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【創作小説】『I am GHOST』本文サンプル

<基本情報>

若さ故の愛、若さ故の罪。

公文書士の近衛と司書の吉野。正反対の性格でありながら、二人は数年来のルームメイトだった。あるとき近衛は思わぬ縁で、首都を震撼させる連続殺人事件の捜査に巻き込まれる。公文書館や図書館の資料から真相に肉薄した近衛はやがて、吉野の恋人に辿りつく…。

スチームパンク風ほのぼのディストピアBL「蔵書票シリーズ」の世界でくり広げられる、バディサスペンスです。糸を切らないと読めない特殊装丁本になっています。

それぞれの未来の伴侶は登場しますが、吉野と近衛はくっつきません。

第一章 公文書士あるいは司書の安穏


 やかましく騒ぎ立てる目覚まし時計を黙らせ、毛布を頭からかぶった。あと五分だけ。五分だけ……。
 だが寝室の扉は遠慮なく開かれる。
「朝だぞ」
 この世で最も無愛想な声だと、近衛(このえ)は毎朝思う。
「知ってる……」
 吉野(よしの)は寝室のドアを開け放ったまま、朝食のために二人の部屋を出ていった。
 近衛はベッドの中で七転八倒したのち、あきらめて身を起こす。
 朝食前に声をかけてくれと頼んだのは自分だ。朝日が少しでも差し込むように寝室のドアを閉めないでくれと頼んだのも。だがこの季節は冷気がさっと入り込んできて、ベッドから出る気力を余計に削ぐ。
 同居人は嫌な顔ひとつせずそれを自らの朝の習慣に組み込んだが、それは「近衛を起こす」と同義ではない。頼まれた以上のことは決してしない、機械のような男なのだ。
 のろのろと顔を洗って身支度を調える。
 どれほど朝が弱くても、部屋を出るときには一分の隙もない姿でなければならない。制服に埃や皺などないのはもちろん、艶やかな黒髪に寝ぐせがついていてもいけないし、希有な青い瞳が曇ったままなのも許されない。幸い、目の下に隈はできていないようだ。姿見の前でタイを直し前髪を指先で整え、笑顔を作った。この笑みが人間関係を左右することもある。
 目を覚ますための珈琲を淹れたころ、再び部屋のドアが開いた。
「おはよう」
 食堂から戻ってきた吉野が、リビングで珈琲を飲んでいる近衛に憐れむような目を向けてくる。だが朝食抜きを説教されたりはしない。気遣いというよりは、そこまでルームメイトに興味がないだけなのだということはわかっていた。
「久しぶりだな」
「そうか」
 吉野は二日前の早朝から泊まりがけの仕事で出ていて、昨日の遅くに帰宅した。近衛が盛り場から帰ってきたのは日付が変わってからだったため、丸三日ほど顔を合わせる機会がなかったことになる。
 友人や同僚ならば感じないが、毎朝顔を突き合わせる相手だと「久しぶり」という言葉が出てもおかしくはない。
 吉野は向かいのソファに腰かけ、朝刊を広げた。こちらもさほど美味くない珈琲をのんびり味わう。彼が新聞を読んでいるあいだは、近衛もまだ出勤の支度をしなくていいということなのだ。
 少しずつ頭が覚めてきて、ゆうべパブで聞いた話を思い出した。
「先週、山櫻出版の社長に呼ばれたって?」
「……ああ」
 ちらりと目を上げた彼は、小さくため息をついて新聞をめくる。
「さすがの情報網だな」
「司書が個人の邸宅に呼ばれる理由は、そう多くないからな。中央図書館の制服を見たと聞けば、察しがつく。それに、あのへんはおまえの担当区域だったと思ってな」
「……それを、おまえはどこかの店で、おしゃべりな使用人あたりから聞き出したと」
「残念、書生だ」
「大して変わらない」
 吉野の返しがそっけないのはいつものことだから、気にせず言葉をつづける。
「若手の記者がやられたとか」
「ああ」
「あの屋敷は社長の別荘だと聞いたぞ。自分のところから出した本も、あちこちから集めた資料も山ほどあって、編集部員たちの図書館代わりになっているそうじゃないか」
「よく知ってるな」
 本の整理をしているという書生から聞いたのだ。しかし、書生には答えられないこともある。
「だが、本の主はまだ生きているのに、どうして古書に取り込まれたのか、それが謎だ」
 古書が人の心を取り込むという事件が発生するようになって、何十年か経つ。本の持ち主が蔵書を管理できなくなったとき……具体的には、持ち主の蔵書票が破れたり剥がれたりして他人の手に渡ったとき、本は人に襲いかかるのだという。
 持ち主がまだ手放していないはずの本を開いても、事故が起きることはない。今回の件で納得できなかったのはその点だった。
 吉野は新聞から顔を上げずに答えた。
「今おまえが言ったとおりだよ。方々から集めた資料の中に、破れた蔵書票の貼られた古書がまぎれ込んでいた。それを、調べ物をしていた記者が偶然開いてしまった」
