【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】#1
華の薫りに空気を彩られたチャノマ。オーガニックの畳、フスマはどれも厳かで、それでいて艶やかだ。貴き円卓の如きチャブ・テーブルの前に座するは若い男。閑雅なる薄紫色の髪をミディアム・スタイルに整えた、白磁めいた麗しい肌の男だ。名はマサラサマウジ・ハクトウ。エド戦争で大義を果たした武家一族の血を引く由緒正しき家系の末裔であり、ビジネス界に名を馳せる資産家でもある。
清潔感のあるフォーマルホワイトのスーツを纏った彼は、凪の如き穏やかさをもってチャブ上の湯呑みを手に取った。眼を閉じ、音を立てず、僅かに唇に潤いを保たせる程度にチャを飲む。ゆったりとチャブ上に湯呑みを戻し、眼を開ける。視線を向けるはチャブ横に鎮座するシシマイUNIX。
まもなく、奥ゆかしい電子笙音がメッセージの受信を彼に知らせてきた。ハクトウは送信者の名を見る。サヤラ・キンジ。次いで、電子メールを開封し、検める。奥ゆかしく修飾された文言に彼は満足気に頷いた。その内容が、彼の立ち上げたグランド・タワーホテル『リジェンシ・セッショ』の完成を祝うパーティへの招待に対する肯定的な返答であったからだ。
彼と交友を深めることは実際好ましいことだ。そうハクトウは考える。カチグミたる家が没落し、ドン底のなかで運命の女性に出会い、彼女に支えられて見事カチグミに返り咲いた成功者。人格は大変に良い。それでいて強かだ。自身の誠実さと人の良さを自覚し、謙虚でありながらにそれを強みにアピールすることができる人間。素晴らしい才覚。
『苦しい生活を乗り越えられたのはアタネ=サンのおかげです。彼女が僕に手を差し伸べてくれなければ、今頃僕はサンズ・リバーにいたことでしょう』……いつかの会談の折、朗らかに答える姿が印象的であった。此度のパーティには彼の妻、サヤラ・アタネも招待している。夫妻での出席に彼らは応じた。良いことだ。
アタネはカチグミの家系ではなく、元オーエルの一般女性の身。貴賓に惑い、シツレイを犯すやもしれぬが、ハクトウは一向に構わないと考えている。むしろその方がより好ましい。彼女の礼儀作法に過ちがあれば、キンジが彼女を立ててやり、彼のその人柄を周囲に見せる。そうなればハクトウは夫妻の絆を讃え、自らの器の広さと人格をアピールできる。それは互いのコネクションをより広く、深く繋げていくための布石。人は人を呼び、人はカネを呼ぶ。つまるところ、互いにWin-Winを齎すものだ。
実際、キンジとハクトウの間にそのような遣り取りの打ち合わせは一切ないが、両者ともに描く筋書きは同様であろう。成功者同士、多くは語らず。マサラサマウジの長男は琴弾きめいて丁寧なタイピングで返答の電子メールを認めたのち、物理招待状を送る手続きをとる。
……カコン。手続きを終えてから数秒後、彼の耳にシシオドシの雅な音が届けられた。やおらに立ち上がり、オーガニック・フスマを優雅に開いた。廊下へ進みでると、通路の中心を空けて片膝を立てた、恭しいオジギ姿勢をとって待機している女が視界に入る。ミルキーベージュの髪を朱色のカンザシで纏めた、線の細い若い女だ。彼女の側でマサラサマウジは立ち止まった。自然な動作でそちらに視線をやる。
「ドーモ、マサラサマウジ=サン。アスミ・キナタコです」鈴を転がすような澄んだ声で、ダークネイビーのパンツスーツスタイルの女が視線に応える。ハクトウは優雅なオジギで返す。「ドーモ。パーティの準備は問題なく進んでいるかい」怜悧な声で彼が問うと、女は顔を上げて返答した。「つつがなく」と。
ハクトウは端的な言葉に微笑み、彼女を促して立ち上がらせて廊下を進んでいく。アスミは一礼して彼に続く。
