歴史から考えるクラフトビール〜④近代ビールの萌芽
前回からの続き
前回はキリスト教とビールの関係ということで、古代には蔑まれていたビールがキリスト教のゲルマン化によって歴史の表舞台に立つまでの変遷を見てきました。今回はその後の近代ビールへとつながるビールの発展について一気にスパッと飛ばして書いてみます。
中世ヨーロッパの統治システムとビール
歴史に詳しくない私の目から見ると、中世ヨーロッパの政治的な統治状態は「ぐちゃぐちゃ、バラバラ」という感じに見えます。王様がいて貴族がいるのですが、それが一つの国で完結せず複数の国でクロスしているので、誰がどこの国を統治しているのかとても分かりづらいのです。例えばイングランド王ヘンリー1世(1068年-1135年)はノルマンディ公としてフランス王に臣従していました。しかもノルマンディ公としてはアンリ1世というフランス語名で呼ばれます。ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール5世にいたっては1519年の神聖ローマ皇帝選挙にあたって以下のように名乗ったそうです。
「落語の寿限無じゃないんだから」とツッコミを入れたくなる称号です。そして中世ヨーロッパにはそれ以外にも教会勢力、自由都市同盟などがありました。それぞれが領地を持って封建領主的振る舞いをします。
歴史の専門家に怒られるかもしれませんが、私なりに理解した中世ヨーロッパの政治体制のポンチ絵です。この登場人物すべてが封建領主的振る舞いをして、しかも※印の人たちが複数の領地を経営するので非常にややこしいですね。
ビールの多様性と相互作用
この複雑怪奇な統治システムとビール文化の発展は大いに関係あるのではないかと思っています。つまり絶対的な中央権力がないので群雄割拠とも言うべき多様なビアスタイルが生まれて育まれます。そして教会勢力がヨーロッパ世界全体に影響力を与え諸侯が各地の領地を兼任することにより、交流が生まれ地域ごとにお互いに切磋琢磨するので、ビールも地域間で適度に競争してガラパゴス化することなく発展するというわけです。
各地のビール
イギリスのエール
数奇な運命の末に1587年に処刑されたメアリー・ステュアートが残したとされる言葉です。本当にこんなことを言ったのか出典を突き止めらませんでしたが、捏造だとしてもそれくらいイギリスでエールが人気だったと言えると思います。ちなみにブラッディ・メアリーというカクテルの由来になった(とされる)のはメアリー1世(イングランド王)であり、メアリー・スチュアートとは別人です。
ブリテン島(イギリス)のエールの歴史は古く、1世紀頃にローマ人が入植し属州ブリタンニアとした時代にはすでに存在していたようです。元々は古代にケルト人が造っていた蜂蜜酒(ミード)の希少性が高くなり、穀物で代用したお酒としてエールが造られ始めたと言われています。
イギリスでも修道院はビール造りの拠点になっており、カンタベリー大聖堂を皮切りに各地の修道院でエールが造られました。そして、巡礼者や訪問者目当ての飲食宿泊施設が修道院周辺に整備され、それがエールハウスの興りとされます。初期のエールハウスではビール造りはもっぱら女性の仕事であり、エールワイフと言われ人気を博しました。
もともとエールハウスで小規模にビール製造がされていたイギリスですが、18世紀にポーターが一世を風靡し、19世紀にIPAとペールエールが爆発的に販売を伸ばすころになるとビールの産業化が顕著になってきます。1830年の統計によると、現在のプロダクションブルワリーにあたるコモンブルワーがロンドンの全ビールの生産量に占める割合は95%に達し、ブルーパブのような小規模ブルワリーのシェアはわずかになりました。産業革命の影響はビールの世界にも大きな影響を与えました。醸造技術は向上し、現代でも利用されている比重計の利用、発酵槽のジャケット式冷却装置はこの時代のイギリスから始まったそうです。そして、コークス炉の発明によって淡色麦芽が製造可能になったことは特にエポックメイキングな出来事で、ドイツなどの大陸ヨーロッパへも大きな影響を与えました。
