’90年代からのタイムスリップ、2020年のASKAの衝撃
謎のタイトルでしょう。
先日、ASKAのライブを観に行ったんです。
実に、20年以上ぶりに。
衝撃的!
すごく良かったのよ!
とシンプルに言いたいんだけれど、それを書くだけじゃ何の芸もないので、何が「良かった」のか、それこそ観ている最中からずっと根問いし続けておりました。
なので、今回は辿り着いた考えについて、書くつもりです。
分析めいたことを書くと、今のアツい気持ちと食い違ってしまいそうで、少し怖い。
なので、今回は乱れまくる文体のままで突き進もうと思ってます。
すみませんがお付き合いくださいませ。
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正直、観終えるまでこんな気持ちを持ち帰るなんて思わなかった。
なぜなら、今のASKAを生で観るのは「ハイリスク・ハイリターン」だと思っていたので。
嫌な言葉ですね。
でも、だって、最後に観たのが’90年代よ。
’90年代…(遠い目)。
あの頃、チャゲアスはディズニーランドだった。
あんなにも観客にとって「ローリスク・ハイリターン」なアーティストはいただろうか。
(なぜローリスクだったのかは後々、アーティストが全部背負ってたからなんだ、と理解し辛くなったが。)
当時30代だった彼らの、大空に昇るドラゴンばりに閃光をあげ放たれるエネルギーと、その実力。
更にそこに、莫大な予算が乗っかっていた。
マイケル・ジャクソンと同じ予算をかけて、超実力派アーティストが観せるライブが、面白くないわけないじゃない。
その頃に比べると、今のASKAを観に行くということについて、失礼ながら考える。
体力はおそらくマイナス。
会場は当時の1/5程度のキャパなので、規模も単純に考えればマイナス。
喉のご調子も、ファンの皆さんがいつも気にかけていらっしゃるのが気になる。うーん、マイナス。
身も蓋もなく(そして失礼この上なく)並べるとわかることだけど、かなりのハイリスクだよ、これは、なんて思う。
復帰後2つのツアーに参加された方は、こんな考えに怒るか鼻で笑うかされると思うのだが、’90年代からタイムスリップしてきた私の正直な気持ちは、これなのだ。
その代わり、こんな希望も持つ。
規模の小ささが逆に大きなリターンとなる可能性もある。
だって、’90年代のチャゲアスライブは豆粒だよ、何せアリーナだからね。
ド派手な演出と音響と大画面に助けられてこそ、数時間鑑賞できる豆粒が成立する。
だからこの度のライブで、私はASKAの「生々しさ」に賭けていた。
ハイリターンがあるとすれば、これだと。
音楽の神に愛された人が、その生身を晒すことでどんなステージを観せるのか。
その興味だけでチケットを取った。
さらに正直モードで告白すると、今回はこのnoteのためにチケットを取ったと言っていい。
今のASKAを観ていなくても過去への情熱だけで書けるっちゃ書けるし今までそうしてきたのだが、それだけでは今を生きているお方に失礼だし、まず自分が全然物足りなくなってきていた。
もっと誠実なものを書きたい、という気持ちが膨らんできていた。
なので、このライブを境にこのnoteを続けるかどうかを決めよう、と思っていた。
気持ちが冷めたらThe END。
どうかアツいものが観られますように。
祈るような、綱渡りのような気持ちで、当日を心待ちにしていた。
*
その日、向かったのは神奈川県民ホール。
小さかったよ。
この間娘と観に行ったしまじろうコンサートに、毛が生えた程度だったよ。
しまじろうは、ちょっと照明が落ち着いた瞬間にハッと我に返ることがあった。
私は今、かぶり物を着た人たちの小芝居を観ている、と。
今、ホールの席に着きステージを眺めると、特段派手な演出は仕掛けられなさそうな感じで。
というか、緞帳が開いてるよ。
’90年代で止まってる人間からすればあり得ない、バリバリに予算かけたオープニングムービーはないのか?
えっ、まさか歩いて出てくるのかい? あのお方が?!
あの、ゴンドラなんかに乗って登場されてたあのお方が?!!
