内向的な 『Wonderful world』にある、ただ一点の共感性
11/25に発売された、ASKAのおよそ3年ぶりとなるフルアルバム『Wonderful world』から感じたことを今日は書いてみようと思う。
およそ3年前に始まったコロナ禍。
ASKAが前作『Breath of Bless』を発表したのは、日本にコロナ感染の広がりが本格化していくぎりぎり直前だった。
なので、この新しいアルバム『Wonderful world』は、ASKAという作家の内面をコロナ禍という歴史的なできごとが通過した、記録のような意味を持っていると思う。
情報に疲れたこの3年弱
『Breath of Bless』発売の後、社会では学校が閉鎖し、企業はオンラインとなり、店舗の灯りは消えた。外出するなと政府から言われたことは初めてだった。
誰もが、ものすごく不安だった。
「ニューノーマル」という言葉が流行り出し、新しい道を誰よりも早く見つけて言い出した者が勝ちと言わんばかりに、色んな人が色んな方向のことを言うようになった。
情報によって、利用する者、される者。コロナ禍ではっきりと見えてきた構図。
私も含めた多くの人が、情報に疲れるようになった。
特にSNSでは、自分や家族が健康であることを人前で喜んだり、今日も無事に「おはよう」から始められることが、他の人を傷つけるかもしれない可能性に慎重にならなければいけなかった。
感動したこと、怖かったこと、今日嬉しかったこと。
当たり前に口から漏れ出す言葉を、封じることが多くなった。
私の嬉しいや正しいは、他の人の嬉しいや正しいを傷つけるかもしれないから。
back numberの「水平線」を聴いて、ああ本当にそう、と涙が出そうに何度もなりかけた。
世の中の傷んでいる人達に寄り添う歌詞。'20年、甲子園の急遽中止が決まり表舞台に出る機会を奪われた野球少年たちのために書かれた曲だと後から知った。
野球少年でなくとも、この歌詞は今の胸に本当に痛い。
まるで自分は蟻のような存在で、いつ踏みつけられても文句は言えないということを、どうやって受け入れるか。
この残酷な命題から自分の心を守るため、シニカルになる人もいたし、優しさを発揮しようとする人も、強い言葉にすがる人も、そして思考停止する人もいた。
道ですれ違う人達は10年前と変わらぬ顔をしているけれど、それでも社会の空気はこの3年近くで大きく変わったのだと思う。
断面であり、区切りであるニューアルバム
ASKAはこの3年弱の間に、同年代のアーティストと比べればかなり旺盛に創作を行っていたと言える。
ライブ活動も、延期や中止になった公演もありつつ充実していた。ツアー2本に、シンフォニックツアーやフェス、イベントへの出演等々。
それら活動を追いながらなんとなく私の頭に浮かんでいたのは、「過渡期」という言葉だった。
彼の(主にSNS上での)言動にはっきりとした変化がコロナ禍の途中から生じてきていて、彼の人柄や思想もよく知った上で楽曲を味わいたいとSNS上に情報を求めた熱心なファン達の、少なくない数が胸に思うところありながら撤退していったことも知っている。
正しさと正しさの壊し合いは、今も続いている。
コロナ禍で傷付いたものの中に「ファンが胸の中で温めてきた彼の音楽」も入っているのかもしれない、なんて思う。
ASKAは、変わり続けている。今もその途中なのだろう。
私はその変化の中、一瞬現れた断面で何かを書くのが早すぎるような、状況を読み誤ってしまうような、そんな気後れを感じて何も書くことができなかった。
だが、ようやく3年近くもの月日をかけて一つの作品がまとめ上げられ、世に出された。
ASKAがどんな風に揺らぎ、また正しさの定まらない世の中にどんな作品を残していくのか。
SNSやブログの言葉より、彼の歌詞はとても正直だといつも思う。
その中から感じるものを、かいつまんで書き残しておきたい。
内向性の高いアルバム
このアルバムに収まっている13曲のうち、今回初めて世に出る楽曲は5曲になる。
'20年の作品が3曲、'21年が3曲、そしてCHAGE & ASKA時代のリメイクが2曲。
ラブソングの名手として知られているASKAだが、純粋なラブソングは「プラネタリウム」のみなのに驚く。
「笑って歩こうよ」は人間愛とも読み取れる含みを持っているし、「I feel so good」「君」はラブソングの衣を着けた自己理解の歌であるとも読み取れる。
純粋なラブソングを除けばアルバムを聴く9割以上の時間が、聴く者にとってはコロナの世の中を意識させられ、そして自身の「生き方」を振り返らされる。
音楽の楽しみもありながらも、キリッとした時間を提供してくるアルバムである。
「生き方」の込められた楽曲達は、作者の中の迷い、弱さ、決意、そして希望とを、まるでジェットコースターのように乱高下させながら見せてくる。
内向性を深めたASKA '95年の作品『NEVER END』を思い出す、という声がちらほら聞こえるのにも頷ける。
C&Aの代表曲として大きな意味を持つ「太陽と埃の中で」「PRIDE」の2曲が収まっているが、どちらも「生き方」について歌っていながら、このアルバムの中ではどこか安心な余韻を残す。
この2曲は、揺らぎまくるここ近年の楽曲達の間にしっかり打ち込まれた杭の役割を、結果的に担うことになっているのかもしれない。
世間との共感ポイント、それは希望
'20年に発表された「自分じゃないか」「幸せの黄色い風船」。
この2曲は、アルバムの中でも特に歌詞に注目してみると明らかに毛色が違っている。
他の曲よりもテーマが掴みやすく、希望が込められている。そして世の中との共感性が高い。
こういった感覚を覚えるのは、どちらもすでにライブで披露されているためかもしれないが、純粋に楽曲に込められた力でもあると思う。
例えば、
「新世界の地を 踏んで行け」「それが オマエじゃないか」(「自分じゃないか」より)
「嘘でも誰かロマン語らなきゃ」「世界」「みんなで」「解き放ち合いたい」(「幸せの黄色い風船」より)
といったフレーズは、曲を聴いているこちら側に優しく視線を合わせてくれている感触がしないだろうか?
