「夜と霧」と生の放棄
ヴィクトール・フランクルによる「夜と霧」という作品があります.
ご存知の方も多いと思いますが,この作品はヴィクトール・フランクルという方がナチスによってアウシュビッツに収容された時の体験を綴った記録とその考察です.
存在は長く知っていたものの,私が初めてこの本を読んだのは大学の学部生の時でした.初めて読んだときはその体験の生々しさに強い衝撃を受けた記憶があります.
人間における希望
「夜と霧」のある種の主題でもあり,有名なのが「人間における希望の意味」についての考察だと思います.読んだことがない方のために簡単に説明すると,アウシュビッツにおいて生き残ることができたものたちは何かしらの「希望」を持ち続けていたとフランクルは分析しています.例えば帰りを待っている家族の存在といった「この地獄を生き延びた先にある何か」が極限状態においても人間の気力を繋ぎ止めるものであったとフランクル自身が述懐しています.
特に印象的なのが,戦争終結の情報のエピソードです.あるとき,「OO月OO日に戦争が終わる」という情報が収容所内に広まったそうです.しかし結局その情報はデマで,予定の日を迎えても戦争は終結することはありませんでした.すると,今までなんとか生きていた人たちがその日を境に急激に亡くなっていったといいます.唯一すがっていた希望を失った時に,人間は生きていけなくなるのだと知りました.
生の放棄
上のエピソードは「夜と霧」を読まれた方だと多くの方が印象深く覚えているものかと思います.このエピソードに加えて,私の印象に強く残っているのが,亡くなっていった人たちの死の描写です.
収容された人々は必ずしも病気や栄養失調や自殺などで急に亡くなっていったわけではないそうです.そうではなく,人間は極限を超えてしまうと食事(と言えるほどのものではないですが)が届けられても手をつけなくなるのだとフランクルはいいます.猛烈な空腹に襲われているはずなのに,食事に手をつけずにずっとずっと横になったままになるそうです.排泄物を垂れ流してもそのままに,ただただ横たわったままになって,静かにゆっくり眠る様に死んでいく様子が「夜と霧」には記されていました.
本文中にその様な表現があったかは覚えていませんが,人間は極限において「死ぬ」のではなく「生を放棄する」という事実が,当時の私にとってとても生々しく苦しく衝撃的だったことを覚えています.積極的に自らの命を断つのでもなく,何かによって命を剥奪されるのでもなく,自ら生を追わなくなるというのが,とてもリアルでとても恐ろしい現実として,鮮明に記憶されました.
この様に本当に極限な状態にいた人たちのことから,私にとっての「人生の教訓」の様な軽い浅薄なものを抽象することがあまり好ましいことだとは個人的には思いません.しかし,それでもこの本に書かれていたことが私の生き方に少なからず影響を与えたことは事実です.
この記事全体を通じて何を伝えたいというものが特にあるわけではありませんが,ふと頭に思い浮かんだので,綴ることにしました.
それでは