「少しばかり、下見に行っておこうかと思う」自身の薄紫の髪先を撫でつけながらハクトウが告げる。「何せ、パーティ当日までは暇で退屈だからね。ついでに何処か観光したあと、カイシャで打ち合わせがてらにチャを楽しもうか。車、出してくれるかい」彼がアスミに視線を向けると、彼女は眉を顰めた。
「協賛各所とのIRC対談等の応対が山程ありますが」
「それが暇で退屈だと言っているんだよ、我がアプレンティス」
肩を竦めて彼が言うと、やはりアスミは端的な言葉を返した。「今はアデプトです、マスター」「大して変わらないさ」……そのような他愛のない会話の後、アスミが運転手を務める高級セダンで二人は邸宅を発ち、『リジェンシ・セッショ』へと向かった。
基盤目状に整然と仕立てられた絢爛な街並みの雅な輝きが彼らを迎える。規則的に配置された五重塔を吹き抜ける風が活気をのせて舞い飛ぶ。景観法によって保たれた伝統ある美麗な建築物と、生き生きと萌ゆる自然とが調和し、神秘的光景を醸し出す。
……それら神秘と伝統が覆い隠す下に蠢動するは欺瞞と惨憺。ここはキョート・リパブリック。ガイオン・シティ。
【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】
ガイオン・シティ某社にて。二人の人影が、ザゼンルームめいた一室で向かいあって座している。
一人は端正な顔立ちの若い男。白磁の如き麗しい肌、ミディアムスタイルに整えられた幽玄な薄紫色の髪。纏うフォーマルスーツは気品ある月白色。彼の名はマサラサマウジ・ハクトウ。或いは、スプレンディド。ザイバツ・シャドーギルドのマスター位階に属するニンジャである。
もう一人は、彼と同年代か少し下かという年頃の、切れ長の目をした美しい女。ミルキーベージュの髪は朱色のカンザシでまとめられており、着用するのはダークネイビーのパンツスーツ。アスミ・キナタコ、ニンジャとしての名はペネトレイト。アデプト位階のニンジャだ。
対面する二人の間、黒檀のチャブ上には二人分のチャと茶菓子。儀礼的作法の痕跡は僅か。今この時間は私的な交流であり、両者にムラハチの意思は存在しない。キョート人らしい奥ゆかしい最低限の礼儀作法に則った所作で二人は言葉を交わす。
「パーティの参加者名簿は仕上がったんだっけ」
ハクトウが言うと、キナタコはチャを啜りながら頷いた。男は怜悧な声で続ける。
「当日の送迎、護衛、警備……その辺りはどうだい?」
「つつがなく手配できています、マスター」
茶器を置いたキナタコが、鈴を転がすような凛とした声音で答え、手元の端末を操作する。聚楽壁に帷めいて下されたプロジェクターに、警備隊やVIP警護人員らの数と配置が映し出された。ハクトウは微笑みながら頷いた。
「うん、いいね。会場内にはロイヤルスモトリ重戦士を置こうかと思うけど……」「そちらも手配のメドが立っています。明日には良い返事ができるものかと」「さすが。手際がいいね、我がアプレンティス」「……アデプトです」キナタコは朱色のカンザシを手慰みにした。
彼らが話すは、マサラサマウジ・ハクトウが経営を担うタワーホテル『リジェンシ・セッショ』完成を祝う催しに関するもの。端麗な男は顎に手をやって、少し考え込む素振りを見せる。
「……まぁ、ケビーシ・ガードの手を借りられればそれが一番なんだけど……スローハンド=サンから恩を受けることになってしまうからね」
「はぁ。私は、その、政治的なことはよくわかりませんが。かのグランドマスターと繋がりを得るのは不都合が?」
「ふふっ。おれは何処にも肩入れしていないし、されるつもりもないよ。時に、二大貴族主義派閥の一角、イグゾーション=サン亡き後の派閥闘争は実際目まぐるしい。今はパーガトリー=サンが彼の派閥を吸収していって力を増していっていることだし……ここでスローハンド=サンとやり取りすれば、パーガトリー=サンに目をつけられるかもしらない」
