【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】#3
冷たいアスファルトの上で、キンジは億劫に眼を覚ました。視界はぼやけたまま。全身がズキズキと痛んで、燃えるように熱い。鈍重に身体を起こし、混乱したニューロンを何とか整理させようとする。あの時、何が起こったのか?どれほど時間が経ったのか?突然、リムジンに何かが落ちてきて……アタネを連れて外へ……それから?……。
「……アタネ=サン!!」
喉の奥から声を絞り出す。ハッキリと意識が覚醒する。視界が明瞭になる。渦巻く炎、煙、煤塵、血……黒い液体。凄惨な光景が目に飛び込んでくる。キンジはリムジンであったスクラップを見た。瞬間、冷たい何かが彼の背に突きつけられた。筒状の何かが。背筋に悪寒が走る。
「動かないで」
腰の辺りから、淡々とした女の声音が聞こえてくる。仄かに漂う、果実めいたフレグランス。キンジは恐る恐る首を巡らせて、視線を背後にやった。小柄な少女が彼の背中に銃口を押し付けている。「お、女の子……?うぐッ」その銃口がグッとより強く押し付けられた。
「……動かないで」
「君は……君は誰だ。何者だ?何が目的で、こんな。こんなことを!」
困惑と怒りが綯い交ぜになった激昂を背後の少女にぶつける。答えは返ってこない。鼻腔をつく芳しい香りが、彼の最愛の妻を想起させる。キンジは尚も熱帯びた声を上げる。
「アタネ=サン……アタネ=サンはどうした!?彼女に何かあれば、僕は容赦しない……ぞ……?」
……その熱が急激に冷えていくのをキンジは感じた。突如として眼前に飛来した、巨大な黒いヘドロの塊に困惑した。困惑はやがて、恐怖に変じた。
「ヘェー。容赦しねェって、何する気だキンジ=サン?カラテでもすンのか」
ヘドロの中から、のっそりと男が姿を現す。若い女を小脇に抱えて。男は拘束衣の金具をガチャガチャと弄り、装束を整えながら気怠げに口を開く。
「ファーア……デスドレインです」
オジギもなくば、掌を合わせることもない欠伸混じりの不遜極まりないアイサツだ。
「ア……アイエエ……ニンジャ……!?」
シツレイを指摘する余裕など当然なく、キンジはただただ芯の底から這い上がってくる深淵の恐怖に震えていたが……悪魔じみた痩躯に抱えられた女の姿を捉えて、眼を見開いた。
「……アタネ=サン……?」
「ヘヘヘッ、おもしれェ顔してンなァ、お前。この女ァ、ヤッてるあいだ、ずぅ……ッとお前の名前呼ンでたぜ?『アン、アッ、アアン!キンジ=サン、キンジ=サァーン!助けてェー!』つッて」
デスドレインが悪辣な言葉を吐き、アタネの肉体をドサリと投げ捨てた。ぐったりと横たえる最愛の妻。うつ伏せの状態で、顔は見えない。きっと、安らかな顔はしていないだろう。そんな変わり果てた妻の姿に、キンジは唖然としていた。現実を受け入れられなかった。悪魔は愉快そうに吐き連ねる。
「それなのにお前、ぐっすりオネンネしてンだもんな?ヒデェよ、ヒデェ!キンジ=サン、お前最低だ!人間のクズだ、ヘヘヘヘヘ!」
その下卑た嗤いに、キンジの胸中に段々と怒りの感情が沸々と湧き上がっていく。相手はニンジャだ。本能が理解している。敵うわけがない。それでも感情は、衝動は止められない。噛み締めた唇から血の味がする。震える拳を握る。目一杯に力を振り絞る……!
「き……貴様ァーッ!」
噛み締めていた口を開け、叫ぶ。無我夢中でカラテを構えて飛び出す。ニューロンの引き出しを開け、幼少期にカチグミの嗜みとしてカラテを習った経験を絞り出す!
「イヤーッ!」
BRATATATATA !!!
