水星のアロマ
あらすじ
留那は就活中の高校三年生。
書類選考は通るモノの、中々面接を突破できず、心を荒ませていた。
そんなおり、以前より憧れていた店に留那が足を踏み入れた事で、彼女に異変が起こってしまう。
「はぁーあ、ああ、ああ。ごっほ、ごっほ」
辻 留那はとてもとても疲れていた。着慣れないスーツを着、履き慣れないパンプスを履き、慣れない港町を朝から夕刻まで歩き倒したのだ。
「脚が棒の様だ。」
今は麗木町まで移動し、面接後、海を眺めているところだ。
一日の終わりを告げる夕陽が海に沈みこんで行く。
絶景スポットはカップルだらけ、平日だが家族もちらほら見受けられる。賑やかなその場所で留那の周りの空気だけが沈黙を帯びていた。
わびしさ、切なさ、心細さとそんな思いを抱えた自分自身を、ただ心の中だけで感じながら、留那は只々無表情で手に届かない夕陽の日の光を感じていた。
明日の準備の為、早く戻らないと行けないが、いかんせん、本当に足が棒の様で動かない。高校三年生になって留那は初めてパンプスなるものを履いたのだ。同様に化粧を始めたのも先月からだ、あれもこれも新しい事が一挙に押し寄せて、どうにもこうにも波に乗るので精一杯だ。
「そのうち社会の波にのまれちゃうんだ。」
自分で上手い表現を見つけたつもりで発した台詞だったのに、自分で言っておいて、留那はがっくりと肩を落とした。
留那の就活は書類が通りはするものの、面接で緊張して話せなくなって落とされる。の繰り返しだった。それをここ一か月繰り返している。
「もう、来年には卒業なのにどうしよう…。」
留那は海の向こうに沈む夕陽に呟くように問いかけた。橋に手をかけ、夕陽に照らされた水平線を見据える。
暫くして夕陽は何も言わずに海に沈み込み切り、辺りは真っ暗になった。
就活で港町に来るとなった時は、飛び上がる程心が弾んだというのに、何だか今はコンクリートの地面に体が沈みそうな程、気分が重い留那だった。
辺りは真っ暗になり、周りの人がちょっとづつその場から去って行く。留那はまた一つ溜息を付いた。
「ごっほ、ごっほ」
溜息を付くと、同時に咳まで出て来た。
留那は最近熱も無いのに、喉が痛くて、度々咳が止まらなくなるのだ。十一月の乾燥した空気のせいだろうか。
緊張すると、特に咳込んでしまう。
今日の面接では自己PR時に咳が止まらなくなり、大変だった。
面接官たちは、渋い顔をするし、やってしまったと言う罪悪感で自己PRどころで無くなってしまうのだ。面接中、委縮して丸くなる背筋をピンと伸ばすので精一杯だった。
そんな後悔を思い返していたらもう、夕刻。
借りているマンスリーマンションに帰り早く明日の就活の準備をしないといけないが、込み合う電車に乗り、もみくちゃにされるかと思うと気が重い。
取り合えず、夕飯だけ今いる近くで取ろうと思い、暗くなった周りから、夜道の街灯を頼りに、牛車道駅周辺に向かった。
赤いレンガ造りの道を進むと、大正ロマンを思わせる建築物が立ち並ぶ。
街灯と夜空の星々に照らされた時代錯誤の美しい景色に時代を遡ってきてしまったような錯覚を覚える。
留那は空腹も忘れ、嬉々として周りの建築物を見回した。
「そういえば、この辺にあの店があったはず。」
留那は徐にカバンから手帳を取り出し、挟んであった店のチラシを見て、地図を確認した。
その地図に記された場所は、馬車道の大通りの隙間に隠された横の細長い小道の先にある、秘密基地の様な場所だ。
「多分この辺、ああった。」
牛車道の大通りの途中。赤いレンガと、白いレンガの建物の間にある細い小道を、曲がりくねりながら進む。するとその道の先にあった大きな日本家屋の裏に目的地があった。
その目的地である建物は、横向きの卵の形をしていた。暗い夜にも生える純白の艶。建物の周りには鉄格子付きの塀が取り囲んでいる。鉄格子には蔓草が張り巡り、塀の周りには背の低い木々や、草花が植えられている。全体で見ると、鳥の巣の中の大きな卵の様だ。
「うわぁこれが『元帰堂かぁ』
建築物の衝撃的な見た目に圧倒されながらも、留那は落ち着いて辺りを観察し、出入り口を探した。
しかし、
「あっれ?おっかしいなぁ。塀の周りを一周したのに、出入り口が見当たらない。」
