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龍岡城五稜郭

五稜郭は箱館開港時に函館山の麓に置かれた箱館奉行所の移転先として築造されたものである。
1866年(慶応2年)の完成からわずか2年後に江戸幕府が崩壊し短期間箱館府が使用した後、箱館戦争で旧幕府軍に占領されその本拠となった。
明治に入ると郭内の建物は1棟を除いて解体され、陸軍の練兵場として使用された後1914年(大正3年)から五稜郭公園として一般開放されている。
現在では函館を代表する観光地となっている。
一方、龍岡城五稜郭は、慶応3年(1867年)に田野口藩主「松平乗謨」によって造られ、函館の五稜郭とともに日本に2つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭である。
函館の五稜郭と比べると規模は小さいが、日本には函館と佐久の2か所しかない珍しいものであると言われている。
さらに龍岡城五稜郭は現在田口小学校として使用されているが、令和5年3月で少子化の煽りを受けて閉校予定である。

小学校4年生当時、春の遠足で龍岡城五稜郭へ行ったことがある。
龍岡城五稜郭といっても建物はほぼ解体されていて、星形の堀が残っているが、空から見ないかぎりわからないので、ただの小学校にしかみえない。
歴史的に貴重な遺産であることは間違いないが、子供たちにとっては退屈な遠足であった。
しかし、見学中に龍岡城五稜郭の由来や歴史などを説明されると、子供たちも熱心に聞いていた。
見学時間で敷地内を見ていたところ、お堀の石垣に不思議な点があることに気付いたのだ。
石垣の一部が崩れている箇所があったのだ。
他の部分はしっかりとした石組みであるが、一部だけ石積みが崩れて隙間がある。
崩れた石垣の隙間からは真っ暗な奥へと続いてそうな手掘りのトンネルのような穴があり、覗いてみると何か違和感を感じた。
不思議に思いながら石垣全体を観察していると、違う箇所に同じような崩れが生じて修復した痕跡があることに気付く。
そして、その崩れた穴の奥に目を向けると人影らしきものがあるように見えたのだ。
一瞬、幽霊かと思ったが、そんなはずはない。
再度確認するとやはり人影が立っている。
しかも、容姿はの白人女性のように見えて、こちらを鋭い目つきで睨んでいるようだった。
吃驚して私は慌てて目を逸らし、もう一度見たが彼女の姿は消えていた。
いったいどういうことだろうか?
さらに石垣の中を見てみると、小さな横穴がいくつもあった。
不思議ではあったがすごく不気味であり、それ以上深く考えることを止めて忘れることとした。
その後、昼食を食べて午後からの自由行動の時間となったのだが、どうしてもあの石垣の穴が頭から離れなかった。
あそこに立っていた人は誰だったのか? なぜあんなところにいたのであろうか?
そもそも生きている人間なのかすら疑問であった。
ただ、何度考えても答えは出ず、恐怖だけが残った。

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