【創作小説】『エクスリブリス・クロニクル』本文サンプル【BL】
静かに暮れゆく世界で、古書と珈琲が引き合わせる大人の恋物語。
<基本情報>
現代日本と別レイヤーの異世界で主に東北地方を舞台にした、スチームパンク風ほのぼのディストピアBLです。
シリーズ再録『エクスリブリス・クロニクル』より、アールワークス処女作「喫茶エクスリブリス」の前半を以下に掲載しています。BL的には「三十代の喫茶店主と四十代の図書館司書」の組み合わせですが、他の物語では主役となる組み合わせが替わります。
0.プロローグ
駅舎を出ると、今乗ってきた汽車が黒煙を上げて都会へと戻っていく。
そこは首都から遠く離れた北の町。雪こそ降っていないが肺を刺す冷たさは、すでに冬の空気だった。
建物はどれも低く、空をゆく飛行船もひとつあるかないか。住民も昔に比べればずいぶん減ったようだ。下りたシャッタのほうが多い繁華街や、石垣も朽ちかけた城址公園を通りすぎるたび、この地方都市も世界的な黄昏の進行には逆らえないのだと実感する。
年々気温が下がっている昨今では、あえて北へ来る者は少ない。首都やその先に南下する者も増えていて、北が南より一足先に宵闇の時代を迎えようとしているのは明らかだった。
橋を二つほど渡った。どう歩いても必ず橋に当たる、川の多い土地だ。かつては城下町だった面影を残しながら、古い住宅や商店が静かに身を寄せ合っているその地区は、町の中心部が最も活気づいていた時代からさほど変わったようには見られない。どこの町でも、最後に残るのはこういう場所なのだろう。
冷え冷えとした石畳を踏みしめて何本かのガス灯に見送られ、角を曲がってすぐのところに、そのビルはあった。元は印刷所だったという三階建ての上二階ぶんは、カーテンや窓辺の様子から住居なのだとわかる。下宿なのか、それともビルの所有者が住んでいるのか。
表通りに面した入り口はさほど大きくはないが、扉のガラス面に「中央図書館 古書管理閲覧室 第七十二分館」と仰々しい字面が並んでいる。その横に「喫茶エクスリブリス」という立て看板が出ていた。
扉の中のエントランスを抜けて、フクロウの図柄が描かれた重い木枠のガラス戸を開ければ、かつて印刷会社の受付だったカウンタに迎えられる。カウンタに席はなく、大きなキャッシュレジスタと黒電話が置かれているだけ。その奥には珈琲の香り漂う厨房があった。
いらっしゃいませ、と静かな声をよこすカウンタの前を通りすぎると、その先には吹き抜けを見下ろす空間が広がっている。その昔は輪転機の稼働する音が響いていたのだろうが、今は静寂そのものだ。
落ちついた照明に照らされた地階へと、階段を下りていく。四方の壁には本がぎっしり詰まった本棚が作りつけられていた。階段の下にまで。
本には全て、帯出禁止のラベルが貼ってある。ここでは閲覧しか許されていない。むりもない、このごろは古い本がずいぶんと危ないものになってしまったのだから。被害への対策が進められるとともに、いつしかこのような「古書閲覧室」で読むことを推奨されるようになった。
地階の奥、一階の厨房の真下に、もうひとつのカウンタがある。そこには専属の司書がいて、貸借手続きこそしないが本探しを手伝ってくれる、はずだった。ただし不在のことも多い。この閲覧室には魔女のような風貌の年老いた女がいるはずだが、今日も「外仕事」でいないようだ。
司書不在の閲覧室を守るのが、「喫茶エクスリブリス」の店主だった。ここは、本を読みながら珈琲や軽食を頼むことができる喫茶室でもある。
見たところ三十路を過ぎたばかりだろうか。若々しい顔立ちから受ける印象より落ちついた佇まいの男で、古めかしいセピア色の店内にいても違和感はない。整った顔の造作もあってか一見柔和で頼りなさそうだが、立ち振る舞いを見ると精悍な印象すら受ける。きっぱりとして訛りも淀みもない言葉遣いや、懐中時計の鎖に至るまで洒落ていてあか抜けた服装から、彼がこの土地の者ではなく都会から来た人間であることが知れた。
彼は声をかけられるたびに一階と地階を涼しい顔で往復し、時にはにこやかに客の世間話に応じている。ただし本のことはまるで知らないらしい。
決して主張はせず静かに人を待っている、古書閲覧室と喫茶店。
どこの町にもある、穏やかな黄昏の光景だった。
1.竈の猫
万尋(まひろ)は看板を表に出し、かじかむ手をさする。
ここ数日で、朝晩はだいぶ冷え込んできた。この地では十月ともなればもう冬だ。
首都より厳しい寒さにもかなり慣れたつもりではいるけれど、寒波は年々勢いを増している気がする。今年の冬はどこまで気温が下がるだろうか。目前に迫った冬のことを考えて身震いをし、店に戻ろうとした。
ふと、視界の端で人影が動いた気がしてふり向く。近隣の店もまだ開いていないから、通りに人の姿はなかったはずだった。
遠くて顔はわからなかったが、ふたつの影が急いだ様子で路地へ駆け込んでいくのが見えた。一瞬のことだったけれど、男女ほどの体格差で、たしかに万尋を見て動揺していた。
怪しいものの、まさかこんな時間に泥棒でもないだろうと頭を切り換え、寒さに肩をすくめてそそくさと店内に逃げ帰る。
朝早くにつけたセントラルヒーティングは、外へ蒸気を吐き出す音を立てるばかりで、まだ店内全体を暖めてはくれない。吹き抜けの開放感も、冬の北国では忌々しい冷気の塊でしかない。
厨房に入ると、閉めてあったはずのオーブンの扉が開いていた。
「またか……」
万尋はため息混じりに竈(かまど)の中を覗き込む。煤の上には今日も猫がうずくまって寝ていた。
「こら、ここで寝てはいけないと言ったでしょう」
猫は物憂げに目を開けて伸びをし、だがおとなしく出てくる。
煤で汚れていて元の毛並みの色はわからない。鼻と耳が真っ黒になっているのも、毛色なのか汚れなのか。熱の残った竈は、あたたかくて寝床にいいらしい。
貧相な見てくれのわりには聞きわけのよい猫が黒い足跡を残して出ていき、万尋は肩をすくめてモップを取りにいった。昨日、閉店後に全てきれいにしたのに。
掃除をやりなおして竈にやっと火が入ったころ、店の外からエレベータの稼働音が聞こえた。ほどなくして、準備中の札がかかっているガラス戸が開く。黒いドレスを纏った老婆が、歳に合わない機敏さで入ってきた。
「おはよう万尋」
濃い皺が刻まれた顔としゃがれた声は、実際のところ性別の判断にはならない。だが服装を見るかぎり少なくとも本人は女のつもりなのだから、彼女と呼んでさし支えないだろう。
「おはようございます、夏生(なつき)さん」
彼女は古書閲覧室の司書で、この建物のオーナーでもある。雇われ店主の万尋はここの二階に部屋を借りている。つまりこの女性が万尋の雇い主にして大家というわけだ。
「こんな朝からお出かけですか?」
大きなトランクの上には毛皮のコート、深紅の編み上げブーツは外出用。もともと濃いめの化粧も割増になっている。
夏生は椅子のないカウンタに寄りかかり、煙草を取り出した。
「しばらく留守にするよ。珈琲をおくれ。地獄のように熱いやつをね。ああ、それから汽車の中で食べるものを包んでくれないか」
「はい……今度はどちらに行かれるのですか?」
灰皿を差し出し、厨房へ向かいながら万尋は訊ねる。この土地は広さのわりに司書が少ないらしく、夏生は町をぐるりと囲む山を越えた先まで、泊まりがけで「外仕事」に出ることもあった。
だが彼女の返答は万尋の想定とは少しばかり……かなり異なっていた。
「北の大地さ」
「ええっ」
この地でさえ人が減っているというのに、海を渡って極寒の土地へ行く者などさらに限られる。図書館の区分はよく知らないが、さすがに夏生の管轄外ではないだろうか。
「どうしてそんな、急に……」
昨日までは、旅行に出る話などいっさい聞かなかった。地階のカウンタで書誌の整理をしていただけだったのに。
立ち上っていく紫煙を、天井のファンがゆっくり巻き取っていく。
「報せが来たんだよ。凍りかけた小さい町の古書閲覧室で、たった一人の司書が死んじまった。近隣に町はなし、他に図書館もなし。となると、だれかが本を回収に行かなけりゃならんだろ」
「はあ……」
なぜ、古書閲覧室を統括する中央図書館の若手ではなく老齢の夏生が、などとは言わない。彼女はそういう女、そういう司書だからだ。ここで働きはじめて五年になるが、どこまでも頑固で我流を貫く彼女の性分をたびたび見せつけられていた。
「あたしより九つも年下のくせに、あのジジイ……」
死んだというその司書が知己ならば、なおのこと彼女が動かないわけはない。
「では、明日あさってにお帰りということはなさそうですね」
金のかかる飛行船は使わないだろう。内陸にあるこの町から汽車で港まで行き、海峡を渡る砕氷船に乗るのが一般的だ。向こう側に渡るだけでも丸一日はかかる。その先に広がる大地のどこが目的地であっても、辿りつくまでにどれほどかかるかわからない。
「そうさねえ。一ヶ月は向こうにいるよ」
夏生はこともなげに煙を吐いたが、万尋は思わずポットを持つ手を止めた。
「それは……長いですね」
ここでの喫茶は添え物でしかない。主役は本、そして管理者たる司書だ。司書がいないのに開けておいてもいいものだろうか。
万尋の不安を読んだのか、夏生は肩をすくめて笑ってみせた。
「代わりの司書なら呼んである。来週には首都から来るはずさ。いちおうこの町の生まれを選んだからね、寒いのなんのと不平は言わないだろうよ。だれかに訊かれたら、あたしはちょっと出かけてるって答えときな」
外での仕事も多い夏生は、カウンタの中にいることのほうが少ない。その程度の心づもりでいいということなのは、頭では理解したけれど。
注文どおりの熱くて濃い珈琲を彼女に出し、弁当のサンドウィッチを作りながら、じわじわと大きくなってくる不安にため息をつく。
添え物とはいえ、喫茶店は万尋、古書閲覧室は夏生の領分で、完全に独立している。つまり万尋は本のことをなにも知らないのだ。万が一「危険な」本たちがなにかをしでかしたとき、自分ではなんの対処もできない。