暗いせいだろうか、2周回ってみても、草木が張り巡らされた円状の塀に出入口は見つからなかった。
留那の脚に忘れていた疲れ切った痛みが蘇る。大きなため息を付いて、しゃがみ込んだ。
その瞬間『諦めたら、そこでゲーム終了です。』と言う声が留那の腰を持ち上げた。
「こんにちわあああああああああああああああああああああああああああぁぁぁ!」
留那は建物に向って思いっきり叫んだ。
すると、卵の底辺方向の塀に光が灯った。
項垂れる体を持ち上げ、勢いを付け、留那は明るい方へ駆けて行った。
明かりの灯った場所には閉門があった。しかしそれは思いの他、背の低い通り道だった。150センチ台の留那でも頭を下げないと入れない様な高さだ。
蔦のつたった低い閉門を蔓草にコードを絡ませたライトが上から照らしている。
「…あはは、何でここに出入口が有るって気が付かなかったんだろう。」
まるで、呼んだら現れたような出入り口に留那は一瞬違和感を感じた。
「…いや、いや、いい加減おこちゃまじゃ無いんだからさ。」
誰に言ってるのか、言われたのか、ぼんやりぼやいてから留那は閉門に手を掛けた。
何かおかしな予感を感じながらも、留那は開けられた閉門を潜りる。錆び付いた鉄が擦れる音が、夜の冷えた空気に響く。
留那は疲れ切った頭をふらつかせながら店のドアの前まで来た。
ドアには『open』と書かれた汚れた看板が掛けられている。
(入って良いって事だよね?)
自問自答しながらドアノブに手を掛けた。
店の扉を開くと芳香の香りが留那の全身を包んだ。
如何やらこの一階手前がショップとカウンターになっている様で、棚に幾つかの商品が並んでいる。
留那は興味本位にうろうろして店内を見回した。
棚に並んでいるハーブティ等の箱のデザイン等を見ているだけで、留那は何だか元気になって来た。どれも大人可愛いデザインで、何となく体にも良さそうな印象を受ける。
留那は箱入りの商品を手に取り、しげしげと見つめた。箱の後ろに何が入っているのか事細かに記載されていた。
「甘草?カルダモン?」
知ってる様で知らないカタカナや漢字の名称の羅列が目をすぼめる程の小さな字で印字されている。
それぞれの成分がどういうモノかは分からないが、分からないまでも、そこそこ良いものに違いないとそこそこ解釈し、留那は一人棚の前で納得した。
「あら、いらっしゃいませ。」
店の奥から、女性が現れた。黒いワンピースに、白いエプロンを付け、髪を全て頭の上に結い上げている。
見るからに包容力があり、大きく艶っぽい目が印象的だ。背は平均より低いくらいで、留那と同じくらい。ふくよかでふっくらした体系でふわふわした口調で耳にくすぐったい。
「あ、こんにちわ!」
普段余り人見知りしない留那だが、現れた女性の風格ある雰囲気に何だか圧倒されてしまった。挨拶をするものの顔を俯いてしまう。
そんな初々しい留那の様子に女性はふんわりと微笑んだ。そして、留那が手にしていたチラシに気が付いた。
「あら、そのチラシ、卒業した鍼灸の学校に、置かせて貰ったものだわ。あなたも、あそこの生徒さん?」
懐かしむ様に女性が言った。
「ああ、いいえ友人と見学に行っただけで、入学はしていません。私は高校を卒業したら、直ぐに就職しないといけないので。」
留那は俯いたまま説明した。何だか説明し終えたら、何故だか胸が苦しくなった。堪えようと、唇を噛み締める。と、また止まっていた咳が込み上げた。
「ごっほ、ごっほ、すいません熱は、無いんですが。ずっと喉の調子が悪くて…。」
病気を移す事は無いと説明しながらも、体調が思わしくない事に、何だか申し訳なさを感じ、口に腕を当てたまま留那は謝った。
「ねぇ、ちょっとお茶でもしない?」
突然のお誘いに顔を上げ、驚いてる留那を見つめながら、治美は目を細めて微笑んでいた。
治美は商品棚の手前のテーブルから商品を退かすと、レジカウンターの後ろから椅子を二つ取り出し、さっさと二人分の席を用意した。
「どうぞ、かけていて、今お茶とお菓子を持ってくるわ。」
治美はにっこり笑うと、またレジカウンター奥の部屋に入っていった。
留那は取り合えず、上着を脱いで席に着いた。
すると、忘れていた疲れがどしんと体に圧し掛かり、そのまま机に突っ伏した。
