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映画は映画館で観ろ

「映画館に映画を観に来てくれてありがとうございます」
 この言葉を聞いたとき、ああ自分はこの人に会いに来たのだとそう思った。足を運んで良かった、とそう思った。
 薄暗さを残す小さな劇場でのことだ。

 4月23日、24日、第5回Beppuブルーバード映画祭に訪れた。豊田利晃監督が登壇すると知ってすぐに行くことを決めた。どうしても行かなければならない気がしていた。上映作品は『戦慄せしめよ』と『全員切腹』。いずれも鑑賞済みだったが、もう一度観たかったので渡りに船という気分で、チケットを取った。帰省から戻る電車の中。電子チケットの整理番号は一番だった。

 映画の子細に触れる前に、豊田監督を知ったきっかけなどを少し。あらかじめ述べておくが、自分は今まで小説一筋に生きてきて、映画については本当にずぶの素人である。様々な映画を本腰を入れて観るようになったのも、時間に余裕のできた大学時代からだ。(まあそもそも素人玄人という考えが視野狭窄である気もするが)
 豊田利晃という名前をきちんと認識したのは初めて『青い春』を観たとき。黒で塗られた校舎にハッとして、ミッシェルのドロップが流れる中で青い背景に浮かんだ文字を自分は一生忘れないだろう。
 しかしこれだけで終われば、きっと自分の中で名前を知っている一映画監督として終わっていた。『青い春』を観て間もなく、『ナイン・ソウルズ』に出会うことになる。
 最寄りのTSUTAYAでレンタル落ちの330円。それを買うことを躊躇わなかったのは、思い返せば不思議だ。帰ってすぐに視聴して、結論から言えば泣いた。もっとこの人の作品を知りたいと思った。観たいと思った。このときから既に別府へ足を運ぶことになるのは決まっていたのかもしれない。

 23日。17時から『戦慄せしめよ』の上映と舞台挨拶。自分が何をするわけでもないのに、信じられないくらい緊張していた。そういえば初めて『戦慄せしめよ』を観に行ったときもそうだった。期待と不安がないまぜになる感じ。この感覚は好きなものに触れるときしか得られない。ある種幸福な緊張感。しかし異様に手が震えて、困った。
 初めて『戦慄せしめよ』を観たのは大分のシネマ5。3月19日の初日、18時40分からの上映が終わり、言い得ぬ興奮を纏ったまま大分駅まで走るみたいにして帰った。二度目に観ても同じような興奮がある。これは圧倒的体験だと思った。体験は何度繰り返しても褪せたりしない。実感として在り続ける。そういう映画だと思った。何度観たって、この感覚を覚えるのだろう。そしてやはり、これは観た者にしかわからない。パンフレットにはDOMMUNEの宇川直宏の言葉が載っている。

戦慄せしめよ!! そしてその映画体験を他言することなかれ!! その戦慄を活動の源泉とせよ!!

宇川直宏(DOMMUNE) 『戦慄せしめよ』パンフレットより抜粋

 そうだろうか。正しくは、“他言することができない”のではないだろうか。この感覚を言語化するには、自分はまだ未熟すぎる。この文章を書くのにだって、打ちひしがれてばかりだ。ここに言葉の、本質を見た。

 二度目の鑑賞は一度目に比べて一瞬だった。パンフレットを読んでいたからか、既に流れがわかっているからか、それとも何か、未知の領域に進んだからなのか。とにかくあっという間で、そして二度目の方が強烈な爆音に感じた。舞台挨拶で聞いたところによると、音量を通常の1.5倍としていたらしい。成程それで以前よりも心臓に響いて感じたのか、と思い、その判断に心底感謝した。3月から続いていた耳の不調もすっかり忘れてしまっていた。
 「Woodblock」が印象的である。日野浩志郎の指揮・ハンドサインを読み取りながら演者が演奏を変えていく。このとき、酷く雨音に似ていると感じた。もっと言うなら、水の音に。水は自然界でも特別な脅威の一つだ。それが生み出すあらゆる音を、このとき聞いた。「Shiver」にて「滝」がキーワードとして決定していた意味がわかるような気がした。海、荒波、滝、浄土、水平線、賽の河原。やはりこの映画は、佐渡でなければならなかったのだろう。

 舞台挨拶の詳細に関して、記述するかどうか迷ったがあえて省くこととする。自分の記憶が定かか確証がないというのもあるが、言語化することで何かが失われることもある。今はそれが惜しい。

 24日。前日と同様に17時から『全員切腹』の上映と舞台挨拶。この日は14時から『ピンポン』の上映もあったため、このとき初めて整理番号1番が役に立つ。一番前の中央に座った。待ち時間を持て余して、江戸川乱歩を開く。
 『全員切腹』はつい先日、DOKUSO映画館の狼蘇山三部作の配信で観た。家の電波の調子がちょうど悪い時期で、時折数秒間止まるのにやきもきしながら観ていたのに、この作品のときは殆ど止まらなかった。窪塚洋介の切腹の演技に目が離せなくなって、まだ夜半は寒い季節なのに視聴が終わってすぐベランダに出た。落ち着こうと煙草を吸いながら、手が震えていたのを覚えている。寒さからではなく、興奮からなのは明らかだった。強いメッセージを感じて、もう一度観たい、とそう思った。幸運なことに別府での上映が決まる。尽く運が巡ってきているようだ。それとも縁だろうか。こういうのは思ったことが全てなので、そう考えることにする。
 二度目の『全員切腹』。配信で観るのと、劇場で観るのは全く違う。節々での太鼓の音に心臓が揺れる。『戦慄せしめよ』でも似たような言葉を用いたが、心臓が揺れるというのは比喩ではない。文字通り“揺れる”のである。耳から音を認識する前に、もっと身体の根底の部分から揺れる、響く。こういう音を発することができるのは、もしかすると太鼓だけなのかもしれない。
 雷漢の長台詞、切腹の場面にはやはり見入る。月並みな言葉だが、呼吸すら忘れる時間だ。台詞の間、話者に寄るのではなく少し引いた形で雷漢を横から映したカットが印象的だ。境内にある石灯篭だろうか、その一部も映りこむ場面。自分もその場に居て彼の言葉を、切腹を、目の当たりにしているような没入感を生む。雷漢の言葉は、決して他人事にはならない。あらゆる人々にとって、そうであるはずだ。全員切腹、上等だ。本当に「どいつもこいつもくたばればいい」。
 これから先、生きていく中で何度もこの言葉を思い出すだろう。


*時折敬称略となったことをお詫び申し上げます。
*監督並びに演者・制作陣の皆様方、素晴らしい作品をありがとうございました。劇場で観る機会を与えてくださった関係者の方々にも感謝申し上げます。
*届くかわかりませんが、別府ブルーバード劇場で自分を呼び止めてTシャツを買わせてくれたお兄さん方もありがとうございます。なんだかんだで欲しかったみたいなので大切にします。

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