見出し画像

変えたいのは目に見えないもの

昨日は、頑張った自分を褒める日、としました。

一つ新しい草案が浮かびました。
ジャンル分けが難しいですが、敢えてジャンル分けをするのならば、BLになるのか??

うーん…

結局、人間ドラマが書きたいのです。

目指していることは、誰もが自分を肯定できる空気がこの世界に満ちること。
性自認とか、性指向は敢えて話す必要のないことだと思うし、自分の中で折り合いをつけている人もいる。
正直に生きることが必ずしも正解ではないし、本人がその状態を心から幸せだと思えるのならば、他人が口を出すことではない。

問題だと思っているのは。
「自分って、変なのかな。」
「こんな風に思う自分は、異質な存在なんだろうな。」
と、感じてしまう人がいること。

自分は自分で良い。
そう思える世界であって欲しい。

大前提を変えて欲しい、と、言うお話なんです。
日常的に本当に他意なく使っている言葉の中に、男女の特定がされているものがあまりにも多い。

お母さん、お父さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、妹、弟 その他もろもろ。

他の言い方を探しても、まあ見つからない。
親と子は良いとして、問題はきょうだいとか親戚です。

性自認って、男女のどちらかだけじゃないのですよ。
私自身、ノンバイナリーが一番近いかな、と思っていました。
が、このところ、最も近いのは、両方の要素を持っているという認識が、一番近い、と、感じています。

ノンバイナリーって、どちらでもない、というか男性女性にあてはめようとしない。
けれど、私の場合、今日は女性が優位だな、とか、男性が優位だな、と、思考傾向を感じることがある。
性別でくくられるのは確かに苦手ですが、自分自身の性別を「両性」と考える人もいるんじゃあないだろうか?
と、ふと思いました。

十人十色ですから、人それぞれ微妙にニュアンスが違う事もあると思うのです。
何というか、異性愛者だけれども、一度だけ同性と関係を持ったことがあるという状況について。
「気の迷い」とか「若気の至り」とか、そういう風に捉えるのは、かえって不自然なことのように思えるんですよね。

その時は、その人と、そうなりたいって思ったんだから、それはそれで良いじゃない。
と、言いたいのです。
何も”間違い”にしなくても、良いんじゃないだろうか、と。

自分自身を100%異性愛者だと断定する必要もないと思うし、同性愛者だと決めつける必要もない。
何年後かに変わっているかもしれないし、明日変わる可能性だってある。

不変の美もあるけれど、変化の美だってある。
どちらの方が美しいとか、醜いとかそんなのは自分が決めればいいことです。
ただ、不変の方が美しいから、不変と言い切れない部分を間違いとしてしまうよりも、変化する揺らぎも受け入れたら、自分の人生全てが間違いのない美しいものとして認識できるのに、もったいないな、と、思うんです。

「あの時は、若かったから、気の迷いで。」
と、苦笑いをして過ちを語るより。
「あの時は、本当にあの人のことが好きだった。」
と、過去の美しい思い出の一つとして目を輝かせて語る人の方が、魅力的だと思うのです。

もちろん、あくまでも、その時の自分は、確かにそれを望んでいたんだ、と言う前提の話です。
色々な状況がありますし、一概には言えませんけれどもね。

大前提として、男女がいて、異性が恋愛対象な人が多数派だから、恋愛する相手はもちろん異性ですよね、と言う話の展開が自然的に交わされる状況を変えたい。

女の人に「彼氏いるの?」とか。
男の人に「彼女いるの?」とか。
無意識で、悪気もなく訊くじゃないですか。

セクハラとして問題視されることが多いですけれども、ジェンダーハラスメントとも言えるんじゃないかと思うんです。
ハラスメントって、言い出したら限りないので、正直苦手です。

何かのハラスメントにあてはめなくたって、単に言われて嫌なことは嫌だ!と言う話じゃないですか。
結局、ハラスメントだ!と、主張しないと、嫌なことを嫌だ!と、言えない世の中だという事なんですよね。

ただ、もはや仕方がない領域だと思うのです。
あまりにも長い間、それが当たり前だったから。
最近よく聞くワード「当たり前」のアップデート。
これまでの歴史の中で、何度も行われてきたことです。

今の時代、これだけ情報が早く広まるのに、「当たり前」のアップデートにこんなに時間がかかるのはなぜなのか。
それは、当たり前なんてものがそもそもあるからいけないんだ、と、いう考え方が主流になりつつあるからじゃないだろうか。
と、個人的には感じています。

多分今が一番混沌としている。
ここ数年が正念場な気がします。
数年後には新たな世界が広がっている、と、半分願望ですが、そんな未来を予感しています。


いいなと思ったら応援しよう!