「なるほど……持ち主不明の本というわけか」
 話しているうちに思い出してきたのか、吉野は感心したような口調でつけ加えた。
「さすが出版社……本に関わる仕事をしているだけあって、連絡は早かったな。いつもあれくらいだと助かるんだが」
 問題のある本、通称危険図書を手にした人間はその場で昏倒する。だが傍目にはただ眠っているようにしか見えない。実際、眠っているのだ。本という夢の中で。本は被害者自身の夢に入り込むため、現実から消えてしまう。昏睡の原因が古書だとだれも気づかない場合は中央図書館に連絡が来ないまま、眠りつづけて衰弱死する以外の結末はない。
「未だに都市伝説だと思われている節があるからな。ゆうべ話した書生も、現実にある恐怖なのだと今さら怯えていた」
 そもそも「蔵書票が貼られた古書」自体に遭遇する市民がさほど多くないためか、週に一度以上は発生している事故にも関わらず、周知が進んでいない。知識人や富裕層でも「信じていない」者はいる。もう半世紀も前から、中央図書館には専門の部署があるというのにだ。
「限定的な事故といえばそうだし、中央図書館の広報にも限界がある」
 そして広報は自分の仕事ではない、とばかりに吉野は新聞をたたんで立ち上がる。
 彼が自室から持ってきた鞄を開けるのを、近衛は横目で眺めていた。
 中央図書館に寄らず出張先から帰ってきたため、司書の仕事道具もそのまま持ち帰ったらしい。彼は小型のそのトランクを開け、中身の点検を始めた。
 司書専用の銃、そしてケースに並んだ二色の弾丸。危険図書をあつかうための手袋、本の中を歩き回るときのコンパスとなる腕時計と色眼鏡。回収した本を保護する布袋、本の危険性を無効化するための蔵書票。
 それらが決められた場所に全て収められ、現場ですぐ使えるようになっている。
「何度確認するんだ」
 呆れた声で問いかけるが、吉野は顔を上げない。
「いつどこで道具のひとつやふたつ、紛失しないとも限らない……というのが、室長の安全管理方針でね。移動の前に必ず鞄の中身を再確認することが義務づけられている」
 昨日も駅から寄り道もせず寮へまっすぐ帰っただろうに、なんという手間か。同室の自分まで疑われているようで、釈然としない方針だった。
「律儀に従わなくてもいいんじゃないか」
 目を伏せたまま、吉野はなぜか楽しそうに口の端を上げた。
「手順を省いたことがばれると、室長お得意の小言を食らう。忘れ物なんかしようものなら、文房具ひとつでも始末書を書かされる」
 聞くだけでもうんざりする。
 吉野が所属している古書管理閲覧室といえば、花形であると同時に激務の部署でもあった。
「つくづく、司書にならなくてよかったよ」
 学年は異なるが、近衛も吉野と同じ専門学院に通い、司書の国家資格は取得している。近衛は図書館への配属を希望しなかった。彼と相部屋になったのは偶然だが、横で見ていると想像以上にたいへんな仕事だ。
 道具の点検が終わってコートに袖を通した彼は、ポケットにペーパーバックを突っ込もうとする。近衛はふとその表紙に目を留めた。
「おまえ、その本……」
「ああ、昨日買った。読むか?」
「まさか」
 重度の活字中毒であるらしい吉野は、仕事とは関係なく、常になにかしらの本を持ち歩いていた。小説、随筆、詩集、旅行記、学術書……分野にこれといったこだわりはないらしい。彼と本という取り合わせがあまりになじみすぎて、普段はほとんど意識もしないのだが。
 著者名の『近衛雪路(ゆきじ)』を睨みつけながら、近衛は肩をすくめる。
「専門的すぎて意味がわからないだろう、漢籍の研究書なんて……」
「そうでもない。よく配慮された解説書だよ。平易な言葉を選んで書かれている」
 吉野は笑ってその本をポケットにしまい込んだ。
「兄にそう伝えておく」
 いくらなんでも読むとはいえ、その本を選んだのは近衛の兄が書いたものだからだろう。彼でなければ嫌味かと思うところだが、この男にそこまでの気は回らないのも事実なのだ。
 帽子を取って、一言つけ加える言葉にも、決して他意はない。
「昇進したんだろ。遅刻の数は少ないほうがいいぞ、近衛主任」
 中央公文書館の文書管理室主任、それが今の近衛の立場だった。副主任から一段上がったのはつい先月のことだ。
「どうせお飾りだよ」
 三十になる前の若造が、普通のルートで主任になどなれるはずがない。近衛が公文書館に入ったときから決まっていたことであり、それは近衛の勤勉さや努力などは全く反映されない。
 吉野は返事の代わりに肩をすくめただけで、一足先に出勤していった。
 珈琲のカップを空にして立ち上がり、ふと吉野がテーブルの上に置いていった新聞に目を落とす。