「グワーッ!?」
しかして彼の尽力は容易く、呆気なく折られてしまった。背後から浴びせられた無慈悲なサブマシンガンのフルオート射撃が、彼の脚を撃ち抜いたのだ。鮮血を迸らせて転げ込むキンジを無表情のままに一瞥した少女が、デスドレインの方を見やる。
「これでいい?」
「アーアー、ヒデェことすンなァ、アズール。せッかくコイツ、カラテしようとしてたのにさ……ロクデナシだな、お前も」
「……どうせ殺すんでしょう」
ケラケラと嗤う悪魔に辟易としながらアズールは銃を下ろし、這いつくばるキンジの側を通り過ぎてデスドレインの傍に向かっていった。キンジは苦悶に喘ぎながら己の無力さを嘆く。少女と悪魔を睨み上げる。唐突に訪れた悪逆非道の使徒らを呪う。
(((……いや……違う。わかっていた筈だ。不吉な予感はあったんだ。インセクツ・オーメン……ああ、ブッダ!あの時僕が、引き返していたならば……アタネ=サンは……)))
歯を食いしばって、匍匐めいて脚を引き摺りながら変わり果てたアタネの元へと這う。せめて最期は一緒に。直にケビーシ・ガードがやってきて、この暴力者たちを討伐してくれるだろう。だから自分の役目は、アタネがちゃんと向こう岸に着けるよう、一緒に……。
その時、彼のニューロンは妙にクリアになって、思考を巡らせた。何かが引っ掛かっている。何かが。違和感がある。その違和感は?
(((……ケビーシ・ガード?ガイオ罪罰治安部隊……ガイオン市警す罪罰だ来てい罪罰というのに、ケビー罪罰来て罪罰るのか?そも罪罰何故周りが静か罪罰だ?カ罪罰チ・レー罪罰こん罪罰惨事が起きてい罪罰罪罰いうの罪罰何故?罪罰何の騒ぎに罪罰罪罰も罪罰罪罰罪罰)))
思考罪罰巡罪罰る。ニュ罪罰罪罰罪罰おかしい罪罰罪罰ニンジャが罪罰罪罰罪罰ニンジャナン罪罰這いず罪罰アタネの元へ罪罰罪罰罪罰空色の瞳が細ま罪罰罪罰罪罰格子模様。目玉。無数の。ガイオン罪罰罪罰罪罰罪罰
罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰
歯を食いしばって、匍匐めいて脚を引き摺りながら、横たわるアタネを見る。あと少し、あと少しだ。せめて最期は一緒に、アタネがちゃんと向こう岸に着けるよう、一緒に。ニンジャの恐怖から逃れられるように。
「……ゴボッ」
キンジの目が見開かれた。その音はアタネの喉から発せられていた。
「ゴボッ、ゴボボッ……」
「ア、アタネ=サン……!」
必死になって、痛む脚を、体を無理やり起こす。デスドレインはヘラヘラしながらアタネを見下ろし、それからキンジに邪な眼を向けた。
「ヘヘ、そらよォー」
デスドレインに乱雑に蹴り転がされたアタネの肉体がキンジの眼前に放り出された。キンジは血を滴らせながら屈み込んで、彼女を抱きかかえた。
「ゴボボッ、オゴッ、ゴボッ」
「アタネ=サン!アタネ!アタ……ネ……」
抱えた彼女の、その顔を見やる。可憐に飾った化粧は汗や涙で滲んでいる。素朴であどけないアタネの表情は恐怖と苦痛に歪んでいる。肌はとても冷たい。彼女の開かれた口からは……黒い液体が垂れ流されている……。
「……アタネ?」
とめどなく流れるヘドロめいた黒い液体。あの悪魔じみたニンジャが纏っているのと同じ物。ドロドロとしたそれは、口だけでなく彼女の鼻からも。そして。眼球を押し出し除けて、眼窩からも黒い汚泥が流れ出た。激しく痙攣しながら、アタネから……アタネの屍体から、コールタールめいた暗黒物質が這い出していく。
「なァ、キンジ=サン。どンな感じだ、今。気分最悪か?」
身を固くして茫然自失とするサヤラ・キンジにデスドレインが歩み寄る。彼はニヤニヤしながらキンジの頭を鷲掴みにした。
「ヘヘハハハ。カワイソーになァ、アタネ=サン。ほら、キスしてやれよキンジ=サン。アタネ=サンがカワイソーだろ?一人で死ンじまッてさ……」
グッと力を込めて、彼の顔をアタネの顔へと近づける。目鼻口から黒い汚泥を垂れ流す顔へと。キンジは震え慄いた。
「ヤ……ヤメ……」
「はァ?ヤメロって言おうとしたか今?やッぱヒデェな、あンた!ヘヘヘヘヘ!まァいいや!ハハハ、俺、優しいからさァ。サービスしてやるよォ……」
より強く力を込める。ニンジャの力に抗えるはずもなく、キンジの顔がアタネの顔に押し付けられる。「ンム……ッ!?」「オゴッ、ゴボボーッ!」直後、アタネの口から暗黒物質が大量に湧き上がり、キンジの口内へ!