大丈夫かな、私、急に我に返ったりしないかな…
そんなことを考えていたら、妙な緊張状態に陥った。
だって、今日冷めてしまったら私の中のASKAが全て崩れてしまう。
怖い、怖いよ。
興味の綱が、切れるのが怖かった。
一人きりで軽く震えながら、開演を待った。
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ライブレポートを書くのは、きっと私に課された役目ではないだろう。
それこそアツいファンの方々が、各所で素晴らしいライブレポートを書かれている。
なのでレポートはそちらのご参照をお願いするとして、代わりにここでは私の書けること、すなわち<’90年代からタイムスリップしてきた人間が、いかに今のASKAに衝撃を受けたか>について、集中して書いていきたい。
*
衝撃その1:楽曲でなく<ASKA>で構成されたライブであった
普通、ライブにおけるセットリストというのは、楽曲の「テイスト」で構成されている。
アップテンポだとかバラードだとか、明るい曲だとか暗い曲だとか。
それらを組み合わせて、2時間なり3時間なりの時間が演出されている。
私が今まで観てきたライブというものは、大小含めて皆そうだった。
そんなわけだから、今回もっとも驚いたのが、今のASKAのセットリストは、ASKAという文脈を組み合わせて出来上がっている、ということだった。
ASKAというアーティストが群を抜いてすごいところは、良い意味でも悪い意味でも「社会の注目を集める人生」を歩んできた点だ。
空前絶後の大ヒット記録を打ち立て、J-POPのアジア市場への門戸を開き、一方では’10年代のあの出来事から続く社会からの大バッシンング、などなど…
とても一人の人間が背負い切れるキャリアではない。
壮大に持ち上げられ、壮大に突き落とされている。
世間からの良くも悪くもな誤解と、常に闘ってきた人。
そんな、図らずも誰もが知ることとなった<文脈>が、ASKAには存在する。
私は、どんな物事においても、この<文脈>というものを見つけるのが好きだ。
<文脈>を味方につけたものこそが、深い感動を生む、とすら思っている。
だから、ASKAのライブを観て驚いた。
ASKAのライブでは、楽曲そのものがASKAというアーティストが持ち合わせた文脈を、語っているのだ。
めちゃめちゃ新しいじゃないか!
この日、ステージにASKAが登場し音が鳴り出すと、瞬く間にホール全体が音楽への愛に溢れてしまった。
ステージ上に躍動していたのは、一人の、「音楽の神と相思相愛になってしまった男」の姿であった。
ラブソングを歌っていても、それがラブソングに聴こえない。
歌詞の意味を突き抜けて、楽曲そのものが音楽賛美になっている。
なんて楽しそうな、その姿!
だが数曲を終えると、すぐに風向きが変わった。
今度ステージに出現したのは、「贖罪のために歌を選んだ男」である。
石の飛礫を浴びせられたキリストのように、傷ついた心と身体を引きずって歌い続ける壮絶な曲達である。
そうか、今のASKAはやはりそこを避けては通れないんだ。
そんな神妙な気持ちにさせられたかと思えば、突然にその姿は「稀代のヒットメーカー」へと瞬く間に変わってしまう。
文字どおり日本中が惚れた曲を、日本中を酔わせたあの歌声で、歌ってしまっている。
そして、神々しいほどのその姿と歌声に惚れ惚れしていると今度は、「とんでもなく隙だらけで人たらしのモテ男」に変わっているのである。
61歳があんなに可愛く見えたことは、私の人生で今の一度もない。
なんなのだ。
一体、何を観せられているのだ。
私はめくるめく多面体の出現に、困惑している。
音楽を聴きに来たはずが、ASKAを感じに来たことになっていて、なんならものすごく感動を覚えている。
普通のアーティストなら、「ポップスも作れるし、作家性もある」って感じの二つの要素ぐらいで十分なのだ。
だがASKAのその<文脈>の、振り切れっぷりと多様性っぷりが半端ない。
私の無知かもしれない。
<文脈>ビンビンのライブを行うアーティストが他にいるのなら、どなたか教えて欲しい。
彼の曲は、職人芸から生まれる「ポップス」ではない。
人生そのものが刻まれている。
これまで正直な曲作りを続けてきたASKAだからこそ可能な演出なんだろう。
そしてそれを、自身で客観的に眺めつつセットリストを組んでいるところが、また凄い。
裸で人前に出て行く凄まじさすら感じる。
これが歳を重ねてこそ完成される、文脈芸なのか。
こりゃどうしたって、観る価値があるんじゃないか。
もはやライブに足を運ぶ前に気にしてた、声がどうだとかは、大した問題じゃなかった。
伸びやかなロングトーンが披露されれば「ああ、あの頃のままだ」とうっとりできるし、高音が掠れて出ないなら「ASKA、頑張れ!」と祈りたくなる。
その<ASKAという文脈芸>に、会場にいる全ての人が虜となってしまってるのが、空気を通じてビンビン伝わってくる。
’90年代のライブでは、全く感じることのできなかった感覚がそこにあった。
*
衝撃その2:欲望の総量が、この歳にしてすごい
幸せいっぱいなライブが色を変えたのは、中盤のこと。
急に、今まで会場の皆で共有していた<文脈>が、消えたような気がした。
アグレッシブなサウンドがホールを包む。
ASKAが見知らぬASKAの顔になり、見知らぬ曲を歌う。
文脈の喪失、それはすなわち、新たな文脈をこれから作るということ。
これが、ツアータイトルになっている「higher ground」の意味するところなのか。
