正義と若さ故の過ちと
これからの正義の話をしよう
…………は全く関係なく、自分の若い頃の話。というか、考え方などを振り返って、いかにダメだったのかを話して恥ずかしくなるという、自虐ネタだ
昔、私は正義を信じていた。正しいことはあって、それにどれだけ近づけるかが大事…………そう思ってた。そんな私の周りの友達もアクが強い正義感の強い連中ばかりだ。当時はそれがいいと信じていたと思う。いろんなことで話をし合って議論してみたいな関係。まあみんながみんな自分を信じて疑ってないので、穏便に済むというのもなかなかなかったりするのだが…………
そんな友人達のことを、私は「親友」だと思っていた。確かに付き合いは10年を超えていたし、趣味などの話も合っていたからだ。結婚の時に祝福してくれた(式はしないがパーティーはやった)し、その後も長く交友は続いた
そんな中だが、以前にも書いた通りで幼少期からの病気もあり、会社を転々としなきゃならない時期が続く
ここで友人達から容赦ない意見が降ってくるわけだ。そりゃ「普通」で見るなら、親の問題を30代で未だに引きずるのはおかしいとか(当時はまだ毒親という言葉もほぼなかった)、気持ちが弱いんじゃないかとか(いや、痛いのはマジなんだって………)…………
正論は人を傷つける。決して救ってくれはしないものなんだなと今は分かる。ともかくかなりしんどい思いにはなっていったし、話しても無駄、というのは家でも(特に実家が)そうだったから逃げ場もなかった
だからこそなんだと思うが、徐々に常識や正論を疑い始めるようになってくるようになった。本当にそれは正義なのか?特定の事柄は何故ダメだと言われるのか?じゃあ今の普通って誰が作った?etc………
ここまでくると一気に何かが崩れていく。ある意味怖いことでもあった、なにしろ頼りになるものが実は何も無いって気づくわけで…………かなり大変な気持ちの整理が必要だったが、そこで私が手にしたのは
決めつけはろくな事にならない
という至極真っ当な考えだった。今もここは変わりがない。そうして徐々に友人達との溝が深くなる。なにしろ決めつけするメンバー揃いだ(私も一員だったわけだが)、正論を振りかざしてくる………のだが、もはや私には共感もできないものになっている
世の中の常識、その殆どは普遍性とは程遠い。その場所、その時々で全く別のものと変わってしまう。そんな曖昧なものが絶対の尺度にならないのは当然だ。もちろんそれでも法で縛る必要がある。それは社会秩序のためであり、人間としてという根源的な話とは違うわけだ
これで世の常識とは異なる判断で行動することも増え、友人達とは確実に一致しない立ち位置に身を置くことになる。またまた引用していくが、ガンダム水星の魔女のミオリネの言葉がまさにそれだと感じている
今彼らはどうしてるのか………全く連絡をとってないので分からないが、勝手に願うのは、どういう形にしろ以前とは別の考えをしてて欲しいなと………あれは子供の思考だと私は感じる。他人の思いを変えられると思うのは傲慢だから。だからこれは単純に私の願望だ
ともかく親友は親友ではなかった。だがそれでよかったとも思う。私の正義は私だけのもの。他人に強制するものではないし、強制されるものでもない。お互い成すべきと思ったことを為せばいいのだから
今昔の自分を見ると恥ずかしさ満点だ。どこもいいように思えない。でもそれがあったからこそ今がある、とも言える。若さ故の過ちもしてみるもんだ。もちろん若くない今は、こういう逃げ口上も使えないので、少しでも大人の気持ちを持っていたい。例え精神年齢が低かったとしても、である……