「オゴーッ!?ゴボッ、ア、アババーッ!?」
陸に打ち上げられたマグロめいてサヤラ夫妻の身体が跳ね上がり、激しく痙攣しだす。穢らわしい水音を忙しなく立てて、二人の肉体をアンコクトンが蹂躙する!ナムアミダブツ!
「ヘヘ、へへヘハハハハ!オシアワセニ!ハハハハハ!」
猟奇的な光景に腹を抱えて大笑いするデスドレイン。程なくして、キンジの肉体から湧き上がり出した新たなアンコクトンが、彼の中に踊り込んだアタネのアンコクトンを押しのけ、混ざりあいながら噴出した。二人分の命を弄び貪ったヘドロめいた暗黒物質が、重なり融けながらデスドレインの痩躯に染み込んでいく。アスファルトに拡がっていた黒い汚泥がゴボゴボと泡立つ。
常軌を逸した残虐な行いを、空色の瞳が見つめている。表情の乏しい少女の顔には、不愉快さが僅かに滲んでいた。ひとしきり笑った末に、デスドレインはアズールの方を振り返った。心底愉快そうな顔を浮かべて、彼はズカズカと少女に歩み寄っていく。
「ヘヘ、ヘヘヘ……ハァーッ……お前もキスしてみるかァ?アズール」
背を折り曲げながら囚人メンポを剥がし、彼女の顔を覗き込むように見やる。
「嫌、だ」
「へへへ、ツレねェの」
アズールが後退りながらかぶりを振って拒絶すると、デスドレインはヘラヘラと笑って口から暗黒物質を吐き出し、囚人メンポを己の顔に張り付けた。周囲のアンコクトンが彼らの元へと集約していく。
「そンじゃ、チンタラしてねェで、とッとと行こうぜ。……アー、そうだ。アズール」
デスドレインがチョイチョイと手招きする。アズールは警戒しながら、オドオドとした様子で彼に近づいた。痩躯の男は暗黒の触手を己の側に来させて、そこに呑まれていた物体を引き摺り出し、少女に手渡した。
「それ持っとけ。パーティ行くンだしよ、手ぶらじゃシツレイだぜ」
「……」
アズールは言われるがまま、それらを預かり持った。アンコクトンが二人を包み込んでいく。次なる饗宴の舞台へと、暗黒は進撃を開始した。破壊と殺戮の痕跡を夥しく残して、デスドレインとアズールはその場から消えていった。
一層強く吹いた夜風が、警護車両の残骸を焦がす炎を巻き上げて、火の粉を辺りに散らしていく。サヤラ夫妻の屍に付着したそれが、二人の衣服に燃え移っていく。二人分の荼毘めいた炎と煙が燻って、ガイオンの夜空に昇っていく。
◆◆◆
リジェンシ・セッショ、特別応接室。厳かな墨モルタルの壁には『不如帰』の掛け軸。シックな色調のモンツキで着飾ったフクスケが、ベルベット生地の高級ソファに腰掛けて向かい合う人らを眺めている。
今、この場には居るのは三人。端正な顔立ち、その口元を扇子で扇ぐマサラサマウジ・ハクトウ。そして、その秘書たるアスミ・キナタコ。彼女は座さず、ハクトウが腰掛けるソファの背凭れの側に立っている。
二人と紫檀の机を挟んで向かい合うのは中肉中背の男。ハクトウとアスミよりやや歳上といった程の男だ。彼はソファに深く腰掛け、好奇心に満ちた目つきで室内の調度品等を見渡していた。
「いやぁ、立派なものですねぇ。実際、完成を今か今かと待ち望んでおりましたから!投資の甲斐があったというもので!」
男は恩着せがましく、粘っこい声で言葉を発した。アスミは僅かに侮蔑の眼を見せるが、男は気づかなかった。ハクトウは扇子で口元にやって、柔らかな眼差しで男に言う。
「ええ、ええ。お世話になりました、ヤンスギ=サン」
「ドーモ、ドーモ。これからもヨロシクオネガイシマス」
