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お父様って どんな人でした?
令和3年(2021)いろいろな意味で、節目の年だった。
出棺前に間が開いた。すると葬儀屋さんから「お父様って どんな人でした?」と声をかけられた。こんな時、間を持たすのに良い質問なんだろうけど、どう言ったらよいのかわからず、話に詰まってしまった。
令和3年(2021)いろんな意味で、節目の年だった。
2人の親父を亡くした年
2021年元旦、御所坊の客室には無方庵綿貫宏介先生が年末から滞在されていた。好物のカズノコを少し多めに用意して新年の挨拶に行った。
しかし、人生の師匠であり、もう一人の親父だと思っている綿貫先生は1月31日亡くなられた。
「血圧が下がってきている。午前中までもたいないだろう」という連絡をもらった。12月10日、実の親父が亡くなった。
棺に花を入れ、霊柩車の到着がまだなので、間が開いてしまった。
当然皆無言だ。僕は異様な雰囲気を察して、神妙な顔をしている孫たちの顔を興味深く眺めていた。
その時に葬儀屋に「お父様って どんな人でした?」と声を掛けられたのだ。その時、何も答えられなかった。かといって親父が何の思い出もない人だったかというとそうではない。霊柩車の待つ間にまとめきれないからだった。僕の能力不足だけだ。(笑)
親父は先生と同じ大正15年生まれ、親父は4月生まれで先生は9月生まれ、親父の方が半年ほど先輩という事になる。
親父と先生とは生まれも育ちも違うのは当たり前だけど、親父はその時代々の少し先を考えて生きてきたと思う。
時代は繰り返されるというが、らせん階段の様に同じ場所でも高さが違う。その様に先生は、時代々の少し高い所にいつもおられたので、何か相談事があると、親父に現実を、そして先生に何年後かの先の話をして来た。
コロナ感染症2年目の令和三年、2人の親父を亡くしてしまった。
白血病
先生は無宗教だったが、親父は有馬の寺の檀家なのだが、住職は免許をもらう為の最後の修行中だった。クリスマスには本山から戻って来る。その住職の免許皆伝まで本葬は待つことにした。
幼馴染の同級生が住職を務めていたが、池江璃花子さんと同じ頃に白血病を患った。池江さんは復帰しオリンピックで活躍したが、同級生は透析を受けていた為に骨髄移植が出来なかった。
死期が近づいたころ、彼から頼まれた。
「次女の旦那を跡継ぎにしたい。」次女の旦那の実家はお寺だったのだが、寺を継ぐのが嫌で会社員になっていたが、たまたま嫁にしたのが寺の娘、その父親が跡継ぎに指名したのだった。
その彼が正式に住職の資格を得た最初のお勤めになれば良いと考えたのだ。
実はもう一人知り合いを白血病で亡くした。
15年ほど前の話だが、30代後半でバリバリの弁護士だった。ある日、調子が悪いといって病院に行くと白血病だった。
彼は骨髄移植をしたが、手術後まもなく亡くなってしまった。
彼が生きていてくれたらと思う事が何度もあった。
親父の密葬を終えた時に、彼の奥さんからクリスマスに宿泊予約が入っていた。クリスマスにお越しになりませんかと招待状を送っていたのだった。
足の短い おじさんの終了
白血病で亡くなった彼は、綿貫先生の文字が気に入り、先生も彼を気に入って年末に御所坊で開始している忘年会、無方庵陰謀宴に参加していた。
そんな縁があり、御所坊の顧問弁護士も務めてもらっていた。
大規模会員制ホテル建設、御所坊前のバイパス問題の頃なので15年ほど前のことになる。一回り僕より下なので、彼は38歳ぐらいだったと思う。
通夜の席で、現在のうちの孫と同じ年頃の娘さんが愛嬌を振りまいていた。
翌日葬儀に参加すると奥さんが「棺の窓が娘さんの涙でシミになっている」という話をした。
夜になってパパに呼びかけても答えないので、悲しくなったんだという。
クリスマスが近い頃だった。
その頃、有馬で玩具博物館につながる玩具屋を始めていた。そこで彼女が20歳になるまでクリスマスプレゼントを贈ろうと決めた。
足長おじさんの様に匿名で彼女にプレゼントを贈った。
そして15年が過ぎ、彼女は21歳になったので、クリスマス時期に御所坊で一泊過ごしませんかと招待状を送ったのだ。それで宿泊予約が入った。
先方はテレビなどで僕を知っているだろうが、奥さんや娘さんは会ってもわからないと思っていた。来館されてすぐに挨拶に行った。
しっかりした女性に育った娘さんは、国立大学の法学部で弁護士になろうと勉強しているという。お父さんの様に困った人を助けたいという事だ。
お帰りの時に大学生の彼女に「いつでも連絡してね。例えば友達と泊まりたいから安くして・・・等、何でも良いよ」と名刺を渡した。
足短おじさんの終了だ。
エッフェル塔からの景色は良い
1889年パリ万博を記念してエッフェル塔は建てられた。今やパリの名物だが建設には景観が損なわれると反対者は多かった。しかし出来上がったエッフェル塔から見るパリの景色は美しかった!