こちらの心配をよそに「地獄のように熱い」珈琲を飲み終えた老婆は、灰皿に煙草を押しつけ毛皮のコートに袖を通した。
「いってらっしゃいませ。お気をつけて……」
カウンタの外まで出てきた万尋が頭を下げると、彼女は機嫌よさそうに鼻を鳴らす。
「若い男の客が来ても、色目なんか使うんじゃないよ」
「この店に、若い男なんか来ないじゃありませんか」
苦笑する万尋の言葉に、老婆はわずかな間ののち笑い出した。
「……ちがいない」
黄昏の町で古書を求めてやってくるのは、年寄りばかりだから。
「そうだ、珊瑚(さんご)にもよろしく言っておいておくれ。どうせ起きてくるのは昼過ぎだろうからね」
二人は思わず天井を、つまり二階を見上げる。
もう一人の店子は、この時間は怒鳴り込んでも起きないだろう。
「若い女の客を誘わないように言っておきます」
そうつけ加えた万尋に、今度は夏生が苦笑する番だった。
「まったく、あんたたちときたら……」
颯爽とスカートの裾を捌いて、この建物と万尋のオーナーが出ていく。
万尋は小さくため息をつき、紫の口紅がついた吸い殻とカップを下げた。
昼時といえば、他の飲食店なら満席になるころだが、ここではめったにない。今日も数人がいるだけで、一般的な昼食の時間を過ぎようとしていた。
ドアベルを鳴らして扉が開く。
「おはよぉございまぁす」
間延びした挨拶とともに、今起きたと言わんばかりの顔で若い女性が入ってきた。この季節なのに外套も着ていない。ロングスカートに厚手のショールを羽織っただけで、長い黒髪も櫛を通したようには見えなかった。
それもそのはずで、彼女の家はこの建物の二階、つまり万尋の隣人だった。今日はまだ一歩も外へ出ていないのがすぐにわかる。
「おはようございます、珊瑚さん。今日のお昼はどうしますか」
「あるものでかまいません、あと珈琲!」
一見きつめだがどこか愛嬌のある顔が笑みを見せる。
彼女は階段を下りかけ、地階を覗いてからカウンタの前へ戻ってきた。万尋のすぐそばまで来ても見上げることはない。女性にしてはかなりの長身だった。
「夏生さんは、外仕事?」
「ああ、それなんですが……」
万尋は店子仲間に大家の不在を知らせる。珊瑚も寝耳に水だったようで、しばらく「ボイラーの調子が悪いのに」「家賃は一月先延ばしでもいいのかな」などとどうでもいいことばかりを呟いていた。
「若い女性が来ても、色目は使うなと言い置いていかれましたよ」
自分が言われたことを多少アレンジして伝えると、彼女はようやくいつもの気分を取り戻したようで、にやっと笑った。
「若い女なんて来ないじゃない」
「……………」
自分が同じ言葉を口にした事実は、伏せておくことにする。
「好みの女の子がいたら放っておきませんよ。そういうものでしょう?」
「仮にそういうものだったとしても、年ごろの女性がそういう品のないことを言うのはいかがなものでしょうか」
「年ごろだからいいんです、万尋さんとちがってまだ若いんです」
そう言われては、おとなしく引き下がるわけにはいかない。
「ぼくだって、まだ若いですよ」
「三十過ぎたら立派におじさんです」
「珊瑚さんだって、四捨五入したらこちら側ですよ」
「四捨五入したら万尋さんは四十ですね」
言い慣れた皮肉に、二人はくすくすと笑う。唯一の隣人は、よき友人でもあった。
「ぼくも、すてきな紳士が現れたら放っておかないのですけどねえ……」
万尋は男を、珊瑚は女を……昨今では取り立ててめずらしいことでもない。二人の会話に驚く者も目くじらを立てる者もあまりいないだろう。
世界的に人の数が減りはじめたのは、いつのころだったか。今より何世代も前、歴史の教科書に載るほど昔であることはまちがいない。そのころから、人類の遺伝子は無意識のうちに少しずつ生殖への興味を失いはじめたのだと言われている。
因果関係は解明されていない。だが客観的な事象として、ゆるやかな人口の減少とともに、異性との交合を望まない人々は増加していった。衰退に悩む国家にとっては忌々しい存在だが、彼らは今や世界の半数近くを占めていて、好むと好まざるとに係わらず、社会の側もそれに対応せざるをえないというのが実情だった。
万尋は生まれてこの方、異性に惹かれたことはない。異性と結ばれなければならないという意識も、疑問や葛藤さえ抱かない。珊瑚もそうだろう。男が男を選び、女が女を愛することが罪だったのは、二人にとっては有史以前の話だ。
だが現実は男も女も年寄りばかり。もちろんこの町にもいないわけではないが、若者がこの空間を訪れることはめったにない。
ほら、またドアが開き、老人が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
その老紳士は、常連客の一人だった。
いつもの珈琲とお気に入りのホットケーキを注文したあと、紳士は背筋を伸ばして壁の書架を見上げた。近くの席に座っていた珊瑚が声をかける。
「よかったら、お取りしましょうか」
自分よりも頭ひとつぶん背の高い娘に話しかけられ、老人はうれしそうに微笑んだ。
「いつもありがとう、のっぽのお嬢さん。ではあの上の……黒い背の本を取ってくれないか。そうだ、その鉱物図鑑だよ」
珊瑚は小柄な老人の代わりに、上の棚から本を抜き出して手渡す。老紳士は彼女を自分のテーブルに招き、どこか自慢げな顔でゆっくり本を開いた。
「わぁ、きれい!」
ページの中から、いびつな石の塊が乳白色の鈍い光を放ちながら浮かび上がる。
「原石の美しさがわかるとは、見所のあるお嬢さんだ」
彼は自分が褒められたかのような顔でページをめくった。今度は青天の色をした鋭利な結晶体。石の屑がきらきらと舞い落ち、ページの中へ消えていく。
「すてき……」
万尋が二人ぶんの昼食を持っていくまで、老人は珊瑚相手に鉱石の蘊蓄を語っていた。
若い人間が少ないのはこの店に限ったことではない。万尋や珊瑚の存在自体が、ここを訪れる人々にとっての気晴らしになっているのかもしれない。
つづいてやってきたのは、白い髪を品よく結い上げた老婦人。少し耳が遠いものの、メニューを指さすことでやりとりは済む。頻繁に本を読みにくるが、珈琲を頼むようになったのは万尋が来てからだと夏生が言っていた。
彼女のように、珈琲が気に入って通っているという客もわずかではあるが増えてきた。本の添え物としては、上々の評判と言えるだろう。
一階の厨房に戻った万尋は、普段どおりサイフォンの前に立つ。
暖色の光が、フラスコを下から照らし出している。このサイフォンは炎ではなく光を使って珈琲を抽出するのが特徴で、沸かしているさまは大きな電球のようだった。沸騰した水がガラス容器の中を駆け上がり、そして褐色に染まってまた下りてくる。
子供なら愉快な実験に歓声を上げるところだろうが、一日に何度も同じ操作をする万尋はもちろん、本を読みにきた老人たちも、このささやかな演出に目を奪われることなどほとんどない。その巨大電球は、店の照明とさして変わらない設備として、そこに存在している。
昼下がりの客足も完全に途絶えたころ、長い昼休みを店で過ごした珊瑚が、入ってきたときより明るくすっきりした顔で階段を上がってきた。
「これからお仕事ですか。がんばってくださいね」
「ええ、修理依頼が増えてますからね、のんびりしていられません」
ここまでののんびりは、これから夜にかけて取り戻すのだろう。
「忙しいのですか?」
「近ごろ急に寒くなったせいか、銃の手入れが多いんです。金属も機械油も、低温には弱いですから」
華やかな顔立ちと人懐っこい性格とは裏腹に、彼女の本職は工房にこもりきりの職人だった。機械仕掛けの道具を作ったり直したりする。懐中時計から、専門的な用途の銃まで。
「万尋さんも、銃の手入れは早めにしておいたほうがいいですよ」
「ぼくは銃を持たない主義です」
にっこりと笑って万尋は答える。
一般に流通している護身用の銃は単なる目眩ましがほとんどだし、銃の携帯は家に鍵をかける程度の安全対策だともわかってはいたが、それでも使わないに越したことはない。
「そうでしたっけ……首都から来た人とは思えない言葉だなあ」
「なおさらですよ。ここは首都よりずっと安全ですから」
たしかにね、と彼女は笑い、自宅兼工房へと戻っていった。
珊瑚は工房に、夏生は外へ出かけ、そしてこの吹き抜けの空間を取り仕切るのは万尋一人。いつものことなのだが、今日はなんだか心細く感じた。寒さのせいだろうか。
再び、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
丸眼鏡をかけた、背の高い男が入ってくる。めずらしく老人ではない。
万尋はカウンタから出ようとして、はっと立ち止まった。
少し彫りは深いが端正で知性的な顔立ち。近くまで来ても、万尋と目線が変わらない長身。上品な黒い帽子と外套、小さな革のトランク。
まさか、彼は……。
「……こちらへ」
動揺を隠して、階段へと案内する。
コートを脱ぐと丈の長いジャケットが現れた。乱れのないリボンタイ、ベスト、カフスに至るまで几帳面な装い……。まちがいない。それは、首都に本部をかまえる中央図書館の制服だった。
「司書はいないのですか」
自らが司書の制服を着た男は、注文よりも先にその点を訊ねてくる。
「ええ……あいにく出ておりまして」
「そうですか、お忙しいのですね」
同じ司書として状況を察したらしい。彼はメニューを一瞥し、迷わず「おすすめ」を選んだ。
「オリジナルブレンドを」
「……かしこまりました」
耳に優しい、深いハイバリトン。かすれたテノールの万尋とは全くちがった、落ちついて艶のある声。目元の皺は増えた気がするけれど……。
階段を上りながら、万尋は知らず胸を押さえていた。
もう、十年ほど前になるだろうか。
首都の大きな喫茶室で働いていたころ、月に一、二回やってきてはカウンタ席で煙草を吸っていた男がいた。堅苦しい図書館の制服に身を包み、いつも何かしら本を手にしていて、常に一人でカウンタの端に座る。カウンタの中で珈琲を淹れていた万尋からは、そんな彼の姿がよく見えた。
