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イスラム世界探訪記・パキスタン篇②

「05年9月20日(モヘンジョダロ)」

 モヘンジョダロは、日本語で「死者の丘」を意味する、インダス文明の代表的な遺跡だ。繁栄したのは4000~5000年前。排水施設や公衆浴場もある高度な都市で、一時は4万人が暮らしていたという。しかし、何らかの理由で一気に衰退。衰退の理由には洪水説などが挙げられているが、判然としない―。

 考古学バンガローを出ると、そこは遺跡の入口付近だった(と思う)。舗装された一本道を行く。左右にはポリスボックスや銀行(ただの掘建て小屋)があり、そこを抜けると遺跡に入場だ。外国人の入場料は200Rs(約400円)だった。

入退場ゲート

 遺跡内の道は白かった。塩のせいらしい。モヘンジョダロ遺跡は、塩害による深刻なダメージに悩まされている。

 朝からひとりで、広大な遺跡の中をぐるぐると歩いた。よく晴れた日で、太陽に照らされた遺構の壁面が、黒々とした影を地面に伸ばしていた。近代的な街そのものが丸ごと残された印象を受ける。煉瓦造りの街並みがそっくり置き去りにされた、巨大なゴーストタウンである。

遠方から。遺跡の一部で全景とはとても言えない

 建物を造る焼き煉瓦の一つひとつも、塩のせいか、乾燥のためか、白みを帯びている。美しい白ではなく、色褪せた、やるせない白さだ。モヘンジョダロは世界遺産に登録されているが、観光地化には程遠い、装飾も何もない剥き出しの遺跡だった。そのせいか、風化と塩害で表面が崩れている壁も目に付く。それでもやはり、遺跡全体の印象としては、つい先日捨てられたばかりのような整然さがあった。

 歩き出してすぐに、どこからともなくひとりの痩せた中年男性が現れた。遺跡の案内をしてやると言う。子どもの頃から憧れていた場所だ。まずはひとりで見て回りたかった。そう断っても「案内は私のデューティー(義務)だ」と離れない。なんとか理解してもらい、振り切った。

 しかし、探索は長く続かない。炎天下。ジリジリと肌が焼ける。ペットボトルの水はあっという間にぬるま湯となり、遺跡内には太陽から身を隠す場所もろくにない。暑さに根を上げてしまった。宿に戻って体を休め、10時半頃に再び探索を始めた。

 そこからは、件の「デューティーおじさん」にガイドをしてもらった。市民が暮らしていた二階建ての家屋や井戸が数多く残っている一画を歩いた。下水を流す排水溝も設置されており、明確な都市計画に基づいて設計されたことがわかる。遺跡の煉瓦は一部を復元・修復しているため「オリジナルと新しい物が混ざっている」そうだ。

レンガ壁の間をデューティーおじさんと歩く
吸い込まれそうになる井戸

 やがて、モヘンジョダロで最も見たかった場所、「プール」あるいは「大浴場」「沐浴場」と呼ばれる遺構に着いた。ここに水を張り、大勢の市民が浸かっていたらしい。祭儀の場だという説もある。いずれにせよ「パブリックな施設だった」とデューティーおじさんは言った。

 まずは、でかい。そんな印象だ。持ち込んだコンベックスでプールの大きさを測った。考古学徒っぽいことをしたくて日本から持ってきたアイテムで、学生時代によく従事した発掘作業では欠かせない道具である。

 私の計測では、長方形のプールは9.8m×6.7m、深さは2.5m(公式には12m×7m、深さは2.4m。絶対公式が正しいです)で、底までびっちり焼き煉瓦で構築されていた。

 なお、モヘンジョダロで使われている煉瓦は、4:2:1のサイズで統一されていると聞いていたから測ってみると、27cm:14cm:6cmくらいで、概ね4:2:1と言っても良いかな、ちょっと甘いかな、5000年前だし良いかな、というところだ。

プールのある風景。測量技術の確かさに唸る
沐浴するには深すぎる気もするが…

    プールの淵に腰をかけ、しばらくぼんやりとした。ずっとここに来たかったのだ。堪能したかった。好奇心なのか貧乏根性なのかはわからないが、離れたくなかった。私があまりにも呆けてプールを眺めているため、隣に座ったデューティーおじさんは手持ち無沙汰で困っていた。ぶらぶらさせた足でわかる。

 満足した私は、おじさんとここで別れた。次に探したのは、もう一か所、どうしてもモヘンジョダロで見たかった場所だ。遺跡の案内図にも載っていない場所で、SF小説や“超古代文明”にはまったことのある人には有名な「ガラス化した土地」である。

    いわく「かつてモヘンジョダロでは“超古代文明”が栄えていた。そのモヘンジョダロは、もろもろの理由で核戦争で滅んだ。その証拠に、遺跡の外れにある『爆心地』とされる場所では、超高熱で溶けた砂が冷やされて固まり、黒いガラス質の石(トリニタイト)になった。そんな石が縦横400mくらいの範囲に散らばっている」という話だ。

 ここ?

   遺跡の敷地内に盛り上がっている丘を越えてぐんぐん歩き、まだ発掘調査の手が入っていなさそうな区域を歩いていると、一部の範囲だけ地面が黒くなっていた。荒涼とした場所だ。黒い石を拾ってみると、表面にぶつぶつとした気泡(?)のような痕がある。雰囲気はあるし、気泡らしきものが混じった石があるのは、先の「いわく」の通りだ。

わかりにくいですが、ここ
地面の様子
こうしたぶつぶつ入りの黒い石が散らばっている

 しかし、それだけだ。その手の本の描写によくある「キラキラと黒く輝く地面」ではないし「ガラス玉が無数に転がっている」こともなく「溶けた土器」もない。何らかの理由で打ち捨てられた一画なのかもしれないが、「いくらなんでもムニャムニャ戦争の跡には見えん」(日記より)場所だった。そもそも狭すぎるし。

    うーん。

 それでも、子どもの頃から行きたかった場所に来たことが何より嬉しかったなあ。

 その後、遺跡内にあるレストラン(ただのテーブルと椅子)で昼食を取り、再度、プールと黒い土地を見物した。よく歩いたと思う。しつこいようだが、この日の暑さは尋常ではなかった。9月のパキスタン南部をなめていた。ちょこちょこと宿に戻って休憩しながら見物したが、離れた街に泊まっていたらそうもいかないだろう。考古学バンガローに宿泊したのは、一世一代のファインプレーだったと自負している。

 一日かけて遺跡を堪能し、併設されている簡素な博物館もじっくり見て、満足した。外国人観光客は他におらず、ほとんど私の貸切状態だったと思う。何度か現地の見物人を見たくらいだ。

 一度、7~8人のパキスタン人グループに出くわした時は、友好関係を作ろうと思い、こちらから微笑んで「アッサラーム・アライクム(こんにちは)」と言って手を差し出した。大喜びで握り返してくれた。次から次へと差し出される手を全て握り、ハグをして、写真を撮りあった(カメラを向けると格好良く決めたくなるのか、あらたまった表情になることが多い)。パキスタンではこれを何度も繰り返すことになる。

急に真面目になるし、汗がすごいし

 夜はよく眠った。部屋はしょっちゅう停電するし、この夜も蟻だらけ、虫だらけで苦労したが、心は充足したまま眠りについた。

   蛇足だが、考古学バンガローには耳の尖った猫が4匹いて、食堂で食べている時などは足下にすりすり寄って来た。なごんだなあ。

耳ピン


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