――幽霊、三度現る…

「また出たのか……」
 ゴシップ紙ではないから派手な見出しはないが、それでも一面を飾るのはセンセーショナルな文言で、それだけ衝撃的な事件ということだ。
 先日、相次いで二人の作家が殺された。全く同じ手口で、現場には『I am GHOST(私は幽霊)』というメッセージカードが添えてあったという。同一犯であることは明白で「幽霊による殺人」として世間を騒然とさせた。そしてついに三人目の犠牲者が出たことにより、それがいつ終わるとも知れない「連続殺人事件」であることが確定した。さまざまな憶測が飛んでいるが、現時点では犯人の目星もついていないらしい。
「まあ、作家でもない一市民には関係ないか……」
 時計を見上げた近衛は、あわててコートと帽子を掴んで吉野の後を追った。
 中央公文書館は、中央図書館と肩を並べている。つまり、乗るバスもルームメイトと同じということだ。

「おはようございます、近衛主任」
 朝からにこりともせず近衛の前に立ちはだかるのは、主任補佐官の冬馬(とうま)。
 部下の中では最も若いが、それでも近衛より二十ほども年上で、補佐官とは名ばかりの「お目付役」だった。
 ただでさえベテランぞろい……といえば聞こえがいいが、要は年寄りしかいない文書管理室の職員たちは、主任たる近衛の存在を文書一枚ほども重要だとは思っていない。その年寄りたちとお飾りの主任を仲介するのが、この男の役目でもある。
 ならば彼が主任になればよいのに、と近衛は常々思っているが、いちおうの礼儀として口に出すことは慎んでいる。
「さっそく、本日の業務をご確認いただいてもよろしいでしょうか」
 少しも敬意の感じられない慇懃な態度にうんざりしながら、自席に腰を下ろした。
「よろしくお願いしますよ、できれば手短に」
「昨日、主任が早めに退勤されたおかげで先延ばしにされた件を本日手短に処理していただければ、ご希望に添えるかもしれません」
「……………」
 言い返す気もなくなって、無言で手を差し出し彼を促す。冬馬は眼鏡を押し上げ、今日の……正しくは昨日からの業務を読み上げはじめた。
「まず昨日中断された、法務省からの昨年度裁判記録の受け入れ確認につきまして、全件への承認を今日中にお願いいたします」
「ええ、あと三分の一程度ですか」
「残りは全体の四割ほどです」
 文書管理室の業務は、中央公文書館で管理する全ての公文書を、国や自治体の各所から受け入れ精査分類すること。一般開示の是非、保存期間や保存場所などを熟練の公文書士たちが判断する。
「つづいて、来月閉鎖される公立資料館からの資料移管作業ですが、保存状態がよくない文書も多いため、修復室との打ち合わせが必要になります。十三時から会議の予定を入れておきました。それまでに、移管リストに目を通しておいていただけますか」
 人口減少によってゆるやかに衰退していく「黄昏の時代」と呼ばれる現代において、その営みの証拠を残す公文書館の仕事は、むしろ増加している。住人がいなくなり町がひとつ消滅すれば、その役場や公的機関で管理されていた資料は、首都の中央公文書館に移管される。
 公文書は日々あらゆる機関で増えていく。当然全てを残すことはできない。適切な保存期間と重要度に従って、厳密に振り分けていく必要がある。
 古書が人を襲うようになってから中央図書館の役割が大きく変わったため、図書館から移管されてきた歴史的資料も多い。仕事は日々山積みだ。
「また、今週末が期限の書類をこちらにまとめてありますので、早めのご確認をお願いいたします」
 実際、冬馬の仕事は的確で周到だった。
 どちらかといえば職人気質で黙々と仕事をこなす管理室の公文書士たちを相手に、各自の状況に応じて担当を割り振っている。他部署との折衝なども迅速で無駄がない。主任の近衛に対しては、常に業務の全体を把握させようと報告を怠らない。
 こちらがやる気になれば、の話だが。怠惰な上司にとっては、有能な部下は存在自体が嫌味でしかない。 どうにも先延ばしができないようだと見てとり、ひとまず昨日のつづきからはじめようと書類の詰まった箱に手を伸ばす。
「……冬馬補佐官、仕事の前に珈琲を一杯飲んできてもいいかな?」
「その箱の中身をまず十件処理されましたら、わたしが淹れてまいりましょう」
 まったく、いやになるほど周到なのだ。