やけに印象が強くて覚えているが、なぜ首都の司書である彼が、この町にいるのか。
まず真っ先に、夏生が呼んだ司書だと考えてすぐに打ち消す。彼女は代理が来るのは来週と言っていた。そもそも、彼は夏生の不在の理由を訊ねた。
彼が万尋を覚えている様子もなかった。当然だ、大勢いる従業員の一人などその場の記憶にも残らないだろう。万尋があの店を辞めてからもう五年になる。彼があのころより歳をとって現れたように、万尋も同じ齢を重ねている。
彼がページをめくるたびに、鮮やかな緑の葉が飛び出して蔦がテーブルに伸びていく。蕾がふんわりと開いて鮮やかな色を見せ、色づいた葉がテーブルの上に散っては消えた。
当時と変わらない姿で、煙草をくわえながら静かに本を読んでいる。万尋は一階の厨房でサイフォンの前に立ち、その姿を眺めていた。……あのころのように。
「美味しかった。また来ます」
一時間ほど読書に耽った男は、レジスタの前で穏やかな笑みを向けてくる。やはり万尋のことなど覚えていないのだろう。わずかな胸の痛みを無視し、こちらも笑顔を返す。
「ありがとうございました……」
彼が支払を終えたとき、ちょうど扉が開いた。
冷気とともに、襟を立てた小柄な青年が入ってくる。キャスケットとニッカボッカという軽装ながら身ぎれいな出で立ちから見て、新米記者かもしれない。近くには新聞社も出版社もある。
青年は出ていこうとする男を見るなり、はっと息をのんだ。知り合いだろうか、と万尋は思ったが、司書のほうは怪訝そうな目を相手に向けただけで、さっさと出ていってしまった。
「いらっしゃいませ」
「あっ、はい!」
なぜかあわてたように青年はこちらを向く。帽子のつばが影を落としていて、かけている眼鏡にも色が入っているから顔はよく見えなかったが、ずいぶんと幼く見えた。
脱いだコートを受け取って、自分のまちがいに気づいた。彼ではなく彼女だったのだ。化粧っ気はないが、よく見れば帽子に長い髪を押し込んでいるのがわかる。白いブラウスに幅広のサスペンダーがより幼さを強調していた。
男装の娘は落ちつかない様子であたりを見渡しながら椅子に座る。テーブルにメニューを置いたが手にも取らず、万尋を見上げた。
「あのっ……今、出ていった人は……」
なにを知りたいのか。しかし問われたところで、万尋はなにも答えることができない。
「初めていらしたお客さまです。お知り合いですか?」
「いえ……いえ、別人でしょう」
自分に言い聞かせるように彼女はうなずき、やっとメニューに手を伸ばした。
「あの、紅茶を……」
「かしこまりました」
奇妙な娘のことは、しかしすぐに意識から追い出された。夏生の不在さえあやうく忘れそうになっていた。
ただ、その一方的な再会のことばかりが、頭から離れなかった。
店じまいをし、掃除を終えて鍵をかけ、二階の自宅へ戻る。
隣室の珊瑚はきっと仕事中だろう。仕事をしていないときには、万尋が店を閉めるのを見計らって夕食の誘いに来る。といっても作るのは大概、万尋だが。三階の夏生にも声をかけ、にぎやかな夜になることもある。
それも、しばらくはなさそうだ。そう思いながら、万尋は質素な夕食の用意をはじめた。
首都にいたころは、ずっと一人だった。店の同僚とも友人づきあいなどなかった。
毎日が、自宅のある団地と店の往復だった。店でまかないが出なければ、食事も一人があたりまえ。
ごく稀に人恋しくなると、夜の街へ足を向けることもあった。しかし退廃的で自棄すら感じる繁華街のぎらつきは、諦念を伴う黄昏に慣れきった身には眩しすぎて、一度行くとしばらくはその気がなくなる。そんな日々をくり返していた。
苦しくもなければ疑問にも思わなかったが、いつのまにかその男の来店を心待ちにするようになったのは、やはり心が乾きはじめていたせいだろうか。
首都の中心地は田舎ほど老人ばかりというわけでもないから、彼だけが特別に若かったのではない。それに場所柄、目を奪われる美人や大物ならいくらでもいた。
殊更に華やかでもないその司書が気になりはじめたのは、ほんとうに些細なきっかけだった。
その日の彼は、他の常連客と同じようにメニューも店員の顔も見ず珈琲を注文してから、煙草と本を取り出した。しかし万尋がカップを持っていったとき、煙草の箱は封も切られていなかった。その目は開かれた本に向けられているようで、しかし一度もページをめくっていない。触れるどころか視線すらもらえないカップから湯気が消えても、彼は思いつめた表情のまま、彫像のようにただその場にいた。
客の様子など、自分の仕事に関わらなければ立ち入りたくはないし、立ち入ってはいけないとも心得ていた。だが嘆息すら洩らさず、心をどこかへ飛ばしてしまった男の姿が、どうしても気になって仕方がない。
万尋は頼まれてもいないのに、新しく珈琲を淹れなおして冷めた珈琲と換えた。ささやかなおせっかいに気づいた客は、戸惑いながらも笑みを浮かべた。小さく「ありがとう」と呟いて。
今にも泣き出しそうなその笑みは、今まで客から向けられたことのない表情だった。
彼とのやりとりは、それが最初で最後だった。
常連とはいえ、毎日や毎週ではない。まったく不定期に、忘れかけたころ彼はやってくる。長い指が煙草に、本に触れ、そしてカップをかたむけるのを、気づかれないように観察する。万尋の淹れた珈琲を口にした彼の表情がわずかにやわらかくなるのを見るだけで、うれしくてたまらなくなる。
恋というにはあまりにも淡く、かたちを成すこともなかった感情だけれど。
万尋は頭にかかった靄を払うつもりで、大きく首を振る。今日はどうも調子がおかしい。
朝から夏生の急な旅立ちで不安になっていたせいだろうか。それとも久しぶりに故郷の首都を思い出させる存在と出会って、感傷的になってしまっただけなのか。その両方かもしれない。
夜更けだというのに外から声が聞こえた。
窓を開けると、道を挟んで立っている電信柱が囁き合っている。こんなさびしい夜には、寡黙な無機物たちも口を開きたくなるのだろう。
暫し耳をかたむければ、彼らは愛の言葉を風に乗せて送っているようだった。せっかくつながっているのだから、電線を使えばいいのに。そう思いながら万尋は静かに咳払いをし、わざと音を立てて窓を閉める。
外から入り込んできた冷気に肩をすくめ、オイルヒータの近くに寄った。
窓の外では、まだ電信柱が恋を語っている。隣人として煩わしくはあるが、雨が降ろうと雪が降ろうと彼らは寄り添うことさえできない。そう考えると、少しだけ哀れになった。
だが、自分は電信柱となにがちがうのか。あのころも今も、カウンタを挟んだ距離から近づけていない、この自分は。
2.プレアデス商会
週に一度の定休日には、珈琲豆を仕入れに車を出す。
寒冷地仕様の頑丈そうな輸入車は、本来は夏生のものだった。しかしバスもそれほど頻繁には通らないこの町で暮らすために車は不可欠だと言って、彼女のほうから万尋に使用を許してくれた。おかげで重い珈琲豆の袋も自分で買いにいけるのだからありがたい。毎日店から一歩も出ずに過ごしているからこそ、たまには車に外へ連れ出してもらいたくなるというものだ。
珈琲豆を卸している店は町にひとつしかない。だがそれが、首都でも見つけるのが難しい、好みの焙煎をしてくれる店だったのは助かった。今では万尋の意向を理解し、季節に合わせて豆を提供してくれる。
古い町屋が並ぶ通りの一角に、「プレアデス商会」は店をかまえていた。
このあたりの家がだいたいそうであるように、表は店で、裏手は自宅になっている。ここは子供と祖父母合わせて七人家族で、なかなかの大所帯だった。
その家のほうが、今日はなにやらざわついているようだ。表にトラックが停まっていて、なにかを運び出している様子でもある。
ごめんください、と声をかけ、暖簾を持って出てきた店主の昴(すばる)に訊いてみた。
「お引っ越しですか」
「いえちがうのよ。うちのひいじいさんが、この前死んだでしょう」
昴は、控えめにいうと安定感のある体型をした女だった。万尋より年嵩に見えるが、ほぼ同い年だとわかったせいなのか、今では家の離れたご近所さんといった間柄になっている。
「ひいおじいさんというと、たしか、大学の先生でしたね」
会ったことはないが世間話で聞いてはいたからなんとなく知ってはいる。正確には昴の祖父なのだが、母親は子供の視点で家族を呼ぶものだ。
「先生だったのは四半世紀も前の話だけどねえ。葬式のあともいろいろ忙しかったから、ようやく今、長いこと放っておいた書斎を片づけることになったの。古い本は危ないっていうから、古本屋を呼んだんだけど……書斎の戸を開けることなんかめずらしいでしょう。いつのまにかうちの子がもぐり込んでいたらしくてねえ……」
「まさか、古書にやられたのですか」
大量の蔵書がある書斎には、時折「危険な本」がひそんでいるという。さまざまな噂が飛び交い事実は曖昧になっているけれど、手にした人間が意識を失い目覚めなくなってしまう、というところまでは、広く知られている。
昴は務めて普段どおりの泰然とした態度でいるが、それでもそわそわと前掛けを着けたり外したりしている。
「もうすぐ司書さんが来てくれることになっていて……悪いけど豆はそのあとでもいいかしら」
「ええ、もちろんです。出直しましょう」
今まさに臨時休業の札を出し、暖簾を下ろそうとしている店先で待つのも、あまり礼儀正しい行動とはいえない。だが昴は万尋を帰してはくれなかった。
「いえね、巻き込んで悪いんだけど、万尋さんも見ていってくれない?」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。
「しかし、私は部外者ですから……司書の方のおじゃまに……」
「古書閲覧室で働いてる人は部外者じゃないわ。それにうちの馴染みだし、関係者みたいなものよ。あたしもこういうの初めてだから、知ってる人に立ち会ってほしいの」
「はあ……」
たしかに、あの本棚に入っているのは全て「かつて人に害をなした本」だと聞いている。だがそれはつまり、すでに夏生の手によって「無害化された本」でもあるのだ。そうなるまでの経緯を万尋は全く知らない。
