サラダのように殺戮的な日
ピはルーレットの上を歩くことを覚えた。それはヒンがピとマに教えたことだった。マはいまもルーレットの片隅に寝ている。ディーラーがルーレットを回転させる。
遠心力で円盤の外側に吹き飛ばされないように、ピは真っ直ぐに歩くのではなく円の中心に向かって歩いているふりをする。そうすると、結果的に回転方向と反対向きに真っ直ぐ進んでいく。
今日中にマを見つけ出さないと手遅れになってしまう。
ルーレット上の1日は、それが回転し始めてから回転し終わるまでのあいだのことで、次の日になった頃には、もしかしたらマは球に潰されてぺちゃんこになってしまっているかもしれない。これまでにヒンは、球に潰された数々の断末マを目にしてきたが、そのたびに、これはあってはならないことなのだ、こんなふうにして何かが終わるのは間違ったことなのだと感じてきた。だから今度こそは、今日が終わる前になんとしてでもピをマのもとへたどり着かせねばならない。
それは前途多難な計画だった。
もとはといえば、歩くことに関して先に才能を発揮したのはマのほうだったのだが、同時に怠けることを覚え、ヒンの目の届かぬところでサボるという才能を開花させたのもマが最初だった。一度姿を隠してしまうと、ルーレットが停止するまで見つけ出すのは難しい。ルーレットの内部は複雑な構造になっていて、回っていない時は迷わず進める道でも、回転しだしたとたんに方向感覚がばらばらに砕けてしまい、訓練を積んだ者でなければ思いどおりに歩くことは不可能だ。ただ中心に向かって歩けばいいというのでもない。それはあくまで、進行目標が中心に対して円盤の回転方向と逆向きの位置に存在する場合において有効な方法だ。たとえば目標が回転方向の位置にあったり、円盤の外側やあるいは中心に向かって進まねばならない場合には、より一層の慎重さが求められる。一歩間違えれば、雪山のクレバスのような裂け目に足を突っ込んで、二度と地上に戻ってこられない可能性だってある。
マがルーレットの隅っこで拾った捨て犬を、飼わせてくれとはじめに訴えてきたのはもう十日ばかりも前だ。当然ながらヒンはそれに反対した。飼うというのは、飼うためのスペースを所有する者が営む行為である。われわれに犬を飼うためのスペースなどないし、ご覧のとおり我が家と呼べるほどの土地や部屋もない。
「頭を冷やしてきな」
それにしても、この界隈でいまどき捨て犬だなんて珍しい話だ。ヒンが子供の頃は野良犬なんてそれこそ無数にいたのだが、知らぬ間に片っ端から捕獲され、遠心力の及ばぬ世界へことごとく弾き出されてしまった。数字が割り振られ、区画整理の行き届いたこの土地では、犬一匹飼うにも高額な費用とそれなりの手続きを踏まねばならない。そこまでして飼いたかった犬を、やすやす手放すような住人がいるというのも妙な話だった。
マは心を痛めて外出したきり戻らなかった。
これの繰り返しだ。
昨日もおとといも、マは捨て犬を拾ってきては飼ってもいいかと請願してきて断るとどこかへ消えていく。1日の終わりに、球の下敷きになったぺちゃんこのマの死骸が見つかる。運良く球に潰されない日もあるにはあったけど、そんなときに発見されるマの顔なんて見てられやしない。ルーレットの賭け方もわからない間抜けおやじの鼻毛を全部抜いたあとの鼻の穴みたいな顔をして呆然としている。
ディーラーはひょっとして、どこにマが隠れているかわかっていて、わざと球をその場所に投げ入れているんじゃないか? ありうることだ。でもピがくたばったことは一度もない。
ピには端的にセンスがある。危機に出会ってはじめて対処するのではなく、危機そのものに出くわすのをあらかじめ回避する能力が備わっているのだ。ためらいがちであることと、決然とするということが、ピの歩行においては矛盾せずに同時に成り立ってしまう。習得までに時間をかけたぶん、一度開花した才能はちょっとのことで揺らがない。
赤と黒の無限平野。
ピはキャスター付きの犬小屋をロープで引き連れて出発する。
「じゃ、行ってくる」
「健闘を祈るよ」
ヒンがその後ろ姿を見送っている。
犬小屋を引き連れて行くのはピのアイデアだ。マの犬を引き寄せるための。小屋の中に、犬の大好きな肉のかたまりでも入れたらどうだとヒンは提案したのだが、臭くなるからいやだとピは断った。ためらいがちに、なおかつ決然と足を踏み出したピは、振り返ることもなかった。
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