【創作小説】『マアヂナル』本文サンプル
<基本情報>
霧雨の中で遭遇した古風な出で立ちの青年は、「おれ」と同じ能力を持っていた…。
「空」を描くことに執着した男たちの「境界(marginal)」とは。ざらついた読後感のSF短編。
表紙がフェルト貼りの特殊装丁です。
BOOTH: https://rwks.booth.pm/
『マアヂナル』
ソール・ライターの写真みたいな窓枠の中の曇天を眺めていたら、腹が鳴った。
ベッドから起き上がり、冷蔵庫を開ける。わかっていたことではあるけれど、ヨーグルトのパックしか入っていない庫内はがらんとして、このワンルームよりも広く見えた。
パックに直接スプーンをつっこんで酸味の強い朝食を済ませたおれは、洗面所で申し訳程度に身なりを整えて、皺の目立たないシャツを着る。それからコーヒー片手にパソコンの前に座った。表示されている時刻は定時五分前。余裕だ。
定時になると画面上で朝礼が始まる。
この場でのリーダーはおれだから、最初にそれっぽい挨拶をして、メンバーそれぞれに報告を促す。上司が黙っていても勝手にしゃべってくれればいいのに。どうせ昨日とそれほど変わらないんだから、録画でもいい。いっそ朝礼なんかせず、各自好きな時間に仕事を始めたらいい。みんな、そう思ってるんだろう?
……と、リーダーが言うわけにもいかず、いかにも仕事のことを考えてますって顔でマグカップをかたむけながら、まじめに聞いているふりをする。メンバー同士の雑談も遮らずに話させて、長い長い十五分を乗り切った。
最後に激励っぽい言葉で締めれば、カメラとマイクはオフにしてよし。メールとチャットの確認だけを済ませ、すぐにまたベッドへと倒れ込んだ。なにかあればモバイルに通知がくるようにしてある。
昨日から小雨がぱらついている窓の外は、日が高くなってもおかまいなしに灰色で、まだ午前中なのに部屋の電気はつけっぱなし。青白い蛍光灯はチカチカとちらついて沈んだ気分を逆から撫でつづけ、ささくれ立たせていた。
「電気消して」
スマートスピーカーに呼びかけると、当然ながら音もなく照明が消える。部屋はいっそう暗くなり、しかし二度寝するにはそこそこ明るい、なんとも曖昧な時間だった。かといってパソコンの前に戻る気は起きない。
とりあえず、昼メシでも買いに……と思ったが、時計を見ればまだ「おはよう」に近い時間で、ランチも始まっていないだろう。となれば行き先は近所のコンビニしかない。いちおう人前に出られる格好にはなっているから、相当な決意とともに起き上がればとくに支度はいらなかった。
携帯端末と家の鍵を手に、アパートのドアを開けた。傘をさすには小降りだが、このまま歩いていたらしっとり濡れることはわかりきっている、そんな程度の雨。
迷った末に、玄関先に傘を置いて外へ出た。
そういう選択をしたときに限って、思ったより濡れるのが速いものだ。
歩きはじめてすぐ、スマートフォンが通知に震える。きっと今朝のメールの件だなと思いながら、歩みを止めずにポケットから引っぱり出した。はずだった。
「あっ……」
まとわりつくような霧雨の湿気で、手も端末も濡れていたのだろう、その繊細な電子端末はおれの手をすり抜け、地面へと身を投げた。
急いで拾い上げるが、アスファルトに叩きつけられた画面には蜘蛛の巣みたいなヒビが一面に走っている。祈るような気持ちで電源ボタンを押しても真っ暗なまま。
「マジか……」
確認するはずだったメッセージは、家に帰らないと読めなくなった。コンビニではスマホで決済するつもりだったから、財布もカードも持っていない。
今この瞬間、なにも買えずだれとも接続できず、ただ外に佇むだけの人間になったということだ。株式会社なんとかのなんたらマネージャの何某です、なんて名乗ったところで身分証明さえできない。
「……………」
無意味に曇り空を見上げ、それから大きく息をついて歩き出す。
家に帰って財布を掴んでまた出てくればいいのに、どうにも億劫だった。とはいえ、冷蔵庫になにも入っていないとわかっていて昼過ぎまで不貞寝するのも、気が晴れるきっかけにはならないに決まっている。当然、なにか問題が起こっているであろう仕事のことなど、今はとても考えられる気分じゃない。責任なんか知ったことか。