そんな自分がいてもとは思うのだが、世話になっている彼女が安心するというのなら、しいて断る理由もなかった。
請われるまま、奥の間へとついていく。中庭が静かなのは奇妙な感じがした。いつもは子供たちが彼らの祖父母に見守られながら、庭木のどんぐりと遊んでいるのだが。さりげなく窺ってみると、騒がしいどんぐりたちも木陰や草陰でじっと息をひそめている。今日ばかりは、せいくらべで揉める気にはなれないらしい。
布団の上に横たわっているのは、小学生の男の子。長男の稲見(いなみ)だった。他の家族はここに近づかないように言われているのだろう。稲見の祖父ではない、見知らぬ老人がいるが、書斎の整理をするために呼ばれたという古本屋にちがいない。何度も自分の不手際を詫びている。
やがて、昴の夫が「司書」を連れてやってきた。
「公立図書館からまいりました、吉野と申します」
聞き覚えのある声に、万尋は目を見開く。
「あ……」
丸眼鏡に丈長のジャケット。脇にコートを抱えトランクを提げているのは、先日店にやってきたあの司書だった。相手も気づいたようで、わずかに眉を上げる。
「どうも……」
わけもわからず、会釈をし合う。
首都にある中央図書館の司書が、なぜこんな田舎の書斎の始末に呼ばれているのか。本人に直接訊ねたかったが、今はあいにくそれどころではない。
「稲見は、息子はどうなるんですか。問題の本も見つからないんですよ」
吉野と名乗った男は少年の傍らにひざをつき、小型のトランクを開けながら答えた。
「息子さんは今、覚めない夢を見ている状態です。心が起きないかぎり身体も起きることはありません」
「それは、つまり……」
父親がうろたえて訊ねた。対して、吉野は少しも動じていない。
「心を本に取り込まれたのです。その本は息子さんの中に取り込まれている。私の仕事は、彼の中から本を取り出して、彼の心をこちらの世界に引き戻すことです」
トランクの中から厳つい銃が出てきたときには、古本屋以外の全員が息をのんだ。銃身がやたらと太く長く、縦に平たくなっていて不格好に見える。銃を持たない万尋ばかりでなく、この場にふさわしくない存在だと皆が思った。
革の手袋をはめて銃弾を装填しているあいだにも、彼は穏やかな声で説明をつづける。
曰く、この銃は殺傷能力があるものではなく、先ほど語った作業をするために必要なのだと。これからこの少年に向けるが、心身ともに損傷を受けることはないので安心してほしい……。
「ご心配なく。すぐですから」
家族に控えめな笑顔を向け、跪いたままの吉野は色のついた丸眼鏡を軽く押し上げ、少年へ銃を向けた。
「!」
銃口から放たれた、一瞬の閃光に目がくらむ。
目を開けると、吉野がわずかによろめいて布団に手をつく。手には一冊の本を持っていた。
「……終わりました」
すぐ、の言葉どおりだった。しかし直前の彼と比べて、ひどく疲れた顔をしている。
だが吉野の些細な変化より、皆の注意は横たわっている子供に向いていた。
「ん……」
それまで寝返りどころかまぶたさえ微動だにしなかった少年が、まるで今まで眠っていたかのような様子で目を開ける。
「稲見!」
「だいじょうぶかい!」
少年は呆然と両親の顔を眺めた。息子を抱きかかえようとする親たちを手で制し、吉野は少年に話しかける。
「クラスメイトは、何人かな?」
唐突にしか思えない問いに、稲見はすぐ答えた。
「十五人」
「ほんとうに?」
「ううん……十四人だ。転校生はいない」
「そうだね」
司書はほっと息をつき、両親に「もうだいじょうぶ」と目くばせをした。昴は今度こそ息子を抱きしめる。
「しばらく、夢と現実が混乱することがあるかもしれません。落ちついて優しく、現実ではどうなのかを本人に認識させてください。後遺症がひどいようならもう一度我々へ連絡を」
「ありがとうございます」
父親が何度も頭を下げている。
稲見少年は助かったようだ。外野ながら胸をなで下ろした万尋は、仕事を終えた吉野を見やる。いや、どうやら、作業はまだ終わっていないらしい。
吉野は少し前まで持っていなかった、この部屋に存在していなかった本を机の上に置き、慎重な手つきで裏表紙を開く。
そこには小さな紙片が貼りつけてあった。それが本の所有者を示す蔵書票というものであることだけは、万尋も知っていた。夏生が古書閲覧室であつかっているのを目にしたことがある。今、吉野が手にしている本の場合は、稲見の曾祖父が貼りつけたということになる。
吉野はトランクから名刺入れのようなものを出し、そこから一枚の紙を引き抜いて、蔵書票の上にあてがう。初めて目にする作業に、万尋が固唾をのんで見守っていると、彼は例の銃に新しい弾をこめ、銃口を紙片の真上に当てた。
かすかな閃光が銃口とページの隙間から洩れる。彼が銃を下ろしたときには、古い蔵書票の上に新しい蔵書票が、少しの浮きもなく貼りつけられていた。
さっきまで部屋の隅から不安げに眺めていた古本屋が、そこで初めて吉野に近づく。彼らは低い声で専門的な会話を交わし、やがて心得た顔でうなずき合った。問題の本は、吉野が引き取ることになったらしい。
古本屋が書斎へ戻っていってから、万尋は彼に近づいた。
「顔色が優れないようですが、だいじょうぶですか」
こちらを見返す表情が精彩を欠いている。彼は弱々しく微笑んで首を振った。
「平気です」
そうは言うが心配だ。このまま別れてしまうことへの名残惜しさもある。
ちょうど昴が皆さんお茶でもと言い出した。子供が助かって安堵したのだろう。万尋は手伝いを申し出て、それならば本職にまかせる、と昴も快諾してくれた。珈琲豆をあつかっているだけあって、この家にはミルにドリッパにとたいていの器具がそろっている。当然、いい豆も。
自室でおとなしくしていた幼い弟妹たちも、祖父母に付き添われて顔を出す。そこで万尋は、その場にいる大人たちそれぞれの好みに合わせて珈琲を作った。子供たちにはミルクと砂糖多めのカフェオレを。稲見はまだどこかぼんやりしているが、温かい飲み物で少し目を覚ましたようだった。
子供三人、大人四人の家族に加え、仕事でやってきた者が二人、そして客のはずが臨時喫茶室を開いている自分を入れて、十人が客間に集まっている。首都で働いていたころ、会合やパーティに出張しての仕事もあった。しかし、こんなアットホームな場は覚えがない。
「少しは、よくなりましたか」
吉野に囁くと、彼はにっこりと笑い返してくる。自分が彼の血色を取り戻したのだと思うと、無性にうれしかった。
「古い本なんかさわっちゃいけないって言っただろう。すぐに司書さんが来てくれなかったら、どうなっていたか……」
すぐ横で、祖母が孫に説教をしている。吉野は控えめにそのあいだに割って入った。
「本との出会いは巡り合わせです。彼はあの本と出会うことが決まっていた、でもたまたま取り込まれてしまっただけなのですよ。古い本でも、全てが危険なわけじゃない……責めないであげてください」
そして、稲見に向かって声を和らげる。
「図書館へおいで。古い本でも安全に読めるから」
少年は黙ってうなずいた。本など二度と触れたくない、という様子ではなかった。
テーブルの向こうで、末っ子がカップをひっくり返す。親たちの意識はそちらに向かったが、むだに手が多くても困るだろうと思い、万尋は布巾だけを渡して吉野の隣に座っていた。
「初めて見ました。本を取り出すのって、一瞬なのですね」
ほんとうに、なにが起こったかわからなかった。何度も現場に立ち会っている老いた古本屋でさえ、理屈はわかっていても常に不可思議に見えるのだという。
吉野はカップを置き、小さく息を吐き出す。
「他人には一瞬に見える……でも実際は、対象の心の中に入り込んで元凶の本を追っているんです。数分のことも、何日かになることもある。今回は、一日ほどかかりました」
「そんなに!」
彼は腕時計を万尋に見せる。
「これが、夢の中にいた時間です。といっても、わかりませんね」
針が一本しかなく、時刻を知ることはできない。文字盤にも温度計か気圧計に似た小さな計器がついているが、やはりなにも読みとれない。ただ彼がひどく疲れている理由はわかった。
夏生はむやみに自分の仕事を見せなかったが、初めて知る司書の「外仕事」は、思った以上にたいへんそうだった。
プレアデス商会に騒がしい日常が戻ったところで、古本屋は本を運び出す作業を思い出し、昴は万尋に売らなければならないものがあることを思い出し、そして吉野は公立図書館へ報告に行かなければと立ち上がった。
あわただしく動きはじめる昴たちの代わりに、彼を表まで見送る。
「よかったら送りますよ」
自分が乗ってきた車を示すが、彼は軽く手を振った。
「ありがとう。また店へ寄らせてもらいますよ、万尋くん」
互いの名前を知り、店以外の場で打ち解けた雰囲気になれたのはよかったけれど。
そろそろバスが来るからと、足早に去っていく背中を未練がましく見つめる。せっかく話をすることができたのだから、気になっているあれこれを世間話にでもして訊いてしまえばよかったのに。
次はいつ会えるかと、訊ければよかったのに。
「……………」
なんとなくその場を離れがたく立ちつくしていると、横を通りすぎていく者があった。
その後ろ姿は、先日店にやってきた男装の娘だった。
あのときは吉野を見てなにか驚いたようだったけれど、今は吉野を尾行しているかのようだ。偶然ならばよいのだが。もしあの服装どおりに記者だとしたら、なにを取材しているのだろう……。
彼女の挙動が妙に気になって後を追おうとしたとき、店の中から声をかけられた。
「はい、お待たせ!」
昴が丸い顔に満面の笑みを浮かべ、たくましい両腕に袋を抱えて待ちかまえている。その日の珈琲豆は、普段より多めに入っていた。
3.甘い鳥
中央図書館の裏手に店をかまえるその喫茶室は、常に静かなざわめきに満ちていた。
広いホールには、正装かあるいはさまざまな制服……もちろん襟つきの……がソファに身を委ね、ときには個室で密談をしている。