 駅前にある大きな時計台の真下は待ち合わせ場所になっていて、常に人が立っている。首都に初雪が舞ったその日も例外ではない。
 マフラーに顔をうずめてその場を通りかかった近衛は、見慣れた人物に目を留めた。背が高いから、着ぶくれた人ごみの中でもそれなりに目立つ。彼自身が目印だなと思いながら、さりげなく近づいた。
 気づいた吉野が、なぜかぎょっとした表情で近衛を見なおす。いつもすましている彼の鼻を明かしてやれたのがうれしくて、わざとらしく片手を振り笑顔を作ってみせた。
「こんなところでどうした? デートか?」
「ただの待ち合わせだ」
 露骨に顔を背けようとする彼の手元をふと見下ろし、笑ってしまった。
「また花か」
「うるさい」
 こんな冬でも、吉野が恋人に贈るプレゼントは小さな花束なのだ。ばかのひとつ覚え、とまでは言わないが、芸がないにもほどがある。
「そういえば、この前いっしょにいた巻き毛のお嬢さんはどうした」
「……もう会っていない」
 つまり、彼女に贈った花は無駄になったわけだ。そして今、別のだれかに別の花を渡そうとしている。
 堅物に見えて、彼の横にはいつもだれかがいた。その手の話題、とくに自分に関する話を吉野は避けたがるが、近衛のほうは興味津々で、隙あらば聞き出してやろうと思っている。
「なあ、たまには紹介してくれよ」
「必要がない」
 返事のそっけなさに拍車がかかる。近衛から目を逸らしているのかと思ったが、彼の視線は人の波の合間にだれかを探していた。
 不意に吉野が手を挙げる。その視線を追うと、彼に向かって笑顔で手を振っている青年がいた。
「おや……」
 女だと思ったのに、と近衛は肩すかしを食らった気分になった。
 目深にハンチングをかぶった青年は、人ごみをかき分けまっすぐこちらへやってくる。吉野は近衛を無視することに決めたらしく、にこやかに挨拶をして、さっそく花を渡している。
 彼が男性と交際しているのは初めて目撃した気がするが、多少意外だと思う程度だった。このご時世、異性に拘る人間のほうが少数派だ。吉野にしても、女性でなくてはならないとは聞いたことがない。
 相手は近衛より年下であろう若者で、背丈だけは吉野と目線が同じではあるものの、厚手のコートを着ていてなお線が細い。帽子に隠れていても、通った鼻筋の端正な顔立ちであることは見てとれた。
 新しい恋人か、という言葉を笑顔でぐっと飲み込み、彼の肩を叩く。
「吉野?」
 青年が、帽子の下から怪訝そうに近衛を見やる。
「こちらの……美しい瞳の方は?」
 顔立ちから想像していたよりも低い声で、そして身なりのわりに言葉遣いが丁寧だ。おまけに近衛へ嫌味を言う余裕まである。
 彼から問いたげに目線を向けられた吉野は、ほとんどこちらを見ずに答えた。
「ルームメイトだ。偶然会った。彼は彼で約束があるらしい」
 さっさと近衛を追い返したいのが見え見えだが、そうはいかない。もう少しからかってやろうと口をひらきかけたとき。
 相手の青年が、前髪のあいだから近衛を見た。いや、睨みつけた。
「!」
 瞬間、近衛は目を逸らしたくなる感覚に身を強ばらせた。
 ぞっとするほど冷たい目だった。なぜかはわからないが、底知れぬ感情を近衛に向けたことは事実だ。自分の恋人と同じ部屋に暮らしていると聞かされたからといって、単なる嫉妬や羨望であんな目をするだろうか……。
 意図はどうあれ、まともにつき合わないほうがいい相手だと近衛は瞬時に判断した。
「吉野……」
 彼に警告しようとしたが、その愚かさに気づいて言葉を飲み込む。
「あまり遅くなるなよ」
「おまえが言うか」
 苦笑が返ってきたのも当然だ、彼は今この青年に恋をしている。つまりなにも見えていない状態ということだ。
「行こうか」
 促された青年は、近衛に「失礼します」と会釈して吉野とともに人ごみの中へ消えていく。
 所作からは教養を感じさせるが、凄みのきいた低音は、あの目つきとも相まって妙に不穏さがにじんでいる。これまで、吉野の相手はたいていが穏やかな印象の女性ばかりだった。好みが変わったのか、向こうから言い寄られたのか……。
 当惑のままふと足下を見下ろすと、濡れた新聞が地面に張りついていた。

――連続殺人犯、依然捕まらず

 まったく物騒な世の中だ。苛立ちのままに見飽きた見出しを踏みつける。
 雪がちらつく中、近衛は足早に盛り場へと向かった。

 中央図書館の受付が替わっていたので、つい声をかけた。少し話が弾んだだけだ。それなのに。
「文書管理室の主任殿が直々にいらっしゃるほどの案件は、伺っておりませんが」
 苛立ちと怒気を滲ませた声にふり返れば、眉根を寄せた中年男が神経質に片眼鏡を光らせていた。腰に手を当て、仁王立ちで。面倒な相手に捕まったと思いながら愛想笑いを浮かべる。
「これはごきげんよう……和泉(いずみ)室長」
「ほう、機嫌がいいように見えますかな」
 だれが呼んだのかと思うが、こちらは公文書士の制服を着ていて、たしかに司書の制服ばかりの中では否応なく目立つ。だがいつも、古書閲覧室の室長が現れる理由は不明だ。
「中央図書館への立入は、利用者のみに限られます。公文書士といえども、いや公文書士だからこそ、目的もなしに遊びに来る場所ではありませんぞ」
 そんなことは百も承知だと、近衛は笑みを貼りつけたまま、和泉という男をうんざりして見返した。
 忘れ物で始末書を書かせるというエピソードだけでも、上司にしたくはない。部下の吉野が愚痴のひとつもこぼさないのが不思議なくらいだった。
「そう、吉野! 実はそちらの吉野くんに用事があって……」
「吉野は外出中です、残念ながら。言伝があれば承りますよ」
 もちろんそんなものはない。「けっこうです」と言って引き下がるしかない。近くの喫茶室で時間を潰そうかとも思ったが、和泉はそれすら許さなかった。
「お迎えがいらしたようですな」
「はい?」
 受付係がエントランスのほうへ頭を下げる。新たな来館者は、和泉の三倍は眉間に皺を寄せていた。
「近衛主任……せめて館内にいらしてくだされば、こちらも探しやすかったのですが」
 冬馬は近衛を一瞥しながら、まっすぐ和泉に歩み寄って頭を下げる。
「ご連絡ありがとうございます。たいへんお騒がせいたしました」
「あなたもたいへんだ」
 冬馬に、和泉は腰に手を当てたまま同情とも叱責ともつかない言葉を投げかけた。どんなときでも落ちつき払った冬馬に対して、和泉は口うるさい小舅といった印象だが、近衛にとってはどちらもいけ好かない中年であることに変わりはない。
 今日は厄日だ、とため息をつくほかなかった。