伏せて目を閉じた瞼の裏に、祖父の顔が浮かび上がる。
「カロリー50%オフのクッキーを2箱食べちゃったら100%カロリーになるのよね。」
不思議な独り言を言いながら、治美がお盆に乗ったお茶セットっとお皿に盛られたクッキーを抱えて戻って来た。
その声で、留那の意識が目を覚ます。
治美は何故、自分の店に来てくれたのか、何故鍼灸の学校に見学に行ったのか、何故留那がスーツを着てへとへとなのが、やんわりと問いかけてくれた。
そうして話していると不思議な事に、留那は動くのも喋るのも疲れていた筈が、だんだん元気になっていった。雁字搦めだった気持ちが解け行くのと同時に、重たい背中が持ち上がり、何時の間にか、猫背だった背筋をピンと伸ばし、治美と会話を楽しんでいた。
「そっか、おじい様が鍼灸師で興味があって、私の母校へ行ったのね。」
「はい。それで掲示板で、卒業生の海辺さんのお店のチラシを見つけて、そのうちお店を除いて見たいなって思っていたんです。」
「光栄だわ。」
治美さんは、留那にお茶を注いだカップを差し出しながら、上品に微笑んだ。
「今、咳出てないわね。」
両肘を付きながら、治美さんはにっこりと言った。
「あ、そう言えば。」
自分でも全く気が付かなかった様子で、留那は驚いていた。
その顔を見て、意味ありげに治美がほくそ笑む。
「いいわ、チラシ持ってきてくれたから、今回だけ背面の施術30分3000円にしてあげる。多分その症状も軽減できると思うわ。」
「え!ゴットハンドの治美さんに施術して頂けるんですか!」嬉々として留那は喜び、申し出に乗った。
施術室は卵の先端部から中腹にあった。
治美は簡単な説明をすると、着替えの為一旦施術退出する。
留那は着替えをしながら、鍼灸学校で聞いた治美の噂を思い起こしていた。
治美は入学当初から誰よりも異彩を放ち、秀でた生徒だったと聞いた。
細やかな気遣いと、相手のストレスを受け止める大きな度量。プロでも中々身に付かないこの二つを治美は入学以前から持ち合わせていたのだ。
そんな治美が人を癒し助ける仕事に付いたのは、自然な事だったのだろう。
また治美はもともと入学前からアロマの知識があり、アロマオイルを使った施術『アロマトリートメント』も得意としていた。
きっと彼女は指先の神経も嗅覚も、五感の全てが人より鋭いのだろう。
そして、何処かに勤めることなく、卒業後は直ぐに自分の店を立ち上げた。
学校側が自営業支援を行っており、学校で経営についての授業が盛り込まれていたことも卒業後直ぐに開業でた要因だが、肝が据わってないと出来ない事だと留那は思う。
また彼女の施術を受けると、心身が癒されるだけでなく「出世した」「好きな人と両想いになった」等々という話が上がっている。
まるで、ジンクスや神頼みに近い類の話だが、そう言う話が上がるだけの根拠がきっとある筈だと留那は思った。
だから留那は治美の事を聴いてから、ずっと会って見たいと思っていた。そうすれば少しは自分の人生も良い方へ向える気がしたからだ。
今日は本当にへとへとな一日だったが、思えば疲れたからこそ、こうやって治美の店に足を運んだのだ。
「実は今日は凄くラッキーな日かも」
ゴットハンドの治美の施術を3000円で、しかも予約なしで受けられるなんて、幸運と言うに他ないと留那は心から感謝した。
「ご準備いかがですか?」
考え事をしながら着替え終わると、丁度良いタイミングで治美の呼びかけが来た。
「はい、お願いします。」
はにかむ留那にドアを開けた治美がにっこり微笑んだ。
留那は先ず、施術ベットに俯せになる様に促された。
シーツの上から、治美の手が背面全体を流れる様に触れた。体の状態を触れて観察しているのだ。
治美が触診したところ、全体的に留那の体は強張っていた。
(連日の就職活動と、慣れない処に寝泊りしている為、脳が休めて無いのかも知れない。)
治美は配合したアロマオイルの透明な小皿を手にし、軽く指先で回しながら、匂いを確認すると、それを卵状の建物の先端に手向けてから、ゆっくり留那の頭上に掲げた。3秒置いて、背面全体の上で小皿を回し、次に小皿を施術ベットの顔部分の呼吸が出来る様になっている穴に向け、下から小皿を差し出す。