ヤンスギ・オミダは力強く頷いて手を差し伸べる。ハクトウはアスミに目配せした。彼女は静かに頷いてその場を離れた後、恭しい所作を以てチャを運んできた。心地よい香りを立てたそれを、机上に置く。
「つまらないものですが」
差し出された茶器を見て、ヤンスギは一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに和かな顔を作ってそれを受け取った。ヤンスギがナスめいた漆塗りの茶器を三度手元で廻して一気に飲み干す様を、ハクトウとアスミはジッと見つめる。
「フゥーッ、いやはや結構なオテマエで!」
「ははは。余程喉が渇いておられましたかな?斯様、綺麗に飲み干されて」
扇子で口元を扇ぎながら、ハクトウは柔かに微笑んだ。ヤンスギは満足げな顔をして、音を立てながら茶器を机上に置く。
「左様、ここまで急いで来ましたからな。ああいや、無論走ったりはしていませんがね?比喩的なものです。いち早く馳せ参じた次第で……」
「ええ、ええ。ヤンスギ=サンとは、他の参加者の方を差し置いてでも……個人的に。話がしとう御座いましてな」
ハクトウの言葉の後、アスミは嫋やかな仕草で一礼し、朱色のカンザシで結えたミルキーベージュの髪を揺らして、奥ゆかしく部屋を出ていく。ヤンスギは身を乗り出しながら興奮気味に口を開いた。
「となると、マサラサマウジ=サン。次の共和国議会の、議員選挙への……!」
彼は貪欲さを隠そうともせずに眼を爛々と輝かせた。ヤンスギ・オミダはまだ若い、新進気鋭の政治活動家だ。官僚の父を持ちながら、伝統と歴史で成り立ったガイオン、ひいてはキョート共和国に革新を齎そうと意気込み、そのフレッシュさと歯に衣着せぬ斬新な発言によって少なくない数の支持者を得ている。
ヤンスギはリジェンシ・セッショへの投資に一早く手を挙げ、多額の資金援助を行ってきた。マサラサマウジの血統を継ぐ者を後ろ盾に得られれば、議席確保に一歩近づくと考えていたためである。そして今、タワーホテル完成を祝うパーティにおいて。彼は他の参加者らとは別に、密やかに特別応接室に通された。間違いなく、好意的な言葉を聞けるはずだ。
「ええ、ええ……」
ニコニコと笑みを目元に湛えるハクトウにヤンスギは喜色の顔を浮かべた。
「ハハハ、やはりお若い方とは意見が合いますなぁ。共に古臭い伝統を脱却していきましょうぞ。……あー、そうそう。このタワーホテルなんかもそうですよ!僕からすればねぇ、こういうのはもっともっと高く建てた方がより立派でスゴイ!あの忌々しいガイオン景観法……五重塔より高い建築物を建ててはいけないなどど、全く反吐が出ます」
「ええ、ええ……」
忙しなく捲し立てるヤンスギに対し、ハクトウは微笑んだまま、顔色ひとつ変えない。一人喋り倒していたヤンスギはハンカチで汗を拭ってソファに座り直した。
「フゥーッ、一気に喋ると実際疲れます。チャのオカワリをお願いできますか?」
ヤンスギは柔かに言った。それから、ハクトウを見やって息を呑んだ。扇子で口元を覆った彼の眼差しは、ゾッとする程冷たかった。
「は。は。は。時に、ヤンスギ=サン。イカロスの言い伝えを知っておりますかな」
「え?イ、イカロス?」
「ええ、ええ。ギリシャ神話の……栄光という太陽に近づき過ぎたが故に、蝋の翼を失って墜落死した傲慢な人物です」
扇子に隠された口元から、怜悧な声で謎めいた言葉が紡がれる。ヤンスギは拭ったばかりの額に浮かんだ冷や汗を、再度ハンカチで拭った。
「それが……何か?」