ドイツとその周辺のビール
宗教改革で有名なルターはビール好きとして知られ、カール5世に呼び出されて喚問されたヴォルムス帝国議会(1521年)の直前に景気づけにボックをぐいっと飲み干したという逸話も残っています。この時ルターが飲んだのはアインベックのボックビール。アインベックはハンザ同盟に加盟する自由都市で、高品質のビールを造る街として有名でした。現代の私たちにはビールの都といえばミュンヘンが有名ですが、16世紀ころまではブレーメン、ハンブルク、ドルトムント、ケルン、アインベックなどハンザ同盟に加盟する北ドイツの諸都市のビールのレベルが高く、ミュンヘンのあるバイエルン地方は後塵を拝していました。
そのバイエルンのビールを押し上げたきっかけはビール純粋令です。1516年にヴィルヘルム4世が制定したバイエルン公国のこの法は、原材料、製造方法、販売方法に至るまで詳細な規定があり、粗悪なビールを造ると厳しい罰則がありました。これによってバイエルン地方のビールのレベルはメキメキ向上します。そして、現在のチェコ、オーストリア、デンマークなども含めたドイツ周辺国では地域同士のライバル意識もあり、ビール文化がどんどん発展していきました。特にチェコのピルゼンでのピルスナーの誕生(1842年)は象徴的な出来事です。ピルスナーは、イギリスの技術(コークス炉など)、バイエルンの醸造家ヨーゼフ・グロルと地元のホップ(ザーツ)によって生まれた、まさに相互作用の産物なのです。このピルスナーを範としてヨーロッパ各地で造られた淡色ラガービールが、後の過度に産業化されたビールのベーススタイルとなります。
ビールの産業化とは
このシリーズのイントロダクションで紹介したダン・キャリーのコメントでは、「ビール業界の産業化は異常な出来事」と言っていますが、実はポーター、IPA、ピルスナーの成立の頃にはビールはある程度産業化していたと考えられます。イギリスやアイルランドでポーター以降に誕生したスタウト、バーレーワイン、インペリアルスタウトなどもやはり金儲けという前提があって成立したスタイルです。現在私たちが「伝統的」と思っている多くのビアスタイルは18世紀以降に成立しており、産業革命やその時の経済情勢の影響を受けています。その頃にはビール造りの中心は修道院ではなく「民間」に移っていたので、当然営利目的でビールを造っていました。
逆に産業化していないビアスタイルは消滅する運命に抗えませんでした。現在のビアスタイルガイドラインでヒストリカルビールに分類されているものは、ある意味産業化の波に乗り遅れたために消滅したスタイルでもあります。サハティ(フィンランド)、ゴットランズドリッケ(スウェーデン)、グローズィスキー(ポーランド)、アダムビール(ドイツ・ドルトムント)、カイト(オランダ)などがスタイルガイドに掲載されていますが、歴史の中で消えてしまったビアスタイルはもっとあったと思います。アルト(ドイツ・デュッセルドルフ)やケルシュ(ドイツ・ケルン)など中世から存在し今も残っている例はむしろ珍しいのかもしれません。
次回へと続く
今回は、中世ヨーロッパの統治システムとビール文化の発展、そしてそれが近代ビールへどう繋がっていったのかをざっくりと見てみました。かなり端折ったのですが、一応このシリーズのテーマはクラフトビールの歴史なので、前段のヨーロッパのビールのことはざっくりといかせてください。IPAやピルスナーの成立に関しては、よろしければ下記の私のnoteも参照ください。
ビールと水〜㉑IPAとバートンの水
ビールと水〜㉒ピルスナーの誕生と水
次回は、産業化がさらに進展するパスツール以降のビールについて書きたいと思います。
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