。わたしが音楽と国語の好きな生徒となり、大人になってこうして僅かながらも歌という実を成らせることができたのは、中学生の時にそんな先生に巡り会えたからだと感謝している。

 音楽は田中春洋先生で、大学を出たばかりで若々しく、情熱とユーモアにあふれていた。先生はいつも同じ様な服装できちんとネクタイを締め、スリッパをペタペタと鳴らしながら慌ただしく教室に入って来た。そして、授業を楽しく面白く展開した。「今日は作曲家について勉強します。みんなはどんな名前を挙げられますか?そう、沢山いるね。その中で古典派と呼ばれる作曲家達がいます。それは、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの五人だ。これは古い順に並んでいて、大切な名前だから覚えておくように。テストにも出るぞ。そこで、覚え方があるから教えよう。それは、バッハヘガデルハイモーベンだ。分かったか?よしッ」わたし達は大笑いしながら、一回で覚えてしまった。また音楽用語も、フェルマータはサルマータやや長く、メゾピアノはヘソピアノややまん中に、などと言い、音楽の授業はいつも笑いが絶えなかった。ある日のこと、授業で「簡単でいいから何か曲にして書いてくるように」と宿題が出された。わたしはギターとハーモニカを使って三十小節程のメロディーを書いて後日提出した。すると先生はそれを「きちがこんな曲を作ってきた」と言って、即興で伴奏を付けながらピアノで演奏してくれた。わたしはメロディーしか書いてなかったのに、ピアノから流れた曲は全く別物で、本物の音楽になっていた。「きちやるじゃん」などと級友達からひやかされながら、わたしはとても嬉しかった。宿題を提出した者がとても少なかったからだけれど、先生がわたしの小さな音楽の芽を大きくして見せてくれ、それを皆の前で褒めてくれたあの日の授業の一コマが忘れられない。わたしはあの時に書いたメロディーを今も覚えている。

 中学二年生になった時、わが旭町中学校にブラスバンド部が新設され、わたしはその第一期生になった。入部した動機は、当時ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」が流行っていて、それに憧れてトランペットを吹きたかったからだ。その頃はビートルズが世界を席巻し、友人達も騒いでいたのだが、わたしはそれには染まらなかった。それよりもニニ・ロッソのトランペットの方が好きだった。あの音色と旋律は、糸を引いて光って落ちる雫の連続のようで、どこか切なく哀愁があり、なんとも言えず心地良かった。トランペットは楽器の姿も、吹いている人の姿も格好良く、わたしも早くそうなりたかった。ブラスバンド部の顧問は勿論田中先生で、練習も楽しく、中学校生活はすっかり部活中心となった。わたしはズボンのポケットにいつもマウスピースを持ち歩きながら音を出す練習をし、弁当は昼と夕の二つを用意して学校に通った。部活は五時頃までだったが、自主的に居残っていることが多く、帰りはいつも遅くなった。

 ある日、部活を終えて教室に戻ると、床に座布団が一つ落ちていた。わたし達はよく教室にいたずらを仕掛けては帰り、翌日その結果を面白がるということをしていたのだが、わたしはほんの出来心から、その座布団に教室にあったボンドを塗り、机に貼り付けていつものように帰った。翌朝教室に行くと、人垣ができていて、その真ん中でKちゃんが泣いていた。「誰かがさ、Kちゃんの大好きなおばあちゃんが作ってくれた座布団にいたずらをしたんだって…」わたしはそれを聞いてひどく狼狽した。実は、Kちゃんはわたしの初恋の人だったからだ。それは誰にも言わず、わたしの一方的なものだったのだが、好きな女の子を傷付けてしまったことを心から後悔した。あの時の教室は暗く、座布団があった場所が教室の端で、まさかKちゃんの物だとは思わなかった。放課後、わたしは人目がなくなるのを見計らって、「あれはオレがやったんだ。ごめんな…」と謝った。するとKちゃんは「ヤダーッ」と言って走り去ってしまった。それ以来Kちゃんはわたしの顔を見ると、「フン!」と顎をしゃくり上げツンツンするようになった。それでもわたしはそんな仕草すらも、女らしくて可愛いと感じていた。