「はぁ……なるほど……?」
「君もザイバツ内で生きていくなら、こういう面倒ごとも勉強していかなきゃな。無知のままでは都合よく扱われ、濡れ衣を着せられ、カマユデにされるぞ」
「……善処します」
……マスター・ニンジャ、スプレンディドはザイバツ内の如何なる派閥にも属せぬ、所謂『根無草』のニンジャである。確かなカラテとジツ、高位のソウル、優れた血統、経営の手腕、組織への多額の上納金、忠義……それらが彼を強者たらしめ、無派閥を貫くことを可能とさせている。
強者の根無草は、派閥間のパワーゲームに巻き込まれることはない。如何なる干渉も受け付けない。ただし、それは安泰と危殆を隣り合わせにする。少しでも綻びを見せれば付けいられ、絆されることとなるため常に強者であり続けねばならず。また、如何なる干渉も受け付けぬと言うことはつまり、根無草側からも干渉ができぬことを意味する。誰の手も借りられぬのだ。
「それに……」ハクトウはチャを少し啜り、息を吐いてから言葉を紡ぐ。「それに、スローハンド=サンは出奔した元グランドマスター……トランスペアレントクィリン=サンと深く関わりがあったようだからね。……厄ネタを抱え込んでいる可能性がある。陰謀に巻き込まれるのは避けたいね」黒漆の茶器を卓上に置き、茶菓子を手に取り口にする。
「出奔」キナタコは首を傾げた。「トランスペアレントクィリン=サンは追放されたのでは」
「ン?そうだったかな……何にせよ、シテンノという忘形見を置いて彼はギルドを去った。それは事実だね。そのシテンノも、今やパープルタコ=サン唯一人だが」
「パープルタコ=サン……ああ、あのお綺麗な方」
キナタコの言葉にハクトウはやや含みのある笑みを浮かべて頷いたあと、感傷めいて言う。
「師父に捨て置かれ、友に先立たれ。まこと、ショッギョ・ムッジョであることよ。彼女は確か、ブラックドラゴン=サンの形見たるアプレンティスの面倒を見ているのだったか……」
「色々と知っておいでですね」キナタコが茶菓子を口にした。「ギルドのことも、ギルドのニンジャのことも」朱色のカンザシを物憂げに手慰みにしてから、嫋やかに茶器を手に取り、嗜む。
「うん?それはそうだ、伊達にマスター位階に就いていないよ」言い終えて、ハクトウも茶菓子を口にした。そして品のある仕草でチャを飲み、それから、何とはなしにもう一度茶菓子を口にした。
「これ、美味しいね」
「そうですね」キナタコも同様に茶菓子を口にしていた。「また用意しておきます」
「うん、ありがとう」
ハクトウが微笑みながら礼を言うと、キナタコの凛とした顔は微かに綻んだ。
◆◆◆
「ヨシ!……ヨシ、だよね……?」
あどけなさの残る純朴な顔を可憐な化粧で彩ったサヤラ・アタネがドレッサーの前で所在なさげに自問自答する。この日のためにキンジと相談を重ねた、オーダーメイドの艶やかなドレスに包まれた彼女の緊張感を、柔らかな男の声が解す。
「大丈夫!アタネ=サン、綺麗だ。とっても」
「キンジ=サン、ありがとう」振り返ったアタネは和かに微笑み、正装姿のサヤラ・キンジを見る。「……でも、私なんかが参加して本当にいいのかな……あっ!い、いいのかしら?こういうの、お呼ばれしたことなんてないし……なくてよ?」ドギマギした口調のアタネにキンジは笑みを溢した。
「ハハ、変に取り繕わなくてもダイジョブ!アタネ=サンはアタネ=サンのままでいてくれれば良いよ。何かあっても僕がついているしね」
朗らかに会話を弾ませながら、着々と支度を整えるサヤラ夫妻。今日は『リジェンシ・セッショ』で催されるパーティの当日だ。二人の元に誘いの電子メールが届いたのは数ヶ月前のこと。キンジはすぐさまに参加の意を示した。後日送られてきた物理招待状を手に取ったとき、確かな実感をもった。これまでの苦難の道が報われた、と。