留那の空鼻腔に、爽やかな空気が射しこみ、全身に行渡って包み込んだ。
その香りは、何処か、夏の透明なまどろむ日差しを感じさせる。
「今日は、ライムとスイート・マジュラームと、クラリセージを使ってアロママッサージして行くわね。」
鋭く、透明感のあるアロマの香りが留那の背中全体を温めた。
治美の手がゆっくりゆっくり螺旋を描き、形や方向を変えながら、留那の背面を往復する。
その度に、体全体に圧し掛かっていた何かが、解けて散っていく様に感じられた
最後に治美は、留那の頭蓋骨の付け根や、自律神経が整う場所を中心に針を刺してくれた。
「これで、暫く置くわね。寒くないかしら?」
「はぁい。」
留那の脳はもう既に半分かそれ以上意識を手放し、うとうとしていた。
治美は顔を緩め、施術ベットの下に敷かれたホットカーペットの温度を確認し、心ばかりと、留那の背中に毛布を掛けると、そっと施術室を出た。
5分後、治美が施術室の外から声を掛けると、留那はまだ覚醒しきらない頭で体を持ち上げ、着替えて、レジカウンターの処まで出ていった。
お会計中も目の開き切らない留那に治美は爆笑した。
「あははははは!もぅ、大丈夫?」
「はぁい、大丈夫です。家に帰ってさっさと寝ます。」
治美は止まらない笑いを抑え込みながら、留那の後を追い、塀の外まで見送ると、「ゆっくり休んでね。お休みなさい。」と言って、背中が見えなくなるまで見送った。
大丈夫と治美に言ったわりに、留那の足取りは酔っぱらいの様だった。
まどろみと睡魔が留那の全身を包み込み、留那の足はワルツのステップで、右へ左へ揺らめいていた。
「大丈夫大丈夫。さっきの細くくねった道に出て、赤煉瓦と白煉瓦の間を通れば良いんだから。」
留那は今にも思考を手放しそうな自分の頭に言い聞かせながら進む。
しかし、赤煉瓦と白煉瓦の間を通り抜けた途端、こと切れた様にしゃがみ込み其処で寝入ってしまう。
「おやおや。」
柄の太い傘を持った男性が留那を見つけた。
しゃがみ込んで煉瓦に凭れ掛り寝入っている留那を同じ様にしゃがみ込んで首を動かし、あちこち観察する。。
その男性は留那の顎を一刺し指で摘まみ上げ、匂いを嗅ぐと、にんまり口端を上げ、ほくそ笑んだ。
「星香る君。私と一緒に来るかい?」
頭の重さで男の一刺し指から、顎が滑り落ち、留那は頭を前のめりにさせる形になった。
「「イエス」って取るよ。やれやれ大変な拾いもんだ。」
男性は大変だと言うわりにはニヤニヤ笑いながら、小柄な留那を軽々持ち上げると、背中に回し、しっかりと担いだ。
そして手持ちの傘をぷらんぷらん揺らしながら、街灯が照らす風車柄の牛車道を、上機嫌で歩いて行った。
(あったかいな。)
留那が見知らぬ男性に担がれたまま、重く圧し掛かってくる睡魔に瞼を閉じると、またその瞼の裏側に、親しい人の姿があった。
留那がこの世で最も敬愛する男性の姿。
留那の瞼から、一筋の涙が零れ、青の煉瓦に零れて割れた。次の日。目覚めるとカーテンの隙間から朝日が射しこんでいた。
留那は暫く、その朝日をぼんやり眺めていた。
(初めてここに来た時よりも、室内の景色が広々として新鮮に感じられるな。)
留那は大きく伸びをしてから、ベットから出て立ち上がり、鼻歌混じりに体を左右にねじった。
「ふんっふんっふっふっふん。」
「おう、ご機嫌だな。」
一番に目に入ったのはすきっ歯。白く磨かれた歯並びの、調度真ん中に3ミリほどの隙間が見えた。そしてその歯の口、鼻、目と見上げ、やっとその輪郭を捉えられた。
「よく眠れたか?」
留那の全くこれっぽっちも知らない長身のいがぐり金髪頭の男が、目の前で、パジャマ姿で、あっけらかんと、歯磨きをしていた。
留那が我に立ち返り、頭を下げ自分の身体を見ると、インナーのみの姿になっている事に氣が付いた。
思い切り鈍器で殴られた時の衝撃波が留那の頭に走り、そして顔を青くした。
「おい、大丈夫か?」
留那が立ちすくんでいる間に歯磨きを終えた見知らぬ男が、屈みこんみ、留那の顔を除き込んだ。
「う…」
「う?」
「うぎゃああああああああああああああああああああああああああ!」
季節が冷え込んできた空気の中、早朝から、甲高い声が約7.3メートルもある建物内に端から端まで響き渡ったという。