この近辺に固まっている省庁や国営施設の職員、時々は議員なども、休憩か打ち合わせにこの店を利用していた。値段相応の珈琲には、提供側にもそれなりの技術が要求される。
店の自慢は、炎の代わりに光を使うサイフォン。七つ並んだサイフォンは幻想的に光を放ち、珈琲の抽出過程をショーへと変える。だからサイフォンは厨房の奥ではなく、客からよく見えるカウンタに置かれていた。
忙しい時間には、七つ全てを同時に、しかも正確な時間であつかわなければならない。だからこそ、その前に立つことは店の者の憧れでもあった。万尋も例外ではない。
中学を出たばかりの万尋がその店に雇われた理由は、運が大部分を占めていたかもしれない。職人気質の焙煎士に連日頼み込み、裏方の雑用として雇ってもらった。給仕をするようになってから何年かして珈琲の淹れ方を教わり、二十代の半ばには、ベテランの店員と遜色ない珈琲が淹れられるようになっていた。たったひとつの懐中時計で七つ全ての珈琲を正確に抽出する技術も身につけた。
三十を過ぎて、他の店から引き抜かれてきた店員たちともさほど変わらない貫禄がついてきたころ、転機は唐突に訪れた。
その日も万尋は、サイフォンの前で背を伸ばして店内を見渡していた。客の注文にすぐ気づいて、給仕を向かわせるために。だが客の少ない時間ということもあり、店内の空気は動かない。
カウンタ席には、年取った女の客が一人きり。心待ちにしている司書の彼は、もう半月も見ていない。
思わずつきかけたため息を、すんでのところで飲み込んだ瞬間、カウンタ席の女が声をかけてきた。
「ちょいと、そこのお兄さん。この珈琲はあんたが淹れたのかい」
「はい……なにか不手際がございましたか」
厳選された豆と水でどれほど丹念に作っても、良し悪しを決めるのは個人の味覚だ。客の舌に合わないこともある。少し緊張して彼女の正面に移動すると、老婆は化粧の濃い顔でにやっと笑ってカップに口をつける。
「いや、美味いよ。大昔、あたしが兄さんくらいの歳だったころにここで飲んでたのと同じ味だ」
「……恐縮でございます」
この店ではあまり聞かない、蓮っ葉なもの言いだった。しかし品がないというのではない。どこか地方の訛りが入っているようにも聞こえる。
卑しく感じられないもうひとつの理由は、妙に上品な服装だった。化粧さえ薄ければ、きつく結った灰色の髪と黒いドレスは教師といっても通じる。赤い編み上げ靴はこのとき、カウンタを挟んだ万尋からは見えなかった。
謎の老婦人は煙草の煙を吐き出し、万尋との会話をつづけようとする。
「兄さん、寒いところは好きかい?」
「はい?」
脈絡のない言葉に戸惑い、つい接客を忘れる。しかし彼女はそんな万尋の態度など気にしていなかった。
「うちにもそれと同じ機械があるんだがね。そいつを使ってた年寄りが引退しちまって、珈琲淹れる人間がいないんだよ。どうだい、うちに来ないかい」
それ、とは光サイフォンのことらしい。首都では他にあると聞いたことはないのだが。
「……どちらのお店でしょう」
「いいや、古書閲覧室さ」
「はあ……」
乱暴なスカウトもあったものだ。
店を利用する代議士や大学教授から、個人的に雇いたいと言われたことは何度かある。珈琲の味がどうというよりは、万尋の若々しい外見が理由の大半だったが、彼女もそのクチだろうか。どちらにせよ、客の世間話を真に受けたことはない。
曖昧な接客用の笑みを浮かべ、店員として彼女の雑談につき合うことにした。今は客が少ないが、そのうち注文が入るか奥から呼ばれるかして話を中断できるだろう。
老婆は新しい煙草に火をつける。
「あたしの町はね、寒いよ。人もいない。いても年寄りばっかりさ。うちの利用者だって一日十数人、暇すぎて居眠りに忙しいくらい。時が止まったみたいに、なにも変わらない。そんなところで地獄のように熱い珈琲を飲むのは格別でね」
いいところがなにもない、ように聞こえる。
首都もそれなりに寒くなっているし、平均年齢は年々上がる一方だが、少なくとも人間はうんざりするほどいる。そして人の流入に応じて風景も日々変わっていく。万尋が幼いころを過ごした家も、若いころに住んでいたアパートメントも、今は全くちがう施設に変わっているはずだ。
「ぼくは……首都から出たことがないのです」
聞いているだけのつもりが、ついそんなことを言っていた。それを聞いた彼女はにんまりと魔女のように凶悪な笑みを浮かべたが、その理由は後々思い返してもわからない。
「その気になったら、ここに連絡をおくれ。留守にしてるかもしれないが、朝か昼か夜、いつかはいるよ」
電話番号と住所を紙ナプキンに書きつけ、その老婆は勘定に向かった。
万尋はあっけにとられたまま、「ありがとうございました」と頭を下げることさえ忘れて、その走り書きに目を落とした。
名前も聞いたことがない北の町。
古書閲覧室といえば、中央図書館直轄の分室的な存在だと聞くが、資格を持った司書さえ置けば厳密な形態は問わないらしい。飲食店や雑貨店と一体化しているところも多く、書架と店舗の比重も重要度もその場しだいなのだという。
今の安定した生活を手放して、そんな得体の知れない誘いを受けるように見えたのだろうか。破格の値段で万尋を「買う」と申し出た代議士もいたというのに。こんなメモだけで遠い町まで呼びつけるなど、年寄りの世迷い言もいいところだ。行ったこともない北の地に、魅力も興味も持ちようがない。万尋は苦笑し、ナプキンをポケットにねじ込んで仕事に戻った。
それからわずか一週間後、万尋は休暇を取ってその町を訪れた。
駅舎を出たとたんに切りつけてくる冷気は、息をするだけで肺を凍らせ、厚い手袋をした指はすぐに感覚がなくなる。町を覆う雪はひどく重たげで、歩道も車道もスケートリンクの上を歩くような危うさだった。
日曜の駅前だというのに行き交う人もまばらで、並ぶ店も首都の活気には到底及ばない。頭上に迫る曇天も相まってひどく陰鬱な町に見える。たしかに、いいところはなにひとつ見つからない。
なんとかタクシーを捕まえて紙ナプキンの住所へ辿りついた万尋は、夏生の代わりに留守番をさせられている若い女と出会う。珊瑚と名乗った彼女に、ひどく不味いインスタントの珈琲を飲まされた。首都の店とたしかに同じ型のサイフォンは、埃をかぶっていた。
なぜだかとてもおかしくて、笑い出してしまった。
珈琲の淹れ方を知らないその娘とはすぐに打ち解け、この寒い町の愚痴を山ほど聞かされた。職人であるという彼女は、一時期首都で学んでいたこともあったそうだが、修業期間が終わるとすぐにこの町へ戻ってきたという。これだけ悪口が出てくるのに、首都で生きるという選択肢はなかったらしい。
そして万尋は、帰ってきた夏生にその場で店を引き受けることを告げたのだった。
首都の店を辞めれば、もう二度とあの彼とは会えないだろう。だがそれでいい。無用なサービスをしたのはあの日、ただ一度。それからずっと、声もかけず彼の姿を目の端に置いていただけだ。彼のほうも、一度愛想を見せただけの店員など他の給仕と区別していないにちがいない。
彼もいつかは喫茶室に来なくなるだろう。そうなってもただあの場に立っている自分、というのはぞっとしない想像だった。
北の魔女は、出会った瞬間から万尋の心を見抜いていたのかもしれない。なにしろ、司書は人の心に入り込めるというのだから。
火の入っていない竈の中に、猫がうずくまって寝ていた。あいかわらず煤まみれだ。
「そこで寝ないでと何度言えばわかるんです」
猫はあくびをひとつしてから、申しわけなさそうに頭を下げて答えた。
「すみません、暖かいもので。ああ、早く出勤しないと」
万尋の腕の下をするりと抜けて厨房を出ていく。
拭いたばかりの床に黒い足跡がついているのを見やりながら、いったいどこへ出勤するというのだろう、と考えた。明日も竈に入っていたら訊いてみようか。いや、その前にここで寝るのを禁止しないと……。
その日は奇妙な日だった。常連の老人たちはおらず、代わりに今まで見たことのない若い客が何組か来ていた。近くで催事があるなどという話は聞いていないのだが。
とくに目を引いたのは、二人で連れ立ってきた青年……いや少年といっていい。二十歳にもなっていないであろう若者たちだった。
一人は見るからに上等な生地のジャケットを着ているが、もう一人は綻びた作業着をまとっている。袖にインクの染みがついているところを見ると、印刷所の植字工だろうか。育ちがよさそうな連れと関わりがありそうには見えない。
それでも大層仲が良いのだろう。肩を寄せ、星座の本を開いては楽しげに囁き合ってくすくす笑っていた。ページをめくるたびに星が瞬き、光の屑が舞い上がる。
活字のあいだをすっと流れた彗星を栞にして、一人が万尋を呼んだ。甘いものがほしくなったらしい。
「雁をもらおうか」
「ぼくは、鷺を」
その菓子は、近ごろこの店の人気メニューだった。珈琲も、甘い鳥の味に合うよう豆の配合を変えている。
「かしこまりました」
皿の上に平たくなった鳥を重ねる。
菓子を持って下りていくと、二人は先ほどより身を寄せ合い、互いの目を見て真剣に語らっていた。
「汽車はいつ出るの」
「もうすぐだよ。今にでも行けるさ」
どちらも軽装で、旅行に出かけるようには見えない。だが彼らがこれから汽車に乗り込むことを、万尋はなぜか確信していた。そして二度とこの町に戻ってこないであろうことも。
皿を置いて離れると、彼らはそっと手を取り合って、指を絡める。
「ぼく、少し怖い気がする」
「だいじょうぶ。ずっと、終点までいっしょだから」
階段を上りながら彼らを見やった万尋は突如、足下が崩れ落ちていきそうな不安を覚えた。彼らの前途にではない。万尋自身に。
急に自分が年嵩で老いているように感じられ、彼らのような身軽さで汽車に飛び乗ることなどできないという現実を思い知らされた気がした。
あの日、北の魔女に誘われるまま汽車に乗ってこの地を訪れた理由は、いったいなんだったのだろう。それほど昔でもないはずなのに、なぜ今はできないと思ってしまうのか。いや……なぜ今、この地から汽車で飛び出していきたいと考えている?