この年にASKAは、3週連続シングル配信というチャレンジを行なっていた。
世の中に対して何かできないかという、つながる意思が濃厚なのは、おそらく世の空気が比較的一つにまとまっていたからではないかと思う。
あの頃はパンデミックへの純粋な不安が大きい時期であった。
そしてそれは、長引くコロナ禍の一つの側面でしかないことが徐々にわかっていくのだが。
歌詞が書けない世の中に
'21年は、徐々に前アルバム収録曲「じゃんがじゃんがりん」で歌われていた「すぐ隣が危ない」というフレーズに、現実味が伴ってきた年である。
この年は、世間の空気が複雑化していた。長引き、先が見えないコロナ禍。そしてワクチンの開始。
まるでロシアンルーレットのように突きつけられる様々なデータの意味に、不安を胸に抱えながら誰もが過ごすことになった。
ASKAはこの年に「笑って歩こうよ」をシングルとして配信した。カップリングには「プラネタリウム」。
この2曲はラブソングとしてドラマ性が豊かで、アルバムを通して聴く中でやはり'20年の2曲と同じく安心を感じさせてくれる楽曲だ。
特に「プラネタリウム」の、不穏の入り込む隙間もない爽やかさ。
「笑って歩こうよ」とともにだいぶ以前に作られた作品であり、60代になるとラブソングを歌っても気持ち悪くならない(!)との理由から、長く温めたのちに発表された2曲ということである。
おそらくラブソングというフォーマットは、今のASKAにとっては提供曲を書くときのように、どこか客観視しながら肩の力を抜いて表現できる形態なのだろうと、この2曲から滲み出る安心感に触れながら思う。
そうなると'21年のASKAの思いはどこに込められているのかといえば、それはおそらく「I feel so good」という楽曲の中にあるのだろう。
この楽曲がアルバムのラストを飾るほど大きな意味を持っているということには、私は素直に納得ができる。
'21年の空気を引きずった今年の1月末、私は神奈川県民ホールのライブを観たのだが、冒頭から飄々と歌うASKAの本音がちょっと漏れたなと感じたのは、MCで「最近歌詞が書けない」とこぼした時であった。
当たり前という共通認識が崩壊した中で、歌詞を書く者はどんな言葉を選べばいいのか。
これは本当に難しくなってるのかも、と私は妙に苦しくなったものである。
それでもASKAはラブソングのフォーマットを取って、この楽曲を万人が聴けるようにまとめきった。
おそらく、彼の60代の作品の中で代表作のようなポジションに後々収まっていく曲だろう。
そんな風格を、歌詞、コード、メロディともに備えた作品である。
作者の頭を占めている、自己存在への問い
混乱を増す'21年に「I feel so good」のような作品を生み出せたASKAの、粘り強さはやはり強靭であった。
そう納得させられるほどに、今作で発表された新たな5曲は素晴らしい。
(楽曲自体はコロナ禍以前に作られたものもあるようだが、歌詞はおそらく今年吟味して書かれたものだろう。)
おそらく年初から、「アルバムを作らなければ」という決心があったのだと思う。
そして「世につれ歌えない」と、まさに「どんな顔で笑えばいい」といった曖昧な表情でライブのステージに立っていたASKAの心情が、見事に作品の形で昇華されていったのだ。
このアルバムを聴く者は、
と歌うアーティストの、長い独白に触れることになる。
新しい5曲にはっきりと表れている特徴は、どれも「自己存在を問う」形を取っているところだ。
特に「誰だ 俺は誰だ」と繰り返す「どんな顔で笑えばいい」、また「それだけさ」に込められた、胸にズシンと響くメッセージ。
それじゃ恥ずかしいよ、とまで直接的には言われないだろうが、きっと親しい人達からの忠告もたくさん受けているのだろうと想像する。
他者から見える自分に、ずっと人前に立ち続けてきたASKAが鈍感なわけがない。
と「だからって」の中で歌い上げるほどに、自己存在の確かさを掴めぬまま、それを感じさせてくれるものと世間との間で、ギリギリのところを渡り続けているのだろうと思う。
宇宙ほどのロマンと孤独
また目に付くのは、新曲たちから感じられる、宇宙への飽くなき興味とシンパシー。