留那が思わず出した鉄拳をさらりと男はよけてしまう。
留那は叫びきると、足早にベットに戻り、掛け布団を被って男を睨み付けた。涙混じりに辺りを見渡すと、見知らぬ部屋にいる事に気が付く。
「あんた誰!?ここは何処!?私に何したのよ!?」
「俺は、「俺は、査新 進志。皆には『サニー紳士』って呼ばれているぜ。以後お見知りおきを、お嬢様。」
査新はそう言うと、少し大げさに演技がかった仕草でお辞儀をし、片膝を付いて頭を垂れた。
留那が落ち着いたのを見計らって、膝に手を付き、また語り始める。
「ここは私の管理するシェアハウスの一室。昨夜寒空の下、道端で寝入っているあなたをほおっておけず、ここまで連れてきてしまいました。」
査新が男前に喋る度に、口を開いてはすきっ歯が留那の目に入り、留那は思わずくすくすと笑いだしてしまった。
それを見た査新も口端を上げて笑う。
「…あの、どうして私、インナーだけになっているんですか?」
留那は査新に背負われてからの記憶が全くなかった。
査新が悪い人で無いのは分かったが、何かの何かがあったのでは無いかと、不安が募る。
「ああ、それ、インナーだったの?そういう白くて薄いワンピースなのかと思った。」
「違います!!」
留那の乙女の不安を他所に、あっけらかんと答えられてしまった。
「ごめんごめん。スーツはベットの横にかけてあるよ。」
確かに、留那のスーツはちゃんと整えられた様子で、ベット横のカーテンレールの上に引っ掛けられていた。
「ありがとうございます。」
「…もうちょっと疑った方が良いかもね。」
「何か、言いました?」
「いんやぁ、なぁあんにも。」
査新は人の好さそうな顔ですきっ歯を出して微笑むと、冬用の分厚い掛け布団の上から留那の頭を撫でた。
「準備が出来たら、一階の食堂へおいで、朝食を用意するよ。」
そう言うと、査新は部屋を出て行った。
「ゴーン。ゴーン。」大きな鐘の音が聞えた、ベット横に会った自分のカバンから携帯を取り出すと、時刻は朝九時となっていた。
改めて辺りを見回す。
見覚えが無いのも当たり前だった。自分の部屋ではないのだから。
留那の寝ていた部屋は教室一個分の広さはあろう部屋で、留那が寝ていたカーテン付きのベット以外には何も無かった。
着替えて髪を整えて外に出ると、廊下もやはり、学校の様に広々としていた。
一階におりると『食堂』と書かれた矢印を壁に見つけ、その方向に進んでいった。
「ああ、改めておはよう。」
査新は食堂奥の厨房でお鍋をかき混ぜていた。
また、査新の顔が見れて、何だか留那はほっとした。
(あったばっかりで、ほっとするなんて何か変だな。)
留那が付いた席に、査新がビーフシチューとサラダとパンの乗ったプレートを置く。
「わぁ、いただきます!」
留那は最近ご飯をコンビニ等で済ますことが多かった。自炊をする余裕も無く、外食も控えていたため、査新の手料理がとても嬉しかった。
留那は目を輝かせながら、朝食に手を合わせる。
思えば、昨夜も外食しようと思っていたのに、マッサージを受けた後、ぐっすり寝入ってしまったのだった。
そんな留那の気持ちを知ってか、知らずか、満面の笑みで何も言わずに査新は彼女の食事する姿を眺めていた。
食事に夢中だった留那の目が査新と合う。
「あの、とっても美味しいです!」
「それは良かった。幾らでも食べて良いよ。」
「ええ、こんな美味しいビーフシチュウ、そんなにご馳走になる何て、何だか、申し訳ないです。」
思わず、スプーンを置いて、留那はほくそ笑んだ。
食事が温かいせいか、照れているせいか、頬が赤い。
「誰がただって言ったの?」
留那は先程まで赤らんでいた顔を、さっと青くする。
その様子を査新は正面向かいでニヤニヤ見つめながら、意地悪くすきっ歯を出して笑った。そのまま留那の顔をじっくり観察してから、テーブルに手を付き、顔を留那に近づける。
息が前髪にかかり、思わず留那は目を閉じた。
「勿論、体で払ってもらうよ。」
査新が留那の耳元で呟く。留那は青かった顔をまた赤くした。
「払うってどうやって…。」留那は目を開き、査新を見返した。
査新は無表情で留那を見据えたまま、口を閉じ沈黙していた。
「ゴーン、ゴーン」二人が見つめ合ったまま固まっていると、十時を告げる鐘の音が鳴った。