何年もこの土地から出ずに、不自由だと感じたことなどなかったのに。汽車に乗りたいなどと思ったこともなかったのに。
甘い鳥をかじりながら小声で笑い合う少年たちが、無性に羨ましく妬ましくさえ思えてきて、そんな自分の感情におののいた。
「どうしたんだろう……」
レジスタの陰にしゃがみこみ、息を整える。
こんな感情は、初めてだ。珊瑚と二人で若者だ年寄りだとからかい合っているときも、全て冗談でしかなかったのに。
入り口のベルが鳴り、はっと顔を上げる。
「いらっしゃいませ……」
また若い客だった。
今度は女性。陶器人形と見まごう愛らしい顔立ちで、栗色の髪が肩にゆるやかな波を描いているさまも美しい。煉瓦色のスカートがコートの裾から覗いている。川向こうにある公立図書館の制服だった。
別の客が持ち込んだチェロのケースにつまづきそうになりながらも、彼女は興味深そうに店内を見わたしていた。
注文の珈琲と鳥菓子を持っていくと、彼女は万尋をつかまえて目を輝かせる。テーブルの上にはすでに数冊の本が置かれていた。
「こんなに充実した古書閲覧室は初めて見ました!」
「……ありがとうございます」
驚いている万尋に少しきまりが悪くなったのか、彼女は両手をひざの上にそろえて行儀よく座りなおす。
「わたくしは公立図書館に勤めております、翠(すい)と申します。吉野先生にはいつもお世話になっております。こちらに古書閲覧室があると先生から教えていただいたもので」
「ああ……吉野さんのお知り合いでしたか」
知り合いの名が出てくると、それだけで親近感がわくものだ。
「あの、司書の方はどちらに……」
やはり同業として気になるところは同じらしい。例によって曖昧な答えでごまかす。万尋をここに連れてきたのは夏生なのに、その本人がいなくなって自分だけが苦労しているというのが釈然としない。今さらながら夏生への恨み言が浮かんでくる。
「吉野先生は、よくいらっしゃるのですね」
「いえ……ええまあ……」
さらに曖昧な返事になってしまった。彼が店に来たのは一度だが、彼女がなぜか確信的な口調なのと、店の外で珈琲をふるまったことも勘定に入るのか迷ったからだった。
翠は品よくカップを口元に運び、一口飲んで微笑む。
「ここの珈琲をいたく褒めていらしたから」
「……!」
じわじわと赤くなる顔を隠すように頭を下げ、彼女の前から逃げ出した。その場でどういうやりとりをしたのか、階段を上りきったときには覚えていなかった。自分自身に好意を持たれたというわけではない、とはわかっていても胸が高鳴る。
しばらくして、翠が上がってきた。
鳥もおいしかった、と笑顔で告げ、彼女は手にしていた懐中時計を見なおす。
「先生と待ち合わせをしていたのですけれど、この時間にいらっしゃらないということは、急なお仕事なのでしょう。もし吉野先生がいらしたら、わたくしは帰ったとお伝えくださいませんか」
「はい……」
たしかに承りました、と彼女を送り出したあとで、つまり吉野が再び訪れるかもしれないということに気づく。
その日の午後いっぱい、万尋は客が来るたびにそわそわと落ちつかない思いをしていた。さすがにトレイをひっくり返すようなことはなかったが、普段よりはむだな挙動が多かっただろう。
おかげで、急に襲ってきたわけのわからない不安のことは忘れていられた。
閉店時間になり客がいなくなって、深い落胆とともに万尋の気持ちも落ちつく。来ると決まっていたわけではないのだから、彼が悪いのではない。
看板を片づけようと外へ出たとき、暗がりの中を吉野がこちらへ歩いてくるのに出会った。
「少し遅かったね」
店の手前で立ち止まってそう笑い、きびすを返そうとする彼をあわてて呼び止める。
「いえ、どうぞ入ってください。まだ火は落としていませんから」
看板を中へ入れ、そして今日最後の珈琲を作った。トレイにはカップを二つ乗せて。
「ぼくも……ご相伴にあずかっていいですか」
「もちろん」
自分の店で椅子を勧められるというのも妙な話だが、とにかく万尋は彼の向かいに腰を下ろす。
「翠さんという司書の方がいらっしゃいました」
真っ先に伝えなければならなかったことを失念していた決まり悪さにうつむいたが、彼は小さく笑っただけだった。
「彼女には悪いことをした。立ち寄った公立図書館でもすれちがってしまってね……向こうにも言伝をしてきたから、たぶんわかっているよ。ありがとう」
「それは、よかった……」
なんだか照れくさくて、なにを話していいかわからなくて、万尋は黙ってカップに口をつける。そんな万尋を見て、吉野が顔を覗き込んできた。
「なにか悩みでもあるのかな」
「え……」
思わず背筋を伸ばした。そんなに深刻な顔をしていただろうか。戸惑う万尋に吉野はやわらかな笑みを向けてくれる。
「ここの司書は、今日も外出しているようだね」
「その……」
見抜かれている気がしたから、万尋は正直に打ち明けた。夏生が北の大地へ渡ってしまってしばらく帰らないこと。代わりの司書が来るまでもうしばらくかかるらしいこと。それまで素人の自分が、どうやって古書管理室を守っていったらいいのかわからないこと……。
吉野は静かに耳をかたむけていた。
「こんな店で働いているのに恐縮なのですが……ぼくには、古書閲覧室という場所の意味がよくわからないのです。どうして本が人の心を取り込んでしまうのかも。あなたがた司書が、本を相手になにをされているのかも……」
万尋自身は、今も昔もあまり本を手にする機会がなかった。本は学校や図書館で読むものであり、手近な読み物といえば新聞か簡易に綴じられた雑誌。表紙の硬い書籍は高価な存在で、自分とはどこか縁遠い存在のような気がしていた。
つい先日馴染みの場所で、被害に遭った顔見知りの子供を目にするまでは、危険性すら遠い世界の話に感じていた。だが今はもう、知らぬふりはできない。
「本は、自分の所有者を探しているんだよ」
吉野は席を立ち、手近な書架から本を引き抜いた。
「おれでよければ、説明しようか?」
「お願いします」
真剣な顔の万尋を見てうなずきながら、彼は持ってきた本の裏表紙を開く。そこには蔵書票が貼ってある。それは万尋も知っている。尋ねれば夏生は答えてくれた。今まで知ろうとしなかったのは自分の責任だ。
「ある時期まで、個人が所有する本に蔵書票を貼ることが流行していた。蔵書票の貼付は、本の市場価値をなくし、永遠に本を所有するという宣言に当たる。その瞬間、本は社会性を失い、絶対的な個人所有の存在になるわけだ。
しかし個人は、いつか本を所有できなくなる。持ち主が触れなくなり、蔵書票が破れたりして所有の力が弱まったとき、本は次の所有者を求める……檻から放たれた獣のようにね。そうなった本は、触れた人間を所有者とし、ひとつになろうとする。その結果、人の心は本の中へ、そして本自体はここへ、取り込まれてしまう」
彼は自分の胸を指した。
「取り込まれた人間は、本の世界という夢を見せられつづける。そのまま目覚めなければ、肉体が弱って死に至ることもある。だから我々が夢の中に入って、本と人とを引き離すんだ。司書は、本の管理者であると同時に、冒険者であり狩人であり医者でもある」
「医者……」
いつも「外仕事」で留守にしている夏生。先日まのあたりにした、稲見を目覚めさせる吉野。彼らの仕事の重要さを全く知らなかった。そして、自分を取り囲んでいるこの本たちの正体も。
「そんなに危ないものを、処分はしないのですか」
万尋の率直な疑問に、彼は少しさびしそうな顔で笑った。
「巷では蔵書票のあるなしに関わらず、日々大量の本が処分されているさ。しかし本来は価値のある存在だ。絶版で手に入れるのが難しい古書もある。希少価値はなくとも、だれかに読まれるのを待っている本を簡単に捨てるのは忍びない。だから我々は、一度は暴れた本を新しい檻の中で管理し閲覧できるようにしているんだよ。それが、古書管理閲覧室だ」
耳慣れてしまって意味など思い至らなかったが、まさにそのための場所なのだと知る。
「獣を押さえつけているのが、この蔵書票。所有の力が弱まった蔵書票の上から貼りつけ、今度はだれのものでもない……広くいえば、中央図書館の蔵書になる。この図柄は、古書閲覧室の象徴でもある」
テーブルの上で開かれた本に貼られている蔵書票は、フクロウの図柄だった。たしかに喫茶室の入り口のガラス戸にも同じ絵が描かれている。このフクロウが本を守っているということか。
図柄の中には「EXLIBRIS」という文字がある。それが「蔵書票」という意味であることまでは知っていた。
「喫茶店の名前と同じなんですね」
「そうか、きみがつけたのではないのか。この店は、ここにある本をまとめて守っている蔵書票なのかもしれないな」
機械仕掛けのフクロウが、こちらを睨みつけている。そんな空間で、なにも知らず働いていたのか。万尋は自分の脳天気さに半ば呆れ、大きなため息をついた。
「そうなると……司書が長期間いないというのはかなり問題ですね」
「そうだな」
吉野は珈琲を飲みながら少し考え込んでいたが、やがて遠慮がちに口を開く。
「少し……休みをとるのはどうだろう」
「え?」
「きみだよ」
突然の言葉に驚いていると、彼はさらに思いもよらないことを提案してきた。
「次の司書が来るまで店を閉めて、そのあいだだけでもこの町を離れてみては?」
この町を……この店を?