一方、アタネは困惑した。分不相応であると感じたからだ。そして困惑は疑念に変わった。一般人上がりの自分にシツレイを起こさせ、夫をムラハチに陥れようとする邪悪な罠なのではないか、と……さりとて招待を自分だけ断れば、それこそムラハチ……。
そうした苦悩を打ち明けると、キンジは彼女の胸中を汲み取り、真摯に答えた。主催たるマサラサマウジ・ハクトウは卑劣なムラハチ・トラップなどを仕掛ける輩ではない。もし仮に敵意を持っていたとしても、そのような姑息な手段は用いることはないだろう。小細工を使う必要がないほどに強大な力をもっているのだから。何より、ハクトウとは以前から交流があり、彼の誠実さをキンジは知っている……と。
アタネはキンジの言葉を信じた。これまでそうであったように。そして、彼の真摯な答えに感謝した。キンジもまた、悩みを素直に打ち明けてくれるアタネに感謝した。そうやって、二人で生きてきた。サヤラ夫妻は幸福であった。マッポーの世の暗澹に呑まれ、苦難の果てに辿り着いた幸福だ。
◆◆◆
……サヤラ・キンジは、妻アタネと共に立ち上げた香水ブランド事業を成功に収めて成り上がったカチグミであるが、その道のりは平坦ではなかった。キンジは、元々裕福な家庭で挫折を知らずに育ったサヤラ家の一人息子であった。家業を継ぐその時のため、経営のノウハウを学び、成長して……そして彼が成人して間もなくの頃、サヤラ家は没落した。利欲と権益に眼を光らせる暗黒メガコーポの黒い影が彼らを貪ったのだ。
サヤラ家はキョートで根を張る家柄ではなく、ネオサイタマから移住してきて短期間に財を成した、謂わばトザマのカチグミ。キョートの闇は彼らの想定よりも深く、暗く、邪であった。サヤラ家は資産を搾り取られた末に土地を奪われ、キンジの父母は失意のままに病を患いこの世を去っていった。
巻き込まれまいと手を切っていく近縁の者たちに見放され、天涯孤独の身となったキンジは絶望に明け暮れる日々を送った。UNIX喫茶やコフィン・ホテルを転々とし、その日暮らしに身を費やす鬱屈な日常。
生まれた時からマケグミである者と、カチグミから転落してマケグミになった者とでは、自身の置かれた底辺の生活への感じ方は大きく異なる。前者は世界に悪態と呪詛を吐きつつも、それが定めと心の奥底で認めているため、不幸な己の境遇に対してはある程度消極的な肯定を持つ。
一方、後者にとって、その生活はジゴクの有様。元々の高水準の生活を知っているため、下落した生き方とのギャップに苦しむことになるのだ。キンジのような、生まれもってのカチグミの場合……現実を知らぬため、根拠のない希望に縋り付いてしまう。『いつかまた、以前のような生活に戻れるはずだ』と。その根も葉もない希望が、歪な棘となって刺さり続け、生きたままにジゴクを見続けることになる……。
サヤラ・キンジはそのジゴクのなかにいた。そうしてやがて、現実を受け止めてしまい、心身共に力尽き……月夜のなか、ケイモ川に身を投げようとしていたその時。彼を引き留めたのが、偶然通りがかった会社帰りのオーエル、アタネだった。互いに見ず知らずの人物で、全くの初対面であったが、アタネは必死にキンジを説得した。キンジは、久方ぶりに絶望の色を持たぬ涙に頬を濡らした。
アタネは彼を宥め、言葉を交わし、手に提げたコンビニ弁当のビニル袋を彼に手渡した。それから、彼が住居を持たぬことを不憫に思い、自身の暮らす安アパートの一室に彼を迎え入れ、コンビニ弁当を分け合った。アタネは何度も何度も、彼を宥めた。キンジは何度も何度も、彼女に感謝した。
