アイデンティティを見つけた人の、強さと美しさ。
アマチュアミュージシャンの転換点。
それは、ライブで初めて「僕のオリジナルソング、聴いてください」と言う瞬間だろう。
今まで誰かに憧れて、誰かのコピーでもいいと始めた音楽。
だがいつか、必ずオリジナルを作ってみたくなる。
そのオリジナルを誰かに聴いてもらえた瞬間は、とても嬉しいものだろう。
だがその純粋な嬉しさは、長くは続かない。
すぐに後から、不安が追いかけてくる。
ミュージシャンは、オリジナルの競い合いだ。
オリジナルを作り続けなければ認められない、という強迫じみた思いに追われ、いつしか大好きだった音楽に疲れを感じたりする。
それでも自分の型を作り、黙々と〈自分印〉を量産し続けるか。
興味の赴くままに色々な型に手を出し、一貫性がないという外野の声に苛立ちつつも、そのごた混ぜが熟成される日を待つか。
ミュージシャンだけの話ではない。
人は誰しも大なり小なり、他者と比べてオリジナリティを持っていたいと願っている。
人だけでなく、人格をもった例えば会社など、利益追及し続ける存在なら尚のこと。
だから世の中は競争に満ち溢れている。
争いに勝つにはオリジナリティ。
これが最も大事なものとなる。
だがしかし。
「僕のアイデンティティ・ソング、聴いてください」
ASKAの久々のシングル「歌になりたい」を聴いた時、私にはどこからか、マイクを通したそんな声が聞こえた。
それほど、ASKAというミュージシャンの新たな転換点と言えるほどの力を、この曲を一聴したとき感じたのだ。
この曲はもちろんオリジナルであるけれど、それを突き抜けた「アイデンティティ」の表現である。
だって「歌になりたい」って言葉、すごくないか?
「歌い続けたい」ではないんだよ?
歌ってる人が、もはや歌そのものになりたいと願っている。
木彫り職人の顔がいつしか木彫りみたいになってくる、あの現象のことか?
いや、おふざけはさておいて。
ASKAというのは、非常に独特な作家である。
まず、詞の中で嘘をつかない。
フィクションか否か、という問題ではなく、詞の中に荒々しい岩肌のような実感を毎度しっかり込められる人だ。
彼の詞をずっと追ってみると、ある時期から自身のアイデンティティを追い求め始めるのがわかる。
人は困難に直面すると、自身の根っこを問いたくなる。
ASKAにとっての大きな困難は、おそらく90年代初頭における未曾有の大ヒットと、その後の身の振り方だったろう。
1995年のチャゲアス名義の作品に、「NO PAIN NO GAIN」という曲がある。
詞がとてもいいので引用しておこう。
自分に必要なのがオリジナリティなのか、アイデンティティなのか。
まだその問いが言語化できずもがいている、この楽曲を作った当時37歳のASKAに変わって、ここでその悩みの根源を紐解いてみよう。
オリジナリティとはオリジナル、つまりorigin=起源のことである。
未開の砂地に立ったビーチフラッグに、最初にタックルを仕掛けるのがオリジナリティの追及。
だがこれは長く続かない。
後から誰かが真似して同じ場所で甘い汁を吸うのが許せなくなるし、そうなるとまた新しいフラッグを探す旅に出なければならない。
そう、オリジナリティの追及はいわば、イスとりゲームみたいなものだ。
もはや外野の動きに左右されて、自分が信じるものさえあやふやになってしまうのだ。
これはひどく辛い状態である。
時折、私には記憶の中から思い出す言葉がある。
「自分の中のタラントンを見つけなさい」
これはまだ私が中学生の時、学校のチャペルで聞いた言葉だ。
タラントンとは何だろうか。
それは、新約聖書の中のこんな例え話を元にしている。
3人の男が主人(神)から資金(タラントン)を預かり、2人の者は額の多い少ないに関わらずそれを活かして倍にしたが、1人は神の意図がわからず、ただ畏れて預かり物を隠してとっておく。
それを知って、神は怒るのだ。
なぜあなたを信じて預けたのに、活かさないのかと。
それは私を信用していないことになるぞ、と。
タラントンとはタレントの語源であり、「才能」と訳される。
才能というと大仰だが、実際のところ〈神は細部に宿る〉、つまり小さな日常の行いの中にこそ、その人のタラントンは隠されているものだ。
そう思うと、タラントンは才能でなく「役目」といってもいい。
宇宙全体の中に、一瞬生まれ落ちた雫が持ち合わせた「役目」。
そんな小さく壮大なことでいい。
小学校の頃、マリ・キュリーに憧れた私。
偉人の伝記は、最後に受けることになる他者からの絶大な評価まで、しっかり描かれている。
「なにかを成し遂げないといけない」
偉人伝はそんな強迫観念を、知らぬ間に人に植え付ける。
40手前の今でも、というより今ようやく迷っている。
「自分のタラントンとは、自分の役目とは何なのか」と。
オリジナリティでなく、アイデンティティの模索なのだろう。
だから「歌になりたい」を聴いた時、
というフレーズが、すっと腑に落ちたのである。
きっとASKAは、本気で歌になりたいと願っているのだろうと。
それが自分の役目だと、自覚した者の宣言なのだろうと。
このフレーズに込められた実感の深さたるや。
ASKAだけでなく、誰もが一度は思うことだろう。
向き合っているものが仕事でも、家族でも、男女でも。
心の周波数を相手といつもカッチリ合わせて、面倒臭いことをすっ飛ばし、純粋な想いだけで繋がり合っていければいいのに。
宇宙の定めた周波数に、みんなが合わせていられたらいいのに。
そう願うものの、もちろん現実にはそうはいかず、寂しさが勝ってしまうのだけれど。
それでも、ただ愛を放っている時にだけ、人は純粋な「GIVER=与える人」になれる。
この世の幸せを、感じることができる。
歌が作れて歌える人が、その「芸」を世の中に返していく、ただそれだけ。
この潔い宣言が、還暦を越え再び生まれた男の新曲「歌になりたい」ではないか。
コード運びもシンプルな曲調の中、ASKAの喉から溢れた自由なリズムが、詞を、想いを、跳ねさせる。
アイデンティティに気づいた人は強い。
アイデンティティに気づいた人は、美しい。
今はそれをただ受け取り、喜びたい。
何故なら聴く人も、彼の放つ歌の一部になっているのだから。
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