 主任室へ強制送還された近衛は、冬馬が抱えてきた書類や封書の束を見やって肩をすくめる。
「わざわざ迎えに来ていただかなくてもいいんですよ、子供じゃあるまいし……」
「ええ、子供ではないのですから、そもそも仕事中に抜け出すのはやめていただきたいですね」
 丁寧に釘を刺してから、彼は一通の電報を差し出してきた。
「他の件はさておき、主任宛のこちらはお急ぎの御用かと思いまして」
 受け取ったが、開くまでもなく差出人と内容はわかっていた。
「スグカエレ、アニ……」
 読み上げてから、廃棄の箱に投げ入れる。
「どうしていつも職場に送ってくるんだ……」
「確実だからでしょう。官舎にはご不在のことも多いでしょうから」
 冬馬がすました顔で答える。
 まったく、この補佐官にしても電報の差出人にしても嫌味が過ぎる。遠回しに夜遊びを責められているようなものだ。せっかく生家を出て気ままな独身生活を満喫しようというのに、自由時間にまで口を出してくるとは。
 近衛は席を立ち、コートと帽子をとる。
「今日は、大した仕事はないと言いましたね」
「そうは申しておりませんが」
 最重要と思われる件を優先させただけだと、冬馬は渋い顔で答える。しかし、なにがなんでも引き留めるほどの業務もないようだ。
 冬馬が今日の業務リストを繰っているあいだに、帰り支度を済ませた近衛は、帽子を頭に乗せながら補佐官に重々しく告げる。
「所用により早退します。皆には適当に説明しておいてください」
 冬馬はしぶしぶ「承りました」と答え、厳しい女教師のように肩をそびやかしてつけ加える。
「なによりも、そちらが優先というわけですか」
 ここで仕事をするのもこの呼び出しに応じるのも、天秤にかければ同じくらいに気が重い、つまり面倒だ。それを知っての皮肉だろうか。
「行かないわけにはいかないでしょう。近衛家の当主さま直々の呼び出しとあってはね」
 パーティーにでも出かけるかのような満面の笑みを浮かべて、近衛は主任室を後にした。
 少なくとも今日は、あの厄介な補佐官からは逃れられる。

第二章 慣例あるいは誘惑への加担


 家を出る出ないで多少揉めたせいで、他の連中より遅れて入寮を申し込んだときには、あとひとつしか空きがないと言われた。それも、少し前に入った司書と相部屋になると。
 問題ないかと尋ねられ、二つ返事で承諾した。他に選択肢がないというのも事実だったし、狭苦しい部屋で赤の他人と生活するというのも単純に興味があった。
 ドアの前で初めて対面したルームメイトは、木訥とした印象の男だった。近衛は部屋の前に掛かっているネームプレートを目にして「おや」と思う。
「吉野立夏(りっか)だ、よろしく」
 近衛より少し上の目線から、彼はにこりともせず挨拶してきた。
「夏の生まれか?」
「いや、夏の字を継ぐことになってる」
 親の名から同じ一字を使いつづけるのはよくあることだから、その場で納得した。
 さて、後攻は分が悪い。
 持たされた自分の名札を「立夏」の横に掛ける。
「近衛、六華(りっか)だ」
 案の定相手は、かけている眼鏡と同じくらいに目を丸くしてその名前と近衛の顔を交互に見た。まさか自分と同じ名前の人間と同室になるとは思わなかったのだろう。近衛だってそうだ。
 対応に困ったのか、彼は小さく肩をすくめて全く別のことを尋ねてきた。
「……冬の生まれか」
 その名はだれが見ても、六つの弁からなる雪の結晶を連想させる。瞳の色が一般的な黒でないのも、その名の印象を強くしていた。
「うちは代々、寒々しい名前なんだ」
 さっきの自分もだが、初対面でなんてばかばかしいやりとりをしているのか。近衛は笑いながら手を差し出す。
「近衛でかまわないよ、吉野」
「同感だな」
 彼はどこかほっとした表情で、その手を握り返してきた。
 あれから数年が経つが、互いのまぎらわしい名を呼び合ったことはない。