「ところでさ、今日はどんな会社に面接に行くの?」
行き成り話を変えられて、慌てふためく留那。
「えっと、えっと、スポーツ系の会社で、主にスポーツジムの経営や、スポーツグッズの販売をしています。」
「ふーん。何でそんな会社に興味持ったわけ?」
査新は席に再び着くと、腕を組み、足を組んで留那に問いかけた。
先ほどからとの変わり身の早さに、思わず留那は口を開けたまま、無言で何度も瞬きをした。
答えないままでいると、ジト目で留那を見据えて来る。
「そ、そんな「そんな」って、あははは!凄い大手の会社何ですよ!安定してるし、有休もちゃんと取り安いって、ネットの口コミにも書いてありましたし、それに、それに、私スポーツはそこそこ出来るし、それにそれにそれにそんな感じで、良い感じの会社何です!」
慌てふためきながら、留那は必死で答えた。
「ふーん。」
査新がそっぽを向いたまま腕を組んでいると何だか、留那は落ち着かない気持ちになった。
「何ですか!?」
「つまり、自分が入ってから悩まなくて済むような、『良い感じの会社』に、入りたいわけね?」
留那は何だか査新の棘のある言い方にカチンときた。
「何か、言い方に棘がありませんか?」
「いや、いや。ないないないないない、無い?」
両手手のひらを上に向け、大げさに身振り手振りする査新を見て、更にイライラして来た。
目が鋭くなる留那。
査新はそこで空かさず目を光らせる。
「それでさ…。」
さっきふざけていたのとは打って変わり、査新は間を開けながら、低い声を出した。
「昨日今日のお題の件なんだけどさ…。」
査新はテーブルの上で膝を付き、手を組みながら、考え込むように額を屈めている。
何だか重い空気を感じて、留那は思わず椅子に座り直し、佇まいを正して、背筋を伸ばした。
間。
朝の静かな空気の中に、食堂中央に置かれた、のっぽの古時計の針の音だけが響く。
「暇な時で良いから、うちの掃除を8時間、手伝ってくんない?」
留那は思わず気が抜けて、椅子から落ちた。
「いた、いたたったたたた。」
「大丈夫?」
『お前が大丈夫かよ!』と言いたかったが、来年からは社会人になる予定なので留那はぐっと堪えた。
(私は大人の女。私は大人の女。私は女の大人。)
平静を保つため留那は心の中で、何度も同じ単語を繰り返しながら、椅子に座り直した。
「…。そんなことで良いんですか!?」
「もっと何かしてくれるわけ?」
「いや、いや、それでどうかお願いします。」
「何でそんな顔あっかいの?」
意味ありげに、にやにやしながら査新は形の良い眉毛を上げ下げした。
「何でもありません!」
その後朝食を取る留那の正面に座り、雑誌を読みながらコーヒーを片手に査新はまったりと寛いでいた。
留那はまたいつ揶揄われるかと冷や冷やしていたが、如何やら自分で紳士と言うだけあって、食事中にちょっかいは出してこないらしい。
食べ終えてフォークを置いたところで、査新が雑誌を閉じた。
「ところでさ。」
「はい。」
「面接は何時からなの?」
「…。」
「午後一時です。」
「今、十一時なるけど、一回自分ち戻んなくていいのか?」
「あっ。」
その時、また鐘の音が建物全体に鳴り響いた。
ワイシャツや下着は汗をかいてしまったので、一回借りてる部屋に戻って取り替えたい。
「ありがとうございました。必ず、お礼をしに戻りますから!」
留那はそう言って頭を下げると、足早にその場を去って行った。
留那がスマホを手にすると、時間は十一時を指していた。
「やっばい!面接1時じゃん!」
留那はその場から早馬のごとく飛び出していった。
留那は急いで支度し、何とか時間に間に合った。
平静を装いながら、自分以外の就活生達の列に加わって行った。
最初1時間半近くある、会社の企業PVを見後、面接官による会社説明が1時間程あった。
留那は昨晩泥の様に寝て夕飯を一口も食べておらず、今日も昼に簡易食ゼリーを5分で飲み込んだだけなので、何か美味しいものを食べたいという欲求が強く心を揺さぶり、中々企業PVの内容も、会社説明の内容も耳に入ってこなかった。
今は、壁際の椅子に座り、やっと一息付けてるところだ。