謙虚な雨は変わらず、だが確実に服を湿していく。いっそ服から水が滴るまで歩いてやろうか。そんなことを考えながら、ただ足を前に出す。
平日の午前中、コンビニからも少し離れた住宅街の路地に人影はない。忙しなく着信を知らせ、暇つぶしのコンテンツを提供してくれる端末も、今はただの割れた板だ。修理に出す段取りを考えはじめたが、すぐ面倒になってやめた。
何者にもじゃまされず、何者にも頼れず、ただぼんやりと霧雨の中を歩く。こんな手持ち無沙汰なのは子供のとき以来かもしれない。
学校と家のあいだを往復するだけの、十五分ほどの時間。ぼんやりした子供だったから、よく傘を忘れて雨に降られた。そんなときは……。
はっとして立ち止まる。
急な雨に降られた日。苦手なクラスメイトが前を歩いていた日。どうしても泣きたくなった日。まっすぐ家に帰れない、帰りたくないときに、その子供を受け入れてくれたのは。
静かに深呼吸して、片腕を真横に広げ、ゆっくりと足を踏み出す。
子供が道沿いの柵なんかに手を軽く当てながら歩いているのは今でもよく見かける。そんなイメージ。
手には細かい雨しか当たらない。
昔はすぐに「見つけられた」のに……歯がゆさを覚えながらも、あのころの感覚をなんとか思い出そうとする。
空中に、指をすべらせるようにして歩くのだ。どこまでもつづく柵に触れるように。
そうすると、指の先にかすかな引っかかりを感じることがある。
その小さな違和感を逃さずにそこへ指を食い込ませて、両手で空気……ちがうな、空間ってことになるのか……その「入り口」を左右に広げる。
なんにもない虚空に現れるのは、子供ひとりがやっともぐり込めそうな裂け目。裂け目といっても、なにかを破いたり壊したりしている感覚はない。いちばん近いのは……積み重なった布団のあいだに入ろうとする感じ? いや、プールで水をかくときの抵抗感? ゼリーにスプーンを突き立てたときみたいな……なんとも例えづらいのだが、とにかく小学生のおれはランドセルごとその隙間へ入り込んだ。
「そこ」には、なにもない。奥行きも高さも、上も下もない。かといって圧迫感はなく、体を伸ばそうと思えばいくらでも動ける。なんとなく白っぽいと認識していたが、なにも見えていないのかもしれない。雨も雪も当たらず、熱くも寒くもない。
そこで、ただうずくまっていた。たまには泣いたり、大声で叫んだり。でもそう長くは暴れられないから、結局その空間に黙って身をゆだねることになるのだが。
動きも考えもしないでじっとしているうちに、空腹に耐えきれなくなって外へ這い出る。すっかり暗くなっていたりすると、親にみっちり叱られはするものの、それほど堪えなかった。いざとなればあの場所へ逃げ込めばいいと思っていたから。そこにいれば、怖い犬にも意地悪な同級生にも、親にも教師にもだれにも見つからない。
親しい友と呼べる相手もなく、周囲の大人とは断絶にも似た距離を感じていた当時、その秘密をだれかに打ち明けようと思ったこともなかった。なぜ自分だけそんなことができるのか、などと考えることすらなかった。
中学になってから携帯端末を与えられ、おれは逃げる先を変えた。あの空間にもぐり込まなくても、現実世界から逃避することができるようになったのだ。
あれから四半世紀以上。
小さな端末に縋りつづけ、いつも守ってくれていたその存在すらすっかり忘れてしまっていた。それは、たしかにこの指が見つけたものだったのに。
あった。
指先へと触れた感触に声を上げそうになった。
念のため周囲を見渡したが、だれもいない。目の前にあるのは古びたブロック塀と電柱。その一歩くらい手前に、その「入り口」がある。
ぐっと空中の裂け目に指を食い込ませた。
ひらけるだろうか。こんなくたびれた大人になった今でも、まだあの空間は自分を受け入れてくれるだろうか……。
不意に、人の気配を感じてふり返る。
今そこに現れたかのように、一人の青年が濡れたアスファルトの上に「降り立った」。そう、とても軽やかに地面を踏んだところだった。
続きは『マアヂナル』でお楽しみください。
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