  ◆ ◆ ◆


 近衛雪路は、自宅にいる時間の大半を、書斎で過ごしている。だから執事に案内されるまでもなく、近衛は彼の書斎へと向かった。
 扉を開けるなり、エキゾチックな香りが鼻をくすぐる。自分が来るとわかっているのだから換気くらいしておいてほしいものだと思いながら部屋に足を踏み入れた。
「やあ、六華! よく来てくれた!」
 扉の正面、部屋の突き当たりに据え付けてあるソファから、衣擦れの音も清々しく兄が立ち上がった。
 丈の長いローブ状の衣服は、中華風の仕立てになっている。ゆったりした袖や床を擦りそうな裾は動きにくそうだと近衛はいつも思うのだが、着慣れているせいか兄は器用に裾を捌き歩み寄ってきた。
「元気そうだな。また背が伸びたんじゃないか?」
「……兄さんこそ」
「わたしの背が伸びるか」
 成長期など遠い昔に終えた弟の皮肉を、十五以上歳の離れた兄は陽気な声で笑い飛ばした。
 こうして目の前に立ち、吉野よりも高い目線で見下ろされるたびに、兄こそ伸びつづけているのではないかと腹立ちまぎれに思いたくなる。
 雪路の父は長身だったというから遺伝だろう。残念ながら近衛の父は背丈も中身も平均的で、息子から見ても特別に秀でているところは見つからなかった。ただとても家族思いで、我が子の六華も、自分と血の繋がらない雪路のことも、等しく心から愛していた、という程度だ。
 歳の離れた異父兄弟は、少しも似ていなかった。
 母譲りの、瞳の色以外は。
 そんな親たちもすでに他界し、近衛の血縁はこの兄のみ。兄にも妻はいるが、二人とも若いころから子を作る力を持たない。「黄昏の時代」ではめずらしくもない、もはや病気や異常とも認識されない現象だった。子が成せない人々を「衰退の血」などと蔑む時代もあったが、今では多くの人々が諦念とともにその事実を受け入れている。
「さあ、座ってくれ」
 今まで兄がくつろいでいたソファを勧められるが、近衛は「それ」が苦手だった。スプリングもなく、革や布が貼ってあるわけでもない。木と竹の骨組みに敷物とクッションが乗せてあるだけ。中華かぶれの兄はここで昼寝さえしているが、どうにも居心地がいいとは思えない。
 家族にとっての救いは、兄がこの趣味を書斎の中に閉じ込めて、決して表に出さないことだった。
 部屋の中央を横切りながら、それとなく室内に目を走らせる。右手のアンティークなチェストは、以前はなかったはずだ。前の扉が開きっぱなしで、糸綴りの本が収まりきらずにあふれている。
 左手の机も中華風。山と積まれた本のあいだに、わずかに動く頭が見える。
「ごきげんよう、桃李(とうり)さん」
 義理で声をかけると、蔵書の渓谷から男が顔を覗かせた。重い前髪の下、あまり明るくない室内でもそれとわかるエメラルドグリーンの双眸が、こちらを無表情に見やる。
「……ごきげんよう、六華さま」
 陽気な兄とは対照的に、桃李は必要最低限の挨拶だけよこしてまた頭を引っ込めた。
 この書斎にほとんど住みついていると思われるその男が、兄にとって何者であるのか、弟も正確には知らなかった。漠然と納得はしているものの、面と向かって兄に確かめたわけでもない。少し変わった目の色はこの家ではさほど珍奇ではないが、それを抜きにしても異質な存在であることはたしかだ。
 ただ、彼は兄の聖域である書斎に常時居座ることを許されていて、弟が訪ねてこようが席を外さなくてもいいと兄に言われていること……それが近衛の知っている事実だった。どれほど不穏な密談も、彼から洩れることはないのだろう。
 兄が手ずから淹れてくれた妙な香りの茶を一口すすり、近衛は兄に向きなおる。
「それで、今回はなにをすればいいのさ。図書館の新聞を漁ればいい? 公文書の開示申請?」
 兄は肩をすくめ、急須を盆に置く。
「当たり障りのない世間話から始められないのかおまえは……」
「兄さん相手にご機嫌うかがいしても意味がないじゃないか」
 弟のそっけない言葉に、高い天井を仰いで鼻で笑った兄は、投げやりに長い脚を組んだ。
「わたしだって、好きでおまえに頼むんじゃない。恩義ある人から頼まれて断れなかったんだ」
「そんなことだろうとは思ってた」
 兄自身の依頼がないわけではないが、あまり多くはない。大概は断れないつき合いによるものだ。
「それなら話が早い」
 兄は袖から紙切れを取り出す。ゆったりした袖はポケットにもなるらしい。その異国情緒あふれる出で立ちとは無関係に、兄の声音が事務的になった。
「この人物の出自および前科を知りたい」