緊張に渇く喉で言葉を搾り出す。ハクトウは鼻を鳴らして、冷ややかに声を綴る。
「或いはソドムの伝説。死海周辺に存在した古代頽廃都市ソドムは、その道徳的腐敗を見咎めた神によって火を放たれ、業火の中に潰えました」
ハクトウの瞳、その虹彩に不可思議な淡い金色の光が帯びていく。ヤンスギは得体の知れない不気味さを感じ、より深く、身をめり込ませるようにソファに座り込んだ。
「さ、先ほどから何の話をしておられるのかな、マサラサマウジ=サン……」
「わかりませんか?では、もっと卑近な例を挙げて差し上げましょう」
怜悧な声と、金色の瞳。柔かさはとうになく、あからさまな蔑みの感情が彼の目元に浮かんでいる。ハクトウは一拍あけて、言葉を放った。
「マグロアンドドラゴン・エンタープライズ。その顛末……覚えておいでですか?」
イカロスやソドムなどの、馴染みの薄い神話や伝説の話から、一気に身近な名前を紡がれ、ヤンスギは奇妙な不可解さを感じた。緊迫感に包まれながら、どうにか息を整えて口を開く。
「え、ええ。はい。マグロアンドドラゴン社ね……そう、あのカイシャこそ僕の理想ですよ。高度規制を反して本社ビルを建てて……本当に惜しいですよ、ガイオンに新しい風を吹かせるキッカケになっていたでしょうに」
「ヤンスギ=サン。イカロスやソドム……ああ、バベルの塔もそうですね。あれらは愚かにも神の領域を侵そうとして滅んだ。滅ぼされた。そして同様に……マグロアンドドラゴン・エンタープライズもまた、神の怒りを買って滅んだ。……そうは思いませんか」
ヤンスギ・オミダは目を丸くして、秀麗な若き貴人の顔をまじまじと見た。ハクトウは刺すような侮蔑の視線で彼を見据えている。新進気鋭の政治活動家は鼻白んで肩を竦めた。
「フゥーッ、やれやれ……変に緊張して損をしましたよ。マサラサマウジ=サン、あなたはもっと理知的で常識のある方とお見受けしていましたがね」
ハンカチを懐にしまい、打って変わった余裕さを見せつけてふんぞり返る。
「いきなり何を言い出すかと思えば、まったく。イカロス?ソドム?バベルの塔?ハッ、神話や伝説など、所詮はフィクションですよ。マグロアンドドラゴン社はノンフィクション!現実です。神の怒り?そんなスピリチュアルな話に踊らされるのは、それこそ愚かというものです」
ヤンスギは傲慢な物言いを放ってみせ、ハクトウの反応を伺った。白磁めいた美麗な肌をした貴人はやはり顔色ひとつ変えず。冷たい視線を向けたまま……ゆったりと扇子を閉じた。
「……え?」
ヤンスギが素っ頓狂な声をあげて固まった。時が止まったかのように。彼の目は、ハクトウの顔に釘付けになっていた。ハクトウは閉じた扇子を紫檀の机に置き、男を金色の瞳で見据える。彼の隠されていた口元……否、鼻から下は均整の取れたプラチナのメンポに覆われていた。
ミディアムスタイルに整えられた閑雅なる薄紫色の髪、その毛先に向かってグラデーション状の金色の光が走る。高貴な紫金の髪を指先で撫で付けながら、ハクトウは掌を合わせて優雅にオジギをした。
「ドーモ、ヤンスギ・オミダ=サン。スプレンディドです」
「ア……アイエエエエ!?」
アイサツを受けたヤンスギは激しく動揺し、後退ろうとしてソファを転倒させた。
「アイエエエエ!ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」
急性NRSを起こし、激しい動悸に襲われながら失禁!己の正装姿を汚しながら、ブザマに這いずって部屋の隅へ向かおうとする!