非常にスリリングな展開であった。
よく考えてみて欲しい。
一時代を築いたアーティストが、過去の栄光や懐古的な音楽でその後の生計を立てていくのを、誰が責めるだろうか。
普通の会社員なら、定年目前の年齢。
ヒット曲をぶら下げて、ディナーショーしててもいいんだよ。
それなのに、ASKAというアーティストはこの期に及んで、ひと所に留まることを拒んでいる。
もういつか僕は 変わり続けることでしか
生きて行くことができなくなってる
「NEVER END」(1995)
と歌っていた若い頃そのままのマインドで、いまだ進み続けているのである。
これに衝撃を感じずにいられるだろうか。
人が抱えきれる欲望に総量というものがあるとするならば、ASKAという人間には特大エンジンが積まれている、と思わざるを得ない。
きっと彼のそんな性質を、めんどくさく思う人もいるだろう、と容易に想像がつく。
だが逆に、そんな彼と音楽をやることが楽しすぎて、離れがたく思ってきたメンバー達が、今回のステージを盛り立てているように見える。
そしてそれは、観客側も同じだ。
どこまで音楽の幅を広げるのか想像もつかぬアーティストを、そのまま受け止めている。
自己表現として音楽という手段を選んだ男が、定住場所を見つけられず彷徨っていく姿を、長いこと受け止め続けてきたのだろう。
「正しさ」より「楽しさ」を追求しているASKAの姿がカッコよくて、追い続けてきたのだろう。
あぁー、21世紀も途切れず追い続ければよかった。
そんな母性のかたまりのような観客達の仲間に、今更ながら入りたくなってしまう、'90年代からやって来た浦島太郎な私であった。
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衝撃その3:そしてASKAは、ロックになった
ライブも終盤に差し掛かり、最後にASKAが提示してきたのはゴリゴリの<ロック>であった。
そうかぁ、ここまで観たらなんかわかるかも!な展開であった。
ロックを語るボキャブラリーが残念ながら致命的に少ないので、ここからはセールスマン口調で語らせてもらおう。
そこのあなた、還暦のロックなんてちょっと…って思ってません?
「YAH YAH YAH」で拳上げたくないんだよね、なんて思ってません?
違うんです!
「YAH YAH YAH」はやらないんです!
めっちゃカッコいい、大人のロックなんです!
ASKAさんって、スキャットやフェイクが昔からうまかったよね?
その天賦の才能に、いい感じにしゃがれた大人ボイスが絡み合って、なんていうか、全身楽器なんです!
ロックなシャウトが全開なんです!
嘘だと思うなら聴いてみてください。
ニューアルバム、3月に出るそうですよ。
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衝撃その4:最後に見せてくれた景色がズルすぎた
アンコールを迎えて最後の最後、とある楽曲のイントロが響き私は思わず「おお…」と声を漏らした。
それは、昇るドラゴンのごとき’90年代のライブで何度も歌い、チャゲアスファンのアンセムソングとして根付き、なのにぱったりとライブでの披露をやめてしまったと言われる、あの大曲である。
もう、生で聴けないだろうと諦めていた、あの曲なのだ。
堂々としたロングトーンが印象的な、この曲。
ASKAの声はどこまでも伸びやかに、息を詰めた会場に響き渡っている。
これなんだ…私が愛していたのは、この声だった。
最後の最後に、これはズルいよ。
ああASKAというアーティストは私たちの心に大きな夢を植え付けてくれたよね、なんて、過ぎ去った時代を、私が乙女だった時代を思い出し、涙が溢れてしまう。
やっぱり、今が一番いいけれど、それぞれの胸にしまわれた思い出もあってこその、ASKAなのだ。
なんで最後にこんなの聴かせてくれちゃうんだろう。
気づかぬうちにあまりにもたくさんの涙が流れ、私は両手で顔を覆っていた。
きっと多くの人も、涙でステージを正視できなかったに違いない。
この曲を最後に歌おうと思ったASKAは、どんな気持ちだったのだろうか。
疑問が余韻となり、終演の合図が流れても、しばらく席を立つことができなかった。
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ここまで書いてからゲスい言葉をもう一度使うのはためらわれるが、敢えて言おう。
今のASKAのライブは、確実なハイリターンが期待できる。
莫大な予算がつかなくても、ド派手な演出が施されなくても、ASKAはもう裸一貫にその文脈をまとって、どんな場所でも観客を魅了することができる人になっていた。
いやぁ、本当に凄まじかった。
今この時代にASKAの音楽に出戻った人は、絶対に生のASKAを観に行った方がいい。
おバカでした、この間までの臆病な私は。
ようやく一皮剥けました。
そして、物事のドキュメントや文脈というものが好き、なんていう文系な方々も、ぜひ観に行ったほうがいい。
ASKAをよく知らなくても、きっと自分の見方で楽しめる。
文脈が音楽を通してビンビン伝わってくるという、不思議な体験のできるライブなのよね。
そしてそして、やっぱりあのふくよかで美しくてロックで時に奇妙奇天烈な音楽を生で聴けるライブには、ASKA未体験な若い方々にもぜひ、触れて欲しいなぁと思う。
音楽の神に愛された人なんて、そうそう現れないのよ。
ファンの中に閉じ込めておくのは心底もったいない、なんてことを思った次第です。