それから暫くキンジは、アタネの厚意に応え、居候生活を送っていた。お互いに、よく笑って、よく泣いて、よく笑った。キンジは日雇い労働に精を出し、休日にはアタネとガイオンの観光地を巡ったり、ショッピングモールで両手いっぱいに買い物袋を提げたりした。穏やかな日々だった。灰色になった人生に彩りが映えていった。
そうしてある時、サヤラ・キンジは思い立って行動を開始した。努力をした。幼い頃から学んできた経営のノウハウをニューロンの奥底から引き出し、学び直し……人生のプランを明確に立ち上げていった。アタネはそんな彼の姿に心打たれ、何か自分にも手伝えることはないかと願い出た。
キンジは迷った。実際、彼女の手を借りて、やってみたいことがあった。あったがしかし、そもそも彼女に恩を返すために始めたことである。迷った末に、彼はその迷いをアタネに打ち明けた。アタネは彼の手を取り、告げる。「それじゃあ、私からも恩返しってことでどうかな?」と。訳を聞くと、彼女は言った。
「キンジ=サンと出会ってから、私、ずっと楽しかった。幸せなの、すごく!だから、そんな幸せをくれたキンジ=サンへの恩返し。キンジ=サンは私への恩返し。だから、二人で!……どう?」
照れ隠しにはにかむアタネに、キンジは見惚れた。二人目があって、逸らして、また見つめあった。そして……。
◆◆◆
アタネがオーエルとして務めていたのは香水ブランド企業であった。彼女はヒラ社員且つ広報担当で、商品の直接の開発に深く携わっていたわけではなかったが。アタネ自身、香水への造詣は深かった。好きな物を取り扱う仕事に就職して、日々を取り繕って生きてきたのだ。
香調を深く理解し、ノートにあった需要の層を的確にリサーチし……彼女の才はヒラに置いて眠らせておくものではない、とキンジは直感的に考えていた。アタネ自身のやりたい仕事をやってもらうことが、キンジからの彼女への恩返しとなった。彼の願いに手助けすることが、アタネから彼への恩返しとなった。
キンジのカチグミ視点の目線や考えと経営の手腕、アタネの一般層視点の目線や考えとアーティスト的才能。それらを遺憾無くハイブリッドさせ、結果、事業は見事に大成した。数字が軌道に乗り、安定し……サヤラ・キンジはカチグミに舞い戻った。それから、アタネに想いを告げた。彼女と同じ想いを。そして二人はチャペルで誓いを立てた。
キンジはアタネと幸福に暮らすために、より一層努力を重ねた。自己の性格、体験談、それらはカネに変えられると考えた。謙虚さと奥ゆかしさに包んで、それらをパフォーマンスに活かした。そうした積み重ねの末に……かけがえのない今を得ることが出来たのだ。
◆◆◆
アタネのプロデュースした自社製品の香水と、来季には市場に顔を出す予定の試供品との詰め合わせパック、二人分の招待状。準備は整った。キンジのIRC端末が通知音を鳴らし、送迎車の到着を知らせる。
「じゃあ、行こうか。アタネ=サン」
そう声をかけ、彼女をエスコートし、邸宅を出る。黒漆塗りのリムジンが彼らを待っている。アタネは運転手に丁寧にアイサツし、それから、同乗するSPや同伴する警護車両の面々にまでアイサツをした。そんな彼女の姿をキンジは誇らしく思った。彼は丁重な出迎えのなか、リムジンに乗り込もうとし……ふと、空を見上げた。ドクロめいた月が浮かぶ宵闇を。
遠くの夜空で、群れを成して飛ぶバイオガラス達が、等間隔配置された五重塔のひとつに屯しだしている……。
「キンジ=サン?」小首を傾げるアタネの声にはっとした様子を見せて、キンジはかぶりを振った。「ゴメン、なんでもない」そう返しながら、彼の胸中には妙な胸騒ぎがあった。インセクツ・オーメンめいていた……つまり、根拠のない不安だ。彼はそれを振り払った。アタネの手を取って、車内に乗り込み……運転手を見つめる。
「くれぐれも安全運転でお願いしますよ」、その言葉は胸の奥で押し留めた。言葉の内容も、かけるタイミングも、何もかもがシツレイの極みである。何をそんなに不安がっているのか、彼自身疑問に思った。
一度転落を味わったがゆえの、幸福への恐れだろうか。またここからドン底に陥るのではないか、そういった恐れ?……ならば尚のこと振り払うべきだ。アタネと歩んで掴み取った幸せを、手離してなるものか。彼は妻の手を握った。彼女はその手の上に自らの掌を添えるように重ねた。
……ブロロロロ……彼らを乗せたリムジンがガイオン市内を駆けていく。夜景の光がホタルめいて淡麗に街々を彩っている。等間隔の五重塔の瓦屋根が、月明かりや地上の格調あるネオンライトに照り返して宵を染める。昼間の美しさとは違った、幻想的な光景。
ガイオン景観法に厳しく定められた建築物の高さ、奥ゆかしい明度の輝きたち。遠い昔の暮らしでは、当たり前のようにあった街並み。ようやくここまで返り咲けた。何よりも大切な人と共に。
流れていくそれらの景色を、可憐に着飾ったアタネが車窓から眺めている。キンジは、綺麗だと思った。夜景も、夜景を眺めるアタネの横顔も。視線に気づいた彼女が、柔らかに微笑んでキンジの方を振り返った。彼もまた、笑みを返した。そして……。
幸福の時間はそこで終わった。
ドスンッ……何か、重たい音が鳴り、運転手が驚きの声を上げた。リムジンのルーフ上からその音は響いた。何か……質量のある何かが落ちてきたようだった。ミシミシと音を立てて、それがめり込むように沈んでくる。一瞬にして緊迫感に包まれたSP達が一斉に武装を構える。
サヤラ夫妻は、まず呆気に取られた。混乱した。アタネは車窓に横目を向け、外の様子を視界に入れた。随伴する警護車両の一台が、真っ黒な触手に絡まれて鉄屑めいて押し潰されていき、また別の一台は触手に軽々と放り投げられて、どこか遠くに落ちていった。遅れて爆発音。
リムジンの走行が止まる。運転手は必死にアクセルを踏んでいる。進まない。タイヤが何かの上で空回りし続けている。タイヤに散らされた黒い液体が跳ね飛んでいく。ミシリ、ミシリ……不穏な金属の軋み。慌ただしくSP達が夫妻を護衛し、車外へ退避させようとする。訳もわからず、キンジとアタネは互いの手を握って、車外へ出た。
一瞬遅れて、黒く流動するコールタールめいた何かが、車窓を突き破って流れ込んでいく。それは車外に飛び出した者達すらも襲った。キンジは咄嗟にアタネを庇い、鞭めいて振るわれた暗黒物質に打ち払われてアスファルトの上をバウンドしていって倒れ込んだ。警護の者達が口々に何事か叫びながら、リムジンのルーフ上に銃口を向ける。黒い、黒い……ドロドロとした球体に。
球状をしたそれに、気泡めいた断続的な空白が生じていく。そして、弾けた。
SPLAAASH……!!!
方々から悲鳴が上がる。弾け飛んだ黒い汚泥がSP達を丸ごと呑み込み、或いは叩き潰していく。
アタネは、唐突に訪れた現実感のない光景に呆然としていた。力が抜け、ヘナヘナとアスファルトにへたり込む。そうして、見上げる。弾け飛んだ暗黒物質の中から姿を現した、二つの人影を。痩躯の男と、小柄な娘。
悪魔じみた哄笑が響き渡る。笑い声の主たる痩躯の男を、その顔を……囚人めいたメンポを見据え、アタネは芯の底から恐怖した。「ア……アア…….ッ」それは遺伝子に刻まれた深淵の畏れ。「ア……アイエエエエ!?ニ、ニンジャ!?ニンジャ、ナンデ……!?」脊髄反射の叫び声と共に、彼女のニューロンは限界を迎えてホワイトアウトしていった。意識が薄れていく。
……「ヘヘハハハ。だから言ったろ、アタリだ。へへへ」……「なァー、これカネモチしか入れねェのかな?俺らも行っていいヤツか、これ?なァ?」「しらない」……声が遠ざかっていく……。