目を丸くするだけの万尋に、吉野は「おせっかいかもしれないが」と前置きして言葉をつづける。
「司書の不在はさておいても、きみはいつも、なんだかもっとちがうことで思いつめているように見えてね。理由をむりに聞き出す気はないが……」
「それは……」
昼間、仲のよい若者たちを見てひどく動揺してしまった。その原因はやはり、今目の前にいて万尋の心配をしている、彼本人なのだろう。心当たりはそれしかなかったが、本人を相手にそんなことが言えるはずもなかった。
想いを伝えてしまえば楽なのかもしれない。もう少し若ければ躊躇もなかっただろうが、当たって砕けてもかまわないという覚悟を決めるには、少し大人になりすぎていた。珈琲を気に入られたからといって、万尋自身を受け入れてくれるかというのは別の話だ。彼には彼の、自分には今の生活がある。
黙り込んだ万尋の態度をどうとったか、吉野はさらに言葉を重ねる。
「なにも店をたためと言うんじゃない。司書のいない古書閲覧室を暫定的に閉鎖するだけだ。きみ自身は、南のほうへ少し気晴らしに行くだけでも……首都でもいい」
万尋がそこからやってきたことを、やはり彼は知らないのだ。そう思うと胸が痛くなる。
「でも、首都には頼る人も……」
「おれがいる」
力強い声に、うつむきかけた顔を上げた。吉野はまっすぐ万尋を見ていた。
「首都に来てくれないか。きみなら向こうに働ける店がいくらでもある。きみが近くにいてくれたら、おれは……」
息をするのを忘れるほどに、鼓動が速くなる。期待と不安に両腕を引っぱられている気分になる。首都にはなんの用事もないけれど、吉野が待っているなら、全く別の意味を持つ。
だが、この町を離れるということは……。
「次の汽車で首都に戻る。きみが来てくれれば、いつでも歓迎する。考えておいてくれないか」
念押しのようにそんな言葉を残し、吉野は帰っていった。万尋は途方に暮れて、それでも店を片づけはじめる。彼の言葉を何度も反芻しながら。
部屋に戻ってからは食事をする気も起きず、さっさと寝間着に着替えてキッチンで牛乳を温めるだけにした。
生成りのシャツの上に、この時期は厚手のカーディガン。もう少ししたら、毛糸のセーターを出そうか。そんなことを考えながら、居間に戻る。
長いカウチは、前の住人が置いていったものだった。長身の万尋が横になれるくらいはある。そのスペースの端に座り、スリッパを脱いで脚を抱き込んだ。
子供のころから、この姿勢がいちばん落ちつく。持てあますくらいに手脚が長くなっても、どれほど広い部屋に住んでいても、万尋は一人になると落ちつく場所にこうして丸くなっている。だれにも見せたことはないから笑われたこともない。
ホットミルクを少しずつ飲みながら、ふと頭に浮かんだのはあの少年たちのこと。彼らは、汽車に乗れただろうか。
万尋はもう五年も汽車に乗っていなかった。
五年前にこの町へやってきて以来、一度も故郷である首都へは帰っていない。
故郷といっても親はすでに亡く、帰る家も、頼る親類縁者もない。べつに悲しむほどのことではなかった。人が減り家が減り……そんな世界ではどこでも起きていることだった。一人で生きていて困ったことはない。今では、夏生も珊瑚も昴もよき友人であり、家族同然だ。人口の多い首都にいたころより、人に囲まれているという実感があった。ここにいるかぎりは黄昏も平穏なものとして受け入れることができる。
しかし、と万尋はひざを抱えなおす。
一人の夜は、あまりにも寒かった。
孤独には慣れている。この先ずっと一人で老いていくことを、首都にいるころから漠然と覚悟していた。それでもいいと思っていた。
吉野があのときより少し歳をとって、万尋の前に再び現れるまでは。
掘り起こされた恋心は、同時に見ないふりをしてきた孤独をも浮き彫りにした。この言い知れぬさびしさをふり払うには……。
「この町を、離れる……?」
汽車に乗って、吉野の元へ。
初めての逆転だ。これまで、吉野が万尋の元を訪れていたのだから。
とても魅力的な提案ではあったが、店を放り出していくのはやはり許されない気がする。夏生の代理もまだ来ていない。新しい司書の到着を待ってから相談してもよいのではないか。いや、まだ首都へ行くと決めたわけではない……。
考えがまとまらないまま自分のひざに頭をあずけて、眠気に身をゆだねる。
二人の少年は……どこへ行くのだろう?
4.革のトランク
買い物から帰ってきて車を降りたとき、道の向こうに人影が見えた。あの記者にちがいない。
万尋は走り出していた。これ以上不審な行動をとりつづけるようなら、警察に突き出すなりなんなり、こちらにも考えがある。
しかし彼女はこちらに気づくやいなや、石畳を蹴って身軽に駆け出し、あっというまに万尋を引き離していった。
「待て……っ」
角を曲がったときには、もうだれもいなかった。三十路の「若者」は、ただいたずらに息を切らせただけ。
慣れない急な運動に汗までかいて、惨めさだけを引きずってゆっくりビルまで戻る。
疲れきった足を階段へ向けたとき、ちょうど下りてきた人間と鉢合わせした。黒いコートに、丸眼鏡……。
「吉野さん!」
「万尋……」
彼はなぜかうろたえた様子で、向きを変えて階段を上ろうとする。
万尋は荷物を置いて、階段を二段飛ばしで駆け上がった。これもめったにやらない。呼吸が整わないまま、勢いで彼の背中に飛びつく。
「待ってください……っ」
めずらしいことに図書館の制服は着ていない。生真面目な雰囲気は変わらないが、制服よりもずっと地味な色柄の三つ揃えだった。華やかなリボンタイではなく黒いネクタイ。コートも少しくたびれて、年季が入っているように見える。普段着なのだろうか。
よろめくふりをして、踊り場の壁に彼を押しつけた。
「どうして、逃げたんですか……」
逃げるにしても階段を上っては意味がない。よほどあわてていたと見える。吉野は困った表情で万尋を見返した。制服を着ていない彼はどこか所在なく、なにかに怯えているように見える。
「それは……」
先日、万尋が思い詰めているようだと励ましてくれたのは、彼ではなかったか。それがどうしてこんなところにいるのか。まさか、あの記者とつながりがあるとは思わないが……。
「きみに……会いたかった。それだけだ」
その言葉は、単純に万尋の鼓動を速める力を持っていた。しかし一方で、どこか白々しい、言いわけじみた響きも感じていた。
「それだけ? ほんとうに、それだけですか?」
いつもの穏やかな微笑みは、今日はない。ただそれだけのことがひどく不安をかき立て、万尋はつい口走っていた。
「ぼくは、それだけじゃない。会うだけなんて……あなたを待つだけなんて、もう耐えられないんです」
言ってしまった。もう、後戻りはできない。
「首都で……ずっとあなたを見ていました。あなたはいつもカウンタで、本を読んでいて……」
大きな手をとった。革の手袋に阻まれ、直接触れられないのがもどかしい。
「この指が、ページをめくるのを、煙草を持つのを、カップを口まで運ぶのを……いつも見ていました」
「万尋……」
彼はどこか苦しげに眉をひそめたかと思うと、その手をふり払った。拒まれた衝撃に息をのんだ刹那、万尋の手首を今度は吉野がつかむ。
彼は静かに深呼吸すると、万尋とは目を合わせずに口を開いた。
「いい店だった。どれだけ長居しても干渉されなくて、心ゆくまで一人になれる場所だった」
首都の店の話をしていることはすぐにわかった。
「だがある日、おれはその店に一人ではないことに気づいた。たった一度、たった一人の店員に、気持ちが向かうようになっていた。そのうち、彼に会うことが店に行く目的になっていった」
吉野は気まずそうに目を伏せる。
「……きみはいつも真剣な顔をして珈琲を淹れていた。サイフォンの光に照らされるきみは……その、なんというか……目を惹いたよ」
その言葉に、懐かしい光景が明滅する。だが吉野が覚えているはずはないと思っていた。
「声をかける勇気は、当時のおれにはなかった。きみを見るために、あのカウンタ席に座っていることしかできなかった」
万尋はひざの力が抜けそうになった。
カウンタを挟んで、二人は惹かれ合いながらも相手の心には気づかなかったのだ。
「どうして……黙っていたんです」
なぜ最初に出会ったとき、そう言ってくれなかったのか。
「あんな大きな店で、毎日大勢来る客の一人を、しかもずいぶん前に辞めた店員が覚えているなんて思わないじゃないか」
情けなくさえ見える表情でそんなことを言われ、万尋は泣いていいのか笑っていいのかわからなくなった。二人は同じ理由で互いを遠ざけていたのだ。
手をつかまれたまま、鼻が触れそうなところまで顔を近づけた。
「大勢の中で……好きになったのは、あなただけです」
秘めることも耐えることも、もはや意味がない。目の前に彼がいる、それ以外のことは、今は考えられない。
同じ高さにある唇に口づけた。
「……っ」
壁にもたれてずれた眼鏡を直す吉野は、ひどく当惑していた。想いが通じ合った様子は片鱗すら見られなかった。その態度が万尋の焦燥を煽る。
「すまない、もう行かなければ……」
「どこへ行くっていうんですか!」