・・・というのがエッフェル塔建設にまつわる有名な話。
有馬の町中にバイパスを通そうという話になった。もともとは緊急迂回用の狭い道路だったが歩道のない2車線の道路が計画された。
御所坊の客室から見える景色は損なわれるし、車が通ることで騒音が懸念されるので反対を唱えた。
もう一つ、街中に広い道路を通すと観光的には廃れるという理由もある。車のスケールとヒューマンスケールとは違うと思う。
結果、車に対しては有効な道になったと思うけれど、人が歩かない道ができた。今でも歩道を設けて一方通行にすべきだったと思う。
しかし、エッフェル塔と同じようなことが起こった。
確かに御所坊の客室から見る景色は殺風景になったが、バイパスができる前は道路の突き当りで御所坊の建物の正面の部分しか見えなかった。
ところが道路から見ると木造三階建の温泉町の情緒ある建物が見えるようになった。
ちょうど今年「登録有形文化財」にも指定された。そして外観上のマイナスだった水道を直圧式に替えたために高架水槽が不要になり撤去した。
あとは湯けむりを添えれば宮崎駿の世界になると思う。
そしてもう一つ、新しく道路を作ると無電柱化になる。
もともとそのように作られていたのだが、今年本格的に電柱をなくす作業が始まり、もうあと少し、来年2月には完成すると思う。
やはり電線がないとすっきりする。御所坊の景観がさらに良くなると思う。
過去、現在、未来
有馬温泉の戦後の復興、阪神淡路大震災からの復興、そしてまだ終了していないが今年はコロナからの復興に向けたターニングポイントの始まりの年だったと思う。
戦後の復興は有馬の旦那さんたちが資材を投入して、神戸市の力も借りて復興してきた。東京オリンピックや大阪万博。ポートピア81を経て有馬は発展したが旦那さんたちの中に格差が生じた。
阪神淡路大震災からの復興は、戦後の復興は大型旅館がイニシアチブをとったのに対して、飲食店や物産店、小さな旅館などが街づくりを推進してきた。魅力的な温泉街が構築されて、個性ある小さな旅館が誕生した。
団体旅行から個人旅行に移ってきたのもその要因だし、旅行代理店よりもネット予約が増えてきた。
その節目々には問題が生じる。時代の流れに対して今まで通りの様にいかなくなり都合が悪くなる事が起こるからだ。
コロナによって観光業は大きな痛手をこうむったが、一方では非常に業績を上げたところや、変化がない所もある。
そういった所が安くなった観光業に進出してくる所も当然起こりえる。
過去はそういったいわゆる外資の進出に対して反対運動を行ってきたが、結果はどうだっただろうか?
その反省から、共存共栄をはかり、巻き込む事が重要だと考えている。そのためには同じ地元が一丸となって反対するのではなく、知恵や資金を出し合って共同体をつくるべきだと思う。
ジョセイが花盛り!
コロナ下、いろいろな助成金を申請し採択されて事業を行ってきた。
「趣味ジョセイ!」っていうと、女好きの奴やなあと思われるが、「セイはジョセイでも、下に金がついているやつ」というとますます、おかまが好きなのかと変な顔をされる。
助成金のことだというと、最後は なんだ~! という顔をされる。
御所坊は冒頭の綿貫先生と知り合って、大きくリニュアルし、先生の力を借りて業績を伸ばしてきた。
そして“そぞろ歩きのできる温泉街”をつくるために街中にいろいろな展開をしてきた。またバイパスに関係してたが、ともかく多くの資金をつぎ込んできて、御所坊本体にはあまり資金を投入してこなかったと思っている。
しかし今回のいろいろな助成金を活用して御所坊本体のテコ入れを行っている。
一番大きいのは旧厨房と旧配膳エリアの床を補強したことだ。
この工事をしたといっても、お客様の見えるところではないので売上には直接関係ないが、この先何十年と建物が使えることになる。
そしてその上の階を新しくすることもできる。
いろんな事が始められると思っている。
親父ってどんな人だったんだろうか?
有馬小学校を出て、神戸三中 今の長田高校をでて大阪外大の前進に行ったんだったけ、そしてベトナムにあった南陽学院に行っていた。
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親父の行っていた元南陽学院の建物も残っている。
終戦後は神戸大学の法学部を卒業して、神戸銀行へ
京大出でフランス語もしゃべれるので、有馬の組合に出るとすぐに重要なポストにつけられた。あの当時の組合の会合といえば酒がつきもの、いつも遅くまで飲んで帰ってきて、母から小言を言われていた記憶が多い。
東京オリンピックや大阪万博を目指して、有馬の旅館は山の上などに大規模旅館建設を始めた。
当然親父もそうしたかっただろうが、祖父が規模拡大には否定的だった。
しかし組合では労働組合対策やライスセンターといって旅館中のご飯を一か所で炊く事業などを立ち上げた。
だから僕がいろいろ新しいことをする事を許してくれたんだと思う。
現代の御所坊に変えた頃は「まだ有馬の中がごたごたしているから、もうしばらくは組合のことをするわ」といってバトンタッチをした。
有馬の歴史の中で旅館組合長と観光協会長を兼任していたのは親父だけだった。まあ母にはいつも小言を言われ続けていたなあと思う。
そうすると、結局 僕も親父と同じような事をしているんだ。DNAか・・・
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