東雲梓 男 雑誌記者

 その横には、いくつかの出版社名が記されている。
「歳は二十代半ば、首都で下宿生活をしているようだが、正確な住所はわからない。記者といっても特定の出版社には在籍していないようだ。記事を書いていると確認できたのはそこにある出版社だけだが、他の文芸誌にも書いているかもしれない。
 加えて、彼が今まで世に出した文章……書籍でも雑誌記事でも同人誌でもなんでもいい、彼の署名入りの文章も合わせて探してくれ」
「それは、図書館で調べられると思うけど……」
 問題はその前だ。今までのような、単なる雑用ではない。
「戸籍情報と犯罪履歴は別格だ。ものによっては『閉架』への立ち入りも必要になる……」
「だからおまえに頼むんだよ」
 兄の声はその名のとおり、踏み固められた雪の道のようになる。冷たくて油断ならない。
「『閉架』に入るためには、鍵が三つも必要で、そのための申請も煩雑だ。閉架の利用履歴を消すのだって簡単には……」
 近衛が「できない」理由を述べはじめたのを、雪路は軽く手を振って制した。
「おいおい、伊達に昇進したわけじゃないだろ?」
「……ああ」
 こんなときの兄の笑顔が、近衛は幼いころから好きではなかった。やけに酷薄で、身内の情など通用しないと思い知らされる。頼み事とはいうが、弟に拒否権はない。
 なんのために、と喉まで出かかったが飲み込んで、ポケットへメモを突っ込む。さらに面倒を押しつけられてはたまらない。
「わかった、兄さんの頼みだもの」
「さすが六華、自慢の弟だよ」
 毎度使いっ走りをさせられるのは癪だが、とにかく用件は済んだ。立ち上がろうとした弟の肩に雪路はさりげなく手を置いて、また茶を勧める。
「ところで、近ごろ柘榴(ざくろ)嬢とは仲良くしているのか?」
 これが「当たり障りのない世間話」というやつか、と近衛はあきらめ気分で笑顔を作った。
「もちろん、婚約者だからね。近々また会う約束をしているのさ」
 これは嘘ではない。婚約者の吾妻(あづま)柘榴とは、なにかと用事を作っては顔を合わせている。まだ婚約指輪はしていないが、だれもが認める「将来を誓い合った仲」だ。その実態はさておいて。
「近衛家がつぶれる前に結婚してくれよ?」
 兄にとっては、二人の仲など大した問題ではない。柘榴が吾妻家の令嬢であることが重要なのだ。表向きはさておいて内実はそれほど権力や財力があるわけでもない近衛家が、政府中枢も牛耳るといわれる吾妻家に差し出せるのが、当代では近衛六華というわけだった。
 封建時代の人質同然だと思わなくもないが、近衛自身にとってその先にある優雅な生活が魅力的なのも、悔しいけれど事実ではある。
「それは先方に言ってほしいよ。彼女はおれより仕事を愛しているんだ」
「すばらしいじゃないか。夫婦円満の秘訣だ」
 妻が仕事の関係で地方に出向いていて年に数回しか会えない兄が言うと、負け惜しみにしか聞こえない。近衛が幼かったころは仲睦まじい夫婦だったのに、離れていて平気なのだろうかと他人事ながら思う。
 帰り際、本の山の向こうから申し訳程度の挨拶がかけられる。
「お元気で、六華さま」
 存在を忘れていたから、面食らいながら答えた。
「桃李さんも」
 廊下に出てから、大きく息をつく。
 自分の生家にいるはずなのに、知らない国を訪れてしまったかのような、謎めいたあの空間は苦手だ。
 そして、かつてない厄介な依頼も気が重かった。

 公文書館の保管資料は、窓口で開示請求の手続きを踏めば一般人でも閲覧することができる。
 ただそれなりの手間と時間を要するため、兄は簡易な調べ物ほど公文書士の弟に押しつけてくる。職員といえども公文書をみだりに閲覧することは許されないのだが、そんなことを斟酌してくれる兄ではない。
 さて、と手順を考えた。