2DKサイズの椅子の並んだ部屋に、何人かづつ通されていく。そこで、30分ほどの面接が3人づつ行われるのだ。
他の就活生達と同じ様に、背筋が丸くならない様に気を引き締めながら待っていると、一時間くらいして、やっと留那の番が来た。
留那より先に入っていった同じ就活生の二人は何だか余裕そうだ。大股でどうどうと部屋に入っていく。
席について、儀礼的に面接官達と、就活生達が頭を下げ合うと、作り笑いの渦の中、面接が始まった。
面接は、面接官が就活生3人に、いくつか質問をし、最後に1人づつ自己PRをすると言うものだった。
質問は実に簡単なものだった。
「それでは、先ずご自身の思う自分の短所と長所を教えてください。」
留那は心の中で『来たー。』と思った。
この質問は就活定番のモノだ。
基本的に短所を正直に話すことで、企業への従順さを示し、現在改善してる旨を伝える。
そしてその上で、短所を裏返したような長所を伝えるのだ。
その様な対策が『必勝!超絶成功者の新卒面接』と言う、去年就職部門で1位になった本に書いてあった。
「私の短所はのんびり屋なところです。」
「そうなんですね。加藤さんはしっかりして見えますが。」
面接官がお世辞交じりに言った。
「はい、予定を調整して、息抜きする時間を取り、時間を決めて余裕を持って行動するように気を付けています。」
この回答の仕方は、自分の短所に自覚があり、気を付けています。と言うアピールだ。
(この人、絶対『必勝!超絶成功者の新卒面接』を読み込んでるんですけど!)
留那は顔を青くしながら何の滞りも無く、面接官とやり取りをしている、面識の無い隣の就活生を憎く思った。
(しかし、どうしたもんか、これでは自分の回答も被ってしまう。)
隣人の回答が終わるのを待ちながら、留那は冷や汗をかいた。
しかし、下手に今思い付きで話すより、用意してきたものを使った方が良いだろうと、
留那は悩んだ末、自の回答を選んだ。
「では、次に辻 留那さん。あなたの短所と長所を教えて頂きますか?」
(社会人が新卒に対して、そこまで気を使った質問の仕方しなきゃいけないのかな?)
現代はパワハラ・セクハラ問題が多発してる。だからとて、丁寧語の上に疑問形で聞いてくるなんて、何だか気遣いの空回りの様に留那には感じられた。これは面接なのだから、「教えていただけますか?」と聞かれて、「教えません!」何て言うわけ無いでは無いかと。
社会人になると、これが当たり前になるのかと思うと、何だか留那は億劫に感じた。
「はい、私の短所は、…ごっほごっほ。」
留那が用意していた回答を答えようといたが、咄嗟に咳が出てしまった。
「すいません。私の短所は、…ごっほごっほ。」
昨日、ゴットハンドの施術を受け、体調万全で、まったく先程まで咳が出なかったというのに、何故か解答しようとすればする程、咳込んでしまった。
室内の静けさが増す。
「辻さん、大丈夫ですか?」髪を巻いた綺麗目の女性面接官が首を傾げて優しく聞いてくれた。
「すいません。」
そう謝ると、何故かすんなりと留那の喉から咳が消えた。
「すいません。私はまだちゃんと自分の事を分かっていないようです。」
咳が消えたのと同時に、するりとそんな言葉が出てしまった。
留那は言ってから自分でも驚き唖然としてしまう。
部屋が一瞬鎮まり返り、部屋の中の全員が留那を凝視した。
「では、次の質問に移りますね。」
温度の感じない声で面接官の一人が言った。
「ご自身が、当社に入りたいと思った理由は何ですか?」
「幼い頃から、御社の商品や施設を利用させて頂いており、是非入社したいと思いました。」
一番目の子がはきはきとした調子で答えた。発生の勢いから淀みなく本心を語っていることが伝わってくる。
「御社の企業理念に、深く感銘し、是非入社したいと思いました。」
二番目の子が答えた。落ち着いた口調で、流暢に会社の企業理念と自分自身の信条を重ね合わせながら、流暢に話をしている。見た目も大人びていて、学生とは思えない。凛々しさを感じる。緊張で空腹の留那ですら、思わずその話姿に見入る程。
しかし、彼女の次は留那の番だ。
「では、次。辻 留那さん。」名前を呼ばれるとともに、留那は体を硬直させた。