「イヤーッ!」
「アバーッ!」
大理石のフロアタイルにナメクジめいて失禁跡を延ばしながら逃げ惑うヤンスギの背中に、スリケンを象った金色の光が突き刺さる。スプレンディドはツカツカと歩んで、彼の前に立った。
「スピリチュアルな話。そう言いましたね?ええ、ええ……ですがどうでしょう。私は実際ニンジャです。わかりますか?」
「ア、アイエエ……」
「わかりますか?」
スプレンディドはヤンスギの背に刺さった光のスリケンを踏みつけ、より深く突き刺した。
「アイエエエエ!」「わかりますか?」「わ、わかります!わかりました!」
混乱と恐怖に醜く顔を歪めて、吐血混じりに男は叫んだ。スプレンディドは鼻で笑い、足を離す。
「ヨロシイ。さて……ニンジャは実在しています。ノンフィクションです。ニンジャがノンフィクションであるならば、どうでしょう。イカロス、ソドム、バベルの塔……それらに纏わる話がフィクションの産物であると言えますか?」
「そ、そんな……そんなバカな……まさか……!?」
太古の恐怖が、遺伝子に刻み込まれた深淵の恐怖が、ヤンスギの知識と常識を凌駕して、残酷なまでの理解力を授けた。点と点が繋がっていき、ニンジャ真実の輪郭線をなぞっていく。半神存在を、その恐怖を前にして、本能が理解している。
「ええ、ええ。イカロスも、彼を灼いた太陽も。ソドムを焼き払ったのも。バベルの塔を崩したのも。全てはニンジャなのです」
淡々と、冷酷に告げられた真実を理解し、ヤンスギは発狂しそうになった。だがスプレンディドはそれを許さず、背に生えた光スリケンを踏みつけて苛み、痛みで彼の正気を引き留めさせた。息も絶え絶えの男にスプレンディドは言う。
「マグロアンドドラゴン・エンタープライズ。アレが侵したのはガイオン景観法であり、それは神の……即ちニンジャの領域を侵したことに等しい。ガイオンを支配するのは共和国議会でも政府でもありません。ニンジャなのです。ニンジャの怒りを買って、彼らは滅んだ」
「う……ううっ!そんな……で、では、僕は?僕は、ニンジャの怒りを?」
「ええ。あなたも、あなたのパトロンもね。泳がせておいたんです。愚者の元には愚者が集まる。塵は纏めて捨てた方がいいでしょう?……ああ、そう。あなたの支援者は先にサンズ・リバーの向こうへ渡っていますよ」
言い終えると、彼は倒れ込んだヤンスギの襟を掴み、軽々と片手で彼の身体を持ち上げた。悲鳴をあげるヤンスギの首に向け、チョップ手を構える。
「アイエエ!アイエエエエ!」「イヤーッ!」「……ア?」
恐るべきカラテシャウトに恐怖した後、ヤンスギは訝しんだ。何も起こらない。困惑する彼の首が傾いた。寸分違わぬ赤色の線がその首に走り、切断された頭部が脱落した。
「……アバーッ!?」
ナムサン、ボトルネックカット・チョップ。余りにも速いチョップ斬撃の振り抜き。スプレンディドのシルクグローブには一切の汚れが無い。彼はフクスケの頭に手を置く。隠し機構が展開し、大理石フロアタイルの一角がダストシュートめいて開くと、無感情に屍をそこに捨て入れた。床を転がる頭部も同様に、無感情に蹴り転がして捨てた。
スプレンディドは紫檀の机に向かい、机上に置いた閉じた扇子を手に取ってから懐にしまう。グラデーションめいた金色の光が淡く消えて、薄紫一色の髪に戻る。プラチナメンポもまた、光となって消え失せた。マサラサマウジ・ハクトウは衣服を整えながら部屋を出る。廊下ではアスミが待機していた。一礼する彼女にハクトウは頷く。
「終わったよ。あとはパーティを楽しむだけだね」
「ハイ。……あっ」
佇まいを正す彼の所作のなか、フォーマルホワイトスーツのポケットに、彼女は厚手の上等なハンカチーフを見た。ハクトウが身につけている服飾より、ワンランクほど価値が下回るそれを。思わず漏らしてしまった小さな声を恥じて、アスミは口元を手で覆い隠した。
「どうかしたかい?」
「……いえ、スミマセン。シツレイを」
「ふふっ、いいよ別に。何もないならそれでいい」
微笑みをアスミに見せて、先を歩くハクトウ。アスミは彼に続いて歩みを進める。口元を綻ばせ、少し
だけ、朱色のカンザシに手を触れて。