時の流れから目を背けない
文章が書けなくなっていた。
下書きには書きかけの文章がたくさんある。途中まで書いても、最後まで書けなくなってしまっていた。
書いてない期間、何もなかったわけではない。
ずっと連絡を取っていた人と、付き合うことになったり、母が祖母の介護をきっかけに精神を病み何もできなくなったり、自分の生活環境は大きく変わっている。
それでも、noteを開くきっかけを掴めなかったのは、何だかんだで自分の生活が安定していたからだろう。
「何かを書きたい」と猛烈に思うとき、それは、自分の心が落ち着かなくなっているときだ。そのため、家にある日記はすべて辛い出来事で埋め尽くされている。
だから、「文章を書きたい」と思うか思わないかは、私の心のバローメーターなのだ。
そして、今、こうしてnoteに向かっているということは、私の心がそわそわしているということだろう。
*
先週、自分のスマホに入っているSNSのアプリを全て削除した。
私は、SNS主流の世の中で、あまりSNSを活用することができていない。
友達とはつながっているけど、全くいいねしないし、自分も投稿しない。
ただ、なんとなくぼーっと眺めているだけだ。
いつものようにぼーっとSNSを眺めていたある日、「自分はこの時間で何を得ているんだろう」とふと考えた。
見たいものがあるわけでない、知りたいことがあるわけでない。
何かを見て、心が癒されているわけでもない。
ただ、「なんとなくぼーっと見ている」、この行為が、自分の時間を搾取しているように思われて、ものすごく怖くなった。
私は、昔から、時の流れが怖い。時と共に老いていく両親、自分の身体、そして出会った人との別れ。
幾度となく、「この時間が永遠であればいいのに」と思ってきた。でも、どんなに願って努力をしても、時を止めることはできない。すべての人に時の流れは平等であり、重くのしかかっている。
何にもしない時間が怖い。このまま何もせずに老いて消えていくかもしれない。
でも、何をしたらいいかもわからない。唯一の趣味だと思っていた読書も、ここ数か月離れてしまっている。やらなくちゃと思うことはたくさんあっても、行動を起こすことができない。
テレビを見ていても、成功した人達で溢れている。「考える前に行動しよう!挑戦しよう!」とテレビの向こうから促してくる。
でも、何をしたらいい?何に挑戦すればいいの?これだ!って思うものが見つからずに、30歳になろうとしているのに。
*
これは愚痴だ。できない言い訳を並べているだけだ。
本当は、少しずつ行動してみることが大事だってわかっている。
もっと、勉強がしたい。知らないことが知りたい。
自分の頭で考えて、自分の人生を歩めるようになりたい。
母は今、考えるのを放棄している。祖母が認知症なのも、もう今までのように会話ができなくなっていることも、全てから目をそらしている。
そうして、自分の世界に浸っている。
私は、あと20年くらいかけて、そうした怖さから目を背けないでいられるようになりたい。
時は平等で、全ての人に別れは訪れる。最愛の人との別れ、この世との別れ。大好きだったものから、離れなければならない時がやってくる。
だけど、その分出会いもあって、幸せもある。
私はいつも、幸せなことは残さないで辛いことばっかり書き残すけど、そういうところから少しずつ変えていけたらと思っている。
別れの辛さは、これまでの幸せが補ってくれるんじゃないかって、ふと思った。
辛いことからも、幸せなことからも目を背けない。どちらも私の人生。
そんな人生を、こうしてnoteに書き残していく。