 Kちゃんは女鳥羽川沿いの天ぷらや屋の娘で、背がスラリと高く、栗色がかったサラサラの長めのおかっぱで、前髪を横に止め、よく笑い、おっとりとしていた。わたしがKちゃんを好きになったのは、国語の授業の最中だった。国語は小松先生で、チョークを何本も折りながら、黒板いっぱいにいろいろと書き、熱っぽい授業をするベテランの先生だった。その日の授業は草野心平の詩「富士山」についてだった。それは草野の代表的な作品で、そこには少女達が草原で遊び戯れている風景が書かれていた。少女達はウマゴヤシの花を集め、それを繋いで花輪を作り、それで縄跳びをする。すると、その輪の中に少女と富士山が、入れ替わり立ち代わりに見え隠れする。そんな内容だった。そして、その詩の最後は「耳にはヨシキリ、頬にはヒカリ」の二行で終わっていた。授業が進み、先生が詩を朗読して、この二行をもう一度ゆっくりと繰り返した。そして「ミミニハヨシキリ、ホホニハヒカリ。これはどういうことなのだろう。何か意見はないか?」と皆に尋ねた。暫くしてわたしは手を挙げて答えた。「少女たちが眠っちゃったってことだと思います。」「そうだ、その通りだ」と先生はわたしを褒めてくれた。そして「文章というのは、そこに書かれているものだけが文章じゃあない。詩は特にそうで、文章と文章の間、その行間に隠れているものを見つけることが大切だ」と先生は言った。わたしはその時に詩を理解するようになり、更に好きになり、詩を書くようにもなった。わたしは授業を受けながらこの「富士山」の情景の中にまどろんでいる少女達が見えるような気がしていた。そして、ふと目を移すと、私の左手前の窓際の席に、Kちゃんが頬杖をついて鉛筆を走らせていた。窓から注ぐ午後の陽射しは逆光となり、その横顔をセピア色のシルエットにしていた。栗色の髪先が金色に透けて、色白の頬から顎にかけて、その顔を縁取るように、産毛が連なって光っていた。「きれいだ…」と思ったその瞬間に、わたしは恋をしてしまった。初恋だった。

 座布団にいたずらをして、好きなのに嫌われてしまったわたしは、なんとか許してもらいたくて何度か手紙を書いて出した。それは、反省文か謝罪文のはずなのに、どうしてもラブレターになってしまった。それが却ってKちゃんを戸惑わせてしまったようだった。それまでは仲の良いクラスメイトとして、ふざけたり、おちゃらけたり、無邪気に笑っていられた仲が、妙に不自然になってしまった。Kちゃんはツンツンすることはなくなったけれど、変によそよそしくなり、わたしも気軽に冗談も言えなくなってしまった。

 中学三年生になった頃、「夜空のトランペット」もなんとか吹けるようになっていた。部活ではスッペ作曲の「軽騎兵序曲」を練習していたのだが、家に帰るとミュート(消音器)をつけて専らニニ・ロッソを吹いていた。三学期になると卒業を控えて文集を作ることになり、皆はこの三年間の思い出や将来の夢などを書いた。わたしは文集はともかく、それよりもKちゃんに何かを伝えておきたいと思った。初恋はどうにもならなかったけれど、やはり未練があった。わたしはKちゃんと仲良しのMちゃんに頼んで写真を一枚借りて、それを見ながらKちゃんの似顔絵を色紙に描いた。美術も好きでデッサンが得意だったわたしは、鉛筆と色鉛筆を使い分け、髪の毛一本まで丁寧に描いた。何日かかけたそれは我ながら上手くできたと思った。そして、それをMちゃんに「Kちゃんにこれを渡してほしい」と写真とともに手渡した。心を込めてするというのはああいう気分を言うのだと思う。わたしはこれまでに、誰かのためにモノを作ることを沢山してきたけれど、誰かのために描いた絵は、今までに二枚しかない。あの時の絵は、その時の思いをありったけ注いだつもりだった。ところが、二、三日後の夕方暗くなった頃、Mちゃんがわたしの家にやってきて「いらないって」と、その絵を返されてしまった。わたしは何かを完全に失ったことをはっきりと自覚しながら、走り去る自転車を茫然として見送った。それからは気持ちが萎えてしまい、学校に行っても教室には居づらく、部室に行ってはトランペットにとりつき、小さく「夜空のトランペット」を吹いていた。

 わたしの初恋は、決まり悪く、気恥ずかしく、気まずいものだったけれど、今となってみると「夜空のトランペット」のように、哀愁めいて、遠のいて、この胸の中に今も滲んで光りながら、大切な思い出となっている。あれから早五十年が経った。田中先生、小松先生、そして、Kちゃんはどうしているのだろうか…。

(2014年 秋)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?