結局いつもと同じだ。いつも待っているのに。こうして気まぐれに現れては、どこへともなく去っていく。そのくせひどく優しくて、期待させるようなことばかり言う。
「あなたがぼくのところへ来たんですよ?」
つい詰るような口調になる。言いたいのは、そんなことではないのに。
「……できれば、来たくなかった」
意味が通らない、ただ万尋の心に冷たい不安の風を吹かせるだけの言葉を吐いた彼は、万尋の肩を押しやり、苦しそうな目で見つめた。
「また、いつか話そう。きみがおれのことを覚えていたら」
「え?」
なにを言っている。忘れるわけがない。五年も会わずにいて、互いに忘れていなかったのに。
「いいや、全部忘れてくれ……」
そう言い残した彼は呆然とする万尋の腕をすり抜け、階段を駆け下りていった。
駅のアナウンスが汽車の到着を告げる。
万尋は駅の待合室にいた。
傍らには旅行鞄。ハンチングをかぶって座っている万尋の前を、旅装の人々が忙しなく行き来している。
隣に座った黒いコートに黒い帽子の男が、気さくな笑顔で話しかけてきた。農学校の教師らしいとはわかったが、それ以上は訛りがきつくてなんと言っているかよくわからない。
もう一人、別の男が反対側に座った。赤ら顔で酒瓶を抱えている。
「一杯やりませんか」
「いえ、ぼくは」
「ほら、『北の輝』ですよ。他ではなかなか手に入りませんからね。旅立つ前に、一杯やっていくといい」
地元名産の清酒の名を出され、つい杯を受け取りそうになる。そこへ、また別の人物が目の前に立った。見覚えのあるスカートに顔を上げると、司書の翠が大きなトランクを提げていた。
「ごきげんよう。よかった、出発に間に合いましたわ」
「こんにちは……どうしたのです?」
帽子を取って立ち上がると、彼女は重そうなトランクを万尋の前に置いた。
「吉野先生にお渡しする本です。でもなかなか先生とお会いできなくて……あなたを見つけてほっとしました」
彼女が言っている意味がわからず、微笑みかけてくる顔を見下ろす。
「いえ、ぼくは……」
「先生とごいっしょに行かれるのでしょう?」
なにかのまちがいだと言おうとした。自分は一人だ。彼と約束をした覚えもない。しかし彼女は万尋が吉野と旅に出るのだと信じ切っているようだった。
「先生の大切な本、たしかにお預けしましたよ。では、吉野先生によろしくお伝えください」
万尋の話など聞こうともせず、かわいらしくお辞儀をして、翠は待合室を出ていった。
「吉野さんと……?」
預けられたトランクを持ってみると、本というだけあって見た目よりも重かった。しかし置いていくわけにもいかない。
万尋は予定外の荷物を抱え、改札へ向かった。
改札の前で切符を探すが、なかなか出てこない。胸ポケットに手を突っ込んだとき、目の前に一枚の切符を差し出された。
「やあ……遅れてすまない」
吉野が、きまり悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
「吉野さん!」
コートの襟元から、リボンタイが覗いている。今日は制服らしい。
彼の姿を認めた瞬間、たしかに彼と汽車に乗るはずだったのだと思えた。翠が吉野の荷物を預けにきて、切符は吉野が持っている。自分は少し思いちがいをしていただけだ。最初から、そういう予定だったのだ。
二人が乗ろうとしている大きな蒸気機関車には、さまざまな客が乗り込んでいく。
立派な勲章を着けた軍人、白衣に眼鏡の医者、唐服の行商人、毛皮を纏った山男、チョッキを着たキツネ、ずるそうな顔をした山猫……。
トランクが他の乗客にぶつからないよう気を遣いながら歩いていたせいで、発車時刻になってしまった。
二人が乗り込んだ直後に、ベルが鳴り響く。間に合ったことに胸をなで下ろして、座席へと向かった、そのとき。
車両に駆け込んできた青年が万尋にぶつかった。思わず手にしていたトランクを取り落とす。
「あっ……」
落ちた拍子に、トランクの留め金が外れて開いてしまった。
中空に投げ出された本たちは、鳥のようにページを広げ、あたりはちょっとした騒ぎになる。ある本からは影絵のような蟹が泡とともに這い出し、別の本はページの中から林を現し、またちがう本ではチェロの中から子ねずみやかっこうが顔を出し……。
「万尋くん!」
先に席へ向かっていた吉野が急いで駆け戻ってくる。
「あなた、これは大切な……」
ぶつかってきた相手を怒りにまかせてふり向き、目を見はった。
キャスケットの下に色眼鏡の、ニッカボッカ。吉野をつけ回していた怪しい記者だ。
「あなた、いったいなんなんです。今日こそは白状してもらいますよ」
「いえ、わたしは……」
後ずさる彼女の細い腕をつかんだ。娘は逃れようとしたが、万尋もそこまで非力ではない。
「……万尋さんこそ、どこへ行くのですか」
娘は帽子の下から万尋を見据え、唐突な問いを投げかけてきた。
「どこって……」
とても簡単な質問のはずが、万尋はとっさに答えることができなかった。行き先が書いてある切符を探して、コートのポケットへ空いている手を突っ込む。彼女が逃げないよう、腕をつかむ力だけはゆるめないようにしながら。
「お店を離れて、どこへ、なにをしにいくのですか?」
「それは……」
言葉に窮していると、後ろから肩に手を置かれる。散らばった本を拾い集めていた吉野が、すぐ後ろに立っていた。
「彼は、おれと南十字へ行く」
穏やかなハイバリトンは、万尋を無条件に安心させてくれる響きを持っていた。だが、目の前の娘は親の仇と言わんばかりの表情で吉野を睨みつける。
「南十字ってどこです?」
「どこ……」
南十字は、この汽車の行く先、終点だ。南十字があるのは……。
「首都だよ。おれといっしょに首都で暮らすんだ」
吉野の言葉は力強い。
「え、ええ。そうです」
うなずきながらも、不意に疑念が広がった。
なぜ、そんな単純な答えが自分で口にできないのか。そして先日、あれほど頼りなく見えた吉野が、今は自信たっぷりに万尋を導いているのはなぜか。珈琲の染みのようにじわじわ広がっていく違和感を拭い去りたくて、背後の吉野をふり向こうとする。
だが目の前の娘から視線を外した刹那、彼女が不穏な動きを見せた。
「もう時間がないのです……」
コートの胸元に差し入れた手に、なにかを握って取り出す。万尋はぎょっとして彼女から手を離した。小さいけれど、それはたしかに銃だった。
「どいてください、万尋さん」
そう言われておとなしく引き下がれる状況ではない。万尋は両腕を広げ、彼女から吉野を庇った。両側に客席があって他の客もいるこの場では、通路から動くこともできない。
「いいかげんにしてください……何者なんですか、あなたは!」
なぜ自分は今、銃を持っていないのだろう。この主義を後悔する日が来るとは。
銃口が縦に二つ並んでいるその銃は、いったいどの程度の殺傷力を持つのか見当がつかなかった。実弾が入っていたら、この距離では二人とも危険だ。
娘は両手で銃をかまえ、なおも真剣な表情で訊ねてくる。
「よく考えてください、万尋さん。その『吉野さん』は、どこから来たのですか? あなたの大家は、古書閲覧室の司書は、だれですか?」
「大家……」
脈絡のない問いかけに虚を突かれる。
なぜそんなわかりきったことを今訊ねるのだ。地階のカウンタにいるのは、厚化粧の老婆。いつも朝一番に、地獄のように熱い珈琲を頼む……。
「夏生さんです! なにを言って……っ」
汽笛が高く鳴り、車両が動き出した。大きくよろめいた万尋は前につんのめって、同じく体勢を崩した彼女に倒れかかった。帽子が弾き飛ばされ、長い髪があふれ出る。
「え……」
そこにいたのは、司書の翠だった。
ついさっき別の姿で出会った、吉野を師と仰ぐ娘……。
「どうして……」
座席の背もたれにしがみつく直前、指がかかった引き金が引かれるのをたしかに見た。
「万尋くん!」
吉野が叫んで手を伸ばす。
彼女の銃口から弾丸は飛び出さず、代わりに白い光が万尋の胸を貫いた。
「……えっ?」
痛みも衝撃もない。電気銃でも気絶くらいはするものだが……。閃光弾だったのか。
だが翠のほうは、銃が暴発したのか強い閃光にその身を包まれている。
「あとはお願いします、先生……」
謎の言葉を最後に、翠は光の中に吸い込まれるようにして消えていった。
万尋は愕然としてその場に崩れそうになった。
「そんな……」
よく似た光を見たことがある。
今、万尋を抱き寄せようとしている男。彼が仕事のときに使った銃は、あの光を出していなかったか。あれは人ではなく、本に対してその力を発揮する銃だったはずだが……。
「どういうことなんですか……」
吉野をふり向いた万尋は、驚愕に目を見開いた。
「よくやった、翠」
吉野の後頭部に、もう一人の吉野が銃を突きつけていた。
シンプルな三つ揃えに黒いネクタイ。あの夜に出会った姿だ。手にしているのは、まちがいなく彼の仕事道具たる厳つい銃。
制服姿の吉野は、ふり向く間もない。
「吉野さ……」
容赦なく引き金が引かれ、白い閃光でなにも見えなくなった。
続きは『エクスリブリス・クロニクル』でお楽しみください。
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