「えっと、えっと、」先程の質問で、可笑しな答え方をしてしまった事もあり、留那は言葉に詰まってしまった。
留那の番が来てから、面接官の頭上奥に見える、壁に掛けられた時計の秒の針が、半分周り過ぎた。
(いけない!『必勝!超絶成功者の新卒面接』に回答は30秒以内で無いと、呆れられてしまう。と、書いてあった。)
「…こちらの会社に入れば、大手ですし、祖父を安心させられると思いました。」
「…成程、家族思いなんですね。正直で大変結構ですよ。」
大変結構だと言うわりに、面接官からは一切感情が読み取れなかった。眼鏡の奥の瞳の温度が、酷く冷たい様に感じられた。
そう感じたのは、留那だけでは無い様で、先ほどまで自信満々だった就活生達さへ、たじろいでいた。
室内はそんな異様な緊張感のまま終っていった。
留那は空腹も忘れて、急いで家に帰り、スーツのままベットに突っ伏した。
もう明日までベットから動かないと留那は決意した。
しかし、留那は真夜中に目覚めるた。台所で物音がしたからだ。
「だあれ?」
留那は置き切らない頭のまま、布団の中か尋ねた。
「わしじゃよ、わしわし。」
それは留那が幼い時から聞き慣れたしわがれた声だった。
「わしわし詐欺ですか?」
「何言っとるんじゃお前は。」
台所から現れたのは留那の祖父だった。
「お前、疲れてるみたいだから、何か作ってやろうと思ったのに、冷蔵庫空っぽじゃ無いか。そんなんじゃ嫁としての貰い先が見つからんぞ。」
留那の祖父、辻 筋忠はしわくちゃな顔を更にしわくちゃにしながら文句を付けた。
「今時、料理しないくらいで結婚しないなんて男、こっちから願い下げよ。だいたいお嫁に行くことが世の中の全てじゃ無いんだからね。」
(何だか久々におじいちゃんを見た気がする。)
「お前、鍼灸の学校に見学に行っただろ。」
「どうして知っているの?」
「その学校に古いわしの知り合いがいてな、お前が見学に行った後を知らせてくれたんじゃよ。」
「うええ。」
「お前、鍼灸師になりたいのか?」
留那は黙り込んだ。
「煌びやかな仕事と勘違いしてるんじゃないのか?派手な広告に騙されおって!医者じゃないとはいえ、人様の体に触れる仕事なんだぞ!人様の邪気に触れ、癒していく。しかし、どんなに祓っても祓っても邪気は溜まるんじゃ!ゴミと一緒でな!施術師と言うのは、人の身体を清掃し、ゴミ収集する、目立たないわりに酷なばかりの仕事なんじゃ!」
「私はそんな風に思ってない!」
「お前がどう思うかじゃない!この商売はそういうもんなんだよ!もともとは目の見えない人間の仕事、そして、マッサージと言うだけで風俗と間違われるような、下賎の仕事なんだ。社会の底辺の仕事だよ。」
「だけど、私はその底辺に零れ落ちてった人様の疲れや思いを、少しでも流して癒したいんだよ。底辺が無かったら、上だって支えられないじゃない!」
見えない目を留那の祖父は見開いた。そして無言になる。
祖父が大きなため息を付いき、留那がそれに身震いする。高校三年にまでなって、留那は未だに祖父が恐い。自然に両手に力が入り、涙が溢れた。
「確かに、清掃やゴミ収集の仕事ってさ、きっと見た目以上に大変なお仕事だよね。それでいて、汚いし、そんなに褒められることも無い。確かに施術師も同じ様な仕事だなって思う。でも、私感謝されなかったとしても、この仕事がやりたいよ!だってずっとじいちゃんを見て来たんだから!」
そこまで留那が言い切ると、祖父は何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
その次の日、留那は査新の処にお礼をしに行った。
留那は広いシェアハウスの廊下をモップ掛けを頼まれた。
「ねぇ、あなたうちでバイトしない?」
後ろ掛けて来た声に、留那は聞き覚えがあった。
其処にはお店とは打って変わり、派手な紫色のワンピースを着た治美がいた。
「こんなとこで会うなんて奇遇ね。私もこのシェアハウスに住んでいるのよ。」
こうなったらいいなと言う事が、叶ってしまった。こんな事ってあるんだと留那は飛び上がって喜び、治美に飛びついた。
「時給は最低額よ。」
「え、」
現実は甘くないが、甘くなくても美味しく食べられる。苦い経験も、辛い経験も味わって行こう。留那はそう心に決めたのだった。