ASKAという作家の執着的とも言える興味の矛先は、常に時空へのロマンである。
過去からの転生を信じる気持ちも、
という歌詞に書き表されていたりしないだろうか。
彼を追い続けているファン達には特段驚く話ではないが、世間の多くの人達から見ると「空を飛んでいるような」話を、ここまでまろやかに歌詞の中に織り込める力技は、ASKAにしか発揮できないものだろう。
「空」「飛ぶ」「宇宙」というフレーズやイメージの多さ。
地上に重力で縛り付けられて見る光景は「赤茶けた現実」であり、「ステンレス」や「ファスナー」のような「金属」であり、固く縛り付けてくる「石」のような重さであると、これも各曲に散らばったフレーズから感じ取れる。
おそらく「I feel so good」で「これからも僕は ビルの上を飛ぶように」と歌ったASKAが、周囲との間に感じている齟齬は尋常でなく大きいに違いない。
ASKAのまろやかに丸め込む作詞の技で、彼の孤独は少しだけ甘いシュガーをかけられてこのアルバムを聴く私達の耳に届く。
だがこのまま「生きることの全てを歌」い続けていったら、どこへ辿り着くのだろうか。
宇宙は寒いのだと聞くが、その宇宙から少しだけ地上に届いた冷たい風が、このアルバムには全体を通じて吹き抜けているような気がする。
この孤独は彼の中に、思えば若い頃の作風からもずっと続いていたのだろうとは思うが、やはり'10年代からビビッドに増幅していったのではないだろうか…と考えるのは、少しワイドショー的すぎるだろうか。
世間から理解されないという強烈な記憶。
トラウマのように胸に刺さって抜けない思いがそこにあるように、復帰後の作品からも含めて感じてしまう。
「僕のwonderful world」に表れたバランス感覚
アルバムのタイトルとなっている『Wonderful world』。
頭に「僕の」と付けた'20年作の楽曲が元となっているが、その曲のさらなる元は、ルイ・アームストロングの名曲「What a wonderful world」だ。
コロナ禍のブルース。苦しみにまみれた、この素晴らしい世界。
『Wonderful world』という、ともにこの世を生き抜こうという希望の込められた言葉がタイトルに据えられたことで、ASKAの中に創作においての客観性がしっかり生きていると、多くのファンも感じたことだろう。
「僕のwonderful world」の歌詞を改めて眺めながら、なんてバランスの良い曲なのだろうと思う。
すぐ先の未来への不安と、それでもこの世界を愛しむ気持ちが、いい按配に絡まり合っている。
ASKA節と言えるような、少しあどけないロマンの詰まった珠玉の歌詞。
ラブソングというフォーマットの時と同じく、「ブルース的」という枠組みの中で絶妙なバランス感覚が発揮されているのがわかる。
肌の赤剥けたような心情吐露ですべてを埋め尽くさない、ASKAの作家性にほっと息をつく。
冬の部屋に少しだけある陽だまりのような、温かな歌。
おそらくASKAは「僕のwonderful world」をこの先もずっと、心込めて歌い続けていってくれるのだろうし、そうであって欲しいと願っている。
「私はここだ」という一点の共感性
この内向性の高いニューアルバムに込められたものに、どれだけ世の中との共通項があるのか、正直私には読みきれていない。
だが、この一点だけは間違いなく普遍的に共感を生むだろうというものがある。
それは、全ての曲から感じられる「自分はここで生きているんだよ」という、捨て身のような叫びだ。
このアルバムに詰められた楽曲は、歌う本人が本人自身を癒すための曲なのだろうと思う。
だが長年彼を追いかけて、彼がすべてを本音で歌っていると知っているファン達は、そうやって癒していくしか方法のない彼の姿を通じて、心震えざるを得ないのだ。
このロシアンルーレットのようなコロナ禍、冷え冷えとしたニュースを眺める毎日で、「自分も生きてるんだよ」と叫びたくなった瞬間は誰にでもあるのではないか。
その一点の共感性に賭けるアルバム、それがこの『Wonderful world』なのではないか、と私は今のところ思っている。