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ケアとセラピーが、恋人たちを引き裂く 〜「Far Away」歌詞分析・後編

去る8月25日、「ASKA、チャゲアス脱退」の報道。
気にしてない人にとっては2人組の片方が「脱退」したことなど心底どうでもいい話だろうが、それまでの文脈を知る人たちにとって、この脱退は大地震レベルの衝撃だった。

そう、比喩としては「大地震」という表現がぴったりくる。
震源地を中心にいくつかの余震も発生したし、それらに乗じた怪しげな情報やデマが結構な勢いをもって広まり、人心を惑わした。
私たち庶民はカメのように首を縮めて余波をやり過ごすしかすべがなかったが、最近はようやく甲羅から首をソロリと覗かせてもいいくらいに、状況は落ち着いてきたと思う。
デマを流す人にも信じる人にも、なりたくないなぁと改めて思う。


さて、ようやく周囲の安全を確認した私はヘルメットを脱ぎつつ、再びCHAGE and ASKAの名曲「Far Away」の歌詞分析・後編に取り組もうとしている。
前編「愛の行方の約束は、初めての夜に服を脱ぐより難しいのだろうか?」において歌詞全体を味わっているので、ぜひまだの方は読んでみて頂きたい。


前回からの宿題。
それは、「なぜこの曲に登場する男女は、愛し合いながらも『永遠の愛』を約束できずに苦しくなっているのか」を解明することである。

これはすなわち、私が今までさんざっぱらnoteで書いてきた「ASKAは詞の中で永遠の愛を否定しがち」問題だ。
「Far Away」という曲は1987年、その思想が初めて歌詞として現れた記念碑的作品なので、分析する方も武者震いしてしまう。

まずはちょっとこの曲のおさらいをしておこう。
「Far Away」は恋の迷路にはまった男女の苦しい叫びの歌である。

「ねえ、ずっと好きでいてくれる?」
「ずっと一緒にいて欲しいの」

そんな風にちょくちょく男に愛の「行方」や「確証」を迫ってしまう”重めの女”が、主人公の彼女のようだ。

人見知りで さみしがり屋の君は
愛の行方 とても知りたがるけど
はじめての夜に 服を脱ぐよりも
きっとむつかしい

どんな愛がいいの 君に答えるなら
黒い髪を撫でる 僕の吐息

Far Away, Far Away 確かめ過ぎないで
Far Away, Far Away 今がすべて

彼女の「ずっと一緒にいてくれる?」に対し、「うん、ずっと一緒にいよう」と、ウソでも男の方が答え続ければ、案外話は丸く収まるのかもしれない。
だがFar Awayな男は誠実男。
そんな風に答えないから、二人して恋の迷路にはまり込むのだ。

「未来のことはわからないけど、いま君を心から愛してるよ」

男が考えあぐねた末、ようやく思いついたステキな言葉は、どうやら彼女に対しては逆効果なようである。
不安は結局解消されず、何度も男にすがりついてしまう、といった繰り返しが生じているのだろう。

どんな愛がいいの

何度も登場するこのフレーズは男と女が互いに投げかけ合っているのだが、最後には二人の行く末への不安な叫びのようになっていく。

ああ、なんて気の毒な二人。
この、世間でもよく見られる「ずっと一緒にいて欲しい」問題はどう解決すればいいのだろうか。

男が女に言われるまま文字どおりずっと一緒にいれば、おそらく社会人としての信用は落ちるし、そうなると「ずっと好きでいる」ことすら危うくなってしまうだろう。
電車の居眠り客のように、じわじわともたれかかってきた彼女の重みはやがて岩のようになり、相手の存在を縛り付ける。
そこで男は「今に集中しよう」と自立の姿勢を彼女に促すのだが、それを彼女は「愛」として受け取ってくれないのだから、男はますます全力で空回り、苦しくなってくるのだ。


こういう愛、もっとライトに言えば「好意のすれ違い」というのは、実は日常のいろんな場面で起きている
ほら、「女性は共感を求めてるのに男性は解決法を与えたがる」みたいな話は、もはや耳にタコだろう。
だがこの平行線状態を「男女の脳の違い」と言ってしまうのは、ちょっと身も蓋もないようにも思う。

そもそも”互いのニーズが食い違う状態”というのは、なぜ人間関係の中で生じやすいのか?
それがわかれば「男女脳」といううっすらとした議論から距離が置けるし、Far Awayな男女が苦しんでいるものの正体もわかるはずだ。

そんなことをモヤモヤと考えていたある日。
私はとある一冊の本の、こんな文章に出会った。

ある種のニーズはね、満たされることで、逆に生きづらくなってしまうということがあるわけです。「ずっと一緒にいてほしい」って言われて、二時間一緒にいたら、もっといてほしくなって、二三時間一緒にいてあげることになります。だけど、それでも、残りの一時間一緒にいないと、その人は寂しくなってしまうわけですよ。だって、一緒にいればいるほど、いない時間には自分のことを迷惑に思ってるに違いないって、恐ろしくなってしまうわけですから。
だから、その恐ろしさや傷つきに向き合うことで、「一緒にいてほしい」というニーズが、「一緒にいなくても、自分のことを悪く思っていないとわかる」に変更されると、人は生きやすくなります。そうすると、一時間一緒にいてくれることの貴重さを感じることができるようになります。

まさに、Far Awayな男女の姿がここに描かれているではないか?と私は仰天してしまったのだ。

これは、東畑開人さんの著書『居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書』(2019) の中の一部分である。
以前、私が別記事で「ケアとセラピー」という言葉を安易に使ってしまったため、浅はかさを危惧した(?)知人であり素晴らしいnoteライターの子守さんが我が家にベストタイミングで貸してくれた一冊だ。
私が日頃モヤモヤすることの理由が全て明晰に描かれていて、頭の中の氷山が崩壊するような衝撃を私に与えてくれた仏様のような本である。

この中でケアとセラピーが端的に定義づけられているので、引用してみよう。

ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。
(中略)
セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常の中で葛藤し、そして成長する。


こう読むと、セラピーは比較的わかりやすい。
映画「ロッキー」のように、腐った主人公とメンターとなる人物が共同で過去の傷に向き合い、それを克服し成長するというストーリーは、日頃私たちが触れるエンターテイメント作品のストーリーの基礎となっているからだ。

それに対しケアはわかりづらい。
赤ん坊を育てる母親というイメージがぴったりくるだろうか。
ちょっと泣けば「はい抱っこね」と抱き上げ、オムツを替えミルクを与える。
「ちょっとは我慢しないと、これから先ろくな人間にならないよ」と突き放すことをこの時期にNGとすることで、人間の根底に「ただここに居てもいい」という安心感をしっかり築き上げていくのだ。

この「ただここに居る」ということは、成長した人間にとっても案外難しい
その難しさを『居るのはつらいよ』ではタイトル通りに、何度も重ねて強調しているのだ。
大人になったって、ちょっとしたことで自己肯定感が揺らぎ「ただ居る」ことが難しくなるケースは割と多くある。
この本の舞台は、「ただ居る」ことの難しさをこじらせてしまった大人たちを支える沖縄のデイケア施設。
その内部に、駆け出しの臨床心理学者、つまりセラピーの専門家であった著者が文字通り飛び込んでいき、体当たりのスタッフ目線で描くという、小説のような学術本のような珍しい書籍だ。

セラピーこそが人間の心の問題を解決する、と信じてやまなかった著者がデイケアと出会って知ったこと、それは「ケアへのニーズが満たされてこそ人は生きられる」というヒリヒリした現実だった。
東畑さんは書籍の中で、このように述べている。

繰り返して言っておくと、セラピーにはつらいところがあります。ニーズが満たされず、傷つきに向き合うわけですから、しんどいんです。だから、安易にセラピーをやってはいけない。ケアが必要な人には、まずケアを提供しないといけません。

しかしケアが大事と説くその一方で、ケアを施すという行為そのものが、ケアする側の心身ともに削っていくという現実も、この書籍の中では痛いほど見事に表現されている。

ケアとセラピー、似ているようで、その内包する意味や問題点は山のようにある。

人にはセラピーを通じて心の問題を解決することで手に入れられる成長があるが、そもそものところにケアの満たされた状態がなければ、生きていくことすら難しい
ケアの重要性が浸透していない現在、世の中はセラピー的な発想が主導権を握っており、ケアに従事する人たちの労働対価は相変わらず低く、その内容は軽視されている…
最近よく聞く、世の中に噴出してきた色々な社会問題を解く糸口が、どうやらこのケアとセラピー問題に結びついている。
そのことについてもこの書籍にはよく書かれていて、目の覚めるような視点を与えてくれる。
そして、人間関係の複雑さはこのケアとセラピーへの誤解から生じることが多い、ということへの気づきも。


さて、この本で得た視点を使いながら、またFar Awayな男女に話を戻そう。

彼女が「愛の行方」という表現を使って切実に求めていたもの、それは「ああ、そうなんだね」としっかり側に座って受け止めようとしてくれる姿勢ではなかったか。
一方で男が彼女を愛するあまり与えようとしていたものは、「自立した大人同士の満たされた関係」という一歩先のステップではなかったか。

二人の間で起きていたこと、それはケアとセラピーのすれ違いであった。
同じ時間軸でケアとセラピーが行き来してしまったからこそ生まれた、どうしようもない平行線であった。
互いの心が固まり、二度と混ざり合えなくなることも知らず。

人は、強くもあり、弱くもある。
ゴールや成果というものを求めるならば、強さの方に価値があるだろう。
だが人は本来、支え合って生きる。

だから、あえて強さから弱さへ寄り添っていくこと。
弱さから強さへ勇気を持ってシフトしていくこと。

人と人がバランスを取り合いながら、確かめ合いながらゆっくり進めていければ、必ず人は「ただ居る」ことができるようになる。

「人は強いもの」「いや、弱いもの」という思い込みをまず捨ててみよう。
目の前の人が何を求めているのかに耳を澄ますことで、きっと愛し合いながらも傷つける恋人や夫婦の何割かは、救われる
互いがただ居るだけで心地よかった日々が、また取り戻せる。

Far Awayの彼女がいつか時間をかけ、自分の口から「先の約束よりも今が大事だね」と言える日が来ていたなら、この男女は別れを選ばなかったのかも、なんてことも思う。

あんなに苦しんでた
時間はもう 過ぎ去った
本当のことは何も
言えないままの終しまい

君の涙に つき合えなかったのが
解からない

さよならを言いながら 震えてた
扉の閉まる音だけを 覚えてる
あれは二人が二人を なくした日だね

「くぐりぬけて見れば」(’86)
僕らは愛の色を 伸ばしながら通り抜け
絵の具が切れたとこに たたずんでいた
 空と海を分ける線のように

「no doubt」(’99)

この二人が平行線のまま迎えた結末を歌う曲の存在が、またどうしようもなく切なく感じてしまう。
ケアとセラピーの難しさを知っている人が聴けば、なおさらだろう。


「Far Away」という楽曲は、ASKAの生んだ曲の中でもひときわ異彩を放つ作品だ。
”深く愛した苦しい恋”という経験を通して、失った恋はその解決できなかった棘とともに、記憶の中で悲しみの色を増し続ける。
(その後昇華して生まれた「めぐり逢い」についても、その特異性について記事で触れてみたことがある
それゆえ、ASKAの描くラブソングはより一層哲学的となり、同時に不条理なエモーションを増していくのだ。

恋の棘跡がひときわ生々しく残る「Far Away」。
この曲がなぜこんなに心に迫るのかといえば、それはケアがどうしようもなく必要であった彼女の前で、セラピーしか与えられない男が自分の愛の形に苦しみ、悶えているからであろう
実はこんなにも苦しみ悶える曲は、その後のASKA曲の中にはない。
その姿は、自分たちの心の有り様に無自覚という、若さが残したきらめく宝石であった。

「永遠の愛を否定しがち」なASKAのラブソングたち。
もしかすると、そのキリッとした優しさは、いつまでも残る失恋の棘への、終わらぬ問いかけなのかもしれない。


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