東雲梓 男 雑誌記者

 いきなりこの個人名で公文書にあたるのは現実的ではない。雑誌というなら、まずは図書館だろう。
 そう考え首都図書館へ向かった。中央図書館は閲覧に手続きが必要なため、自由に本や雑誌を読んだり借りたりする場所ではない。
 念のため作者名で書籍を探したが、やはり見当たらない。仕方なく、兄のメモにあった出版社の雑誌の最新号を片っ端からめくる。文芸誌が主で、著名な作家や記者でなければ署名のない記事も多い。それ以外の文芸誌まで調べたが、「東雲梓」は見つからなかった。
 閉館時間も迫ってきたので、とりあえずそこで引き上げる。気晴らしにとなじみの店に寄ったが、酒を飲み常連と談笑しながらも、調べ物の件が頭から離れない。つまり、今ひとつ楽しめない。
 不本意ながら、いつもより早めに寮へ帰った。
 部屋の灯りはついていなくて、吉野も帰っていないことがわかる。彼の場合はまちがいなく仕事だ。といっても図書館の閉館時間はとっくに過ぎているから、郊外へ出動しているのかもしれない。あるいは、例の青年とデートか……。
 ワインのボトルとグラスを出してきて、リビングのソファにもたれる。
 最新号に、求める名前はなかった。前の号へ順に遡っていくつもりだったが、雑誌の数が多く思った以上に骨が折れる作業だった。
 兄の口ぶりからすると、その記者は現役のはずだ。二十代半ばというからには、記者としては十年以内といったところか。雑誌によるだろうが、まだ署名入りの記事を書かせてもらっていない可能性も高い。遡っても全く見つからない場合もある、と考えるだけで気力が削がれる。
「もっと他の手はないかな……」
 ワイングラスを手に一人呻っていると、同居人が帰ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
 お互いが疲れているときの会話は、たいていそれだけだ。近衛は頭を使うのに忙しかったし、吉野のほうも今日はもう言葉を発するのも面倒なのだろう。まっすぐ自室に向かう吉野は意識から外して、もう一度兄の依頼を反芻する。
 東雲梓、男、雑誌記者。
 特定の出版社には在籍していないが、複数の文芸誌には確実に書いているという。
 求められている情報は、まず戸籍情報と犯罪履歴。これは厄介だからひとまず置いておこう。
 二つ目は、彼が今まで世に出した文章……雑誌記事でも同人誌でも、とにかく署名入りの文章。
「雑誌でなければ、同人誌……」
 同好の士や学閥など、ある種のグループ内で発行される自費出版の雑誌だが、そこで編集者から見いだされて世に出た作家も多い。そのつながりで記者としての仕事をするようになったとも考えられる。ただ、一般の図書館にはあまりない。首都図書館にも一誌しか見当たらなかった。
「なあ」
 寝る前にシャワーを浴びるつもりらしく、制服を脱いで出てきた吉野を呼び止める。
「同人誌は、中央図書館で見られるんだったか?」
 突然の問いにも、彼は聞き直したりせず、すぐに回答をよこしてきた。
「歴史的に重要なものは、状態によっては非公開の場合もある。近年の発行物だと、発行者が納本したものに限られるな。伝統がある母体や教育機関は、ほぼ確実に納本していると思う。基本的には、よほどのことがなければ通常の雑誌と変わらずに閲覧できるようになっている」
「著者名での検索は難しいな?」
「誌名と発行年月はほしいところだ」
「ありがとう」
 浴室のほうへ手を差し伸べれば、彼は尋ね返してくることもなく近衛の前を横切っていった。
 そうなると、やはり本人の情報が必要になってくる。年齢、出身、学歴、家族の職業、犯罪履歴……。
 どうも「前科」というのが気になる。兄はなにを調べているのか。あまり表に出せない件であることはまちがいないのだが、検索条件が少なすぎる。
「やっぱり、『閉架』に入る必要があるか……」
 なんにしても手間がかかりそうだ。近衛は暫し考え込んだが、つづきは明日にしようとボトルをかたむけた。

 近衛は緊張気味に、その扉の前に立っていた。
 中央公文書館の地下には、非公開文書の中でも永久保存指定された文書だけを保管している「閉架」がある。
 そこへ辿りつくには、まず館の奥まったところにある一階の扉を開け、階段を下りてからまた扉を開ける必要がある。その両方に鍵がかかっているため、一般職員は入室すらできない。鍵は各部署の主任だけが持っていて、つまり近衛は自由に出入りができた……倫理的にはさておき。
 最低限の灯りしかない地下室に入ると、そこには古びたチェストがひとつだけ。書架ですらない。
 部屋の突き当たりには、また新たな扉が待ちかまえている。ぶ厚く重く、荘厳な彫り物がしてあり、目の高さに公文書館の紋章がはめ込まれている。地下室には不釣り合いだが、ただの扉ではあった。
 一点、鍵穴もドアノブもない以外は。
 だが仮にこの扉を物理的に開けたところで、隣に建っている中央図書館の地下室に出てしまうだけ。
 この奥へ向かうための、最後の鍵が必要だ。
 チェストを開けると、その中には拳銃が一丁だけ入っている。
 この銃で人を傷つけることはできない。半分に折れた銃身の弾倉にも、弾は二つしか込められない。そして、通常の銃にはない「鍵穴」がある。
 近衛は左のポケットを探って銃弾を掴み出す。赤く塗られている以外はごく普通の弾だが、銃と同様に殺傷能力はない。
 弾を二つ込めてから、今度は右のポケットに差し込まれた、ブックマーカーを取り出した。細かい細工が施され優雅なカーブを描く金属の小物は、実は栞ではなく銃の使用を「承認」する鍵なのだ。
 弾はともかく、この「鍵」を管理場所からくすねるのがひどく骨の折れる仕事で、それだけで兄には手数料のひとつも支払わせたくなる。
 銃の「鍵穴」に栞を差し込んで、やっと閉架に入ることができるのだった。
 近衛は片手で銃をかまえ、扉の中央に嵌め込まれた灯台の紋章に照準を合わせた。普通の銃よりも反動は数段少ないが、その代わりに一瞬の閃光が放たれて視界が閉ざされる。
 瞬きするあいだに、薄暗い地下室は眩ゆい光に満ちた空間へと変わっていた。

 近衛は眩しさに目を眇め、そして軽く眩暈のする頭を振った。日常的にこの「移動」をおこなっている司書とちがって、公文書士には慣れない感覚だ。
 顔を上げれば、視線の先には背の高い書架がずらりと並んでいる。左右へ首を振っても、書架の列に終わりは見えない。
 これが、中央公文書館の「非公開文書」だった。
 破棄が許されない重要文書のみを、現実の倉庫とは異なる空間に保管する。世界の衰退と反比例して増加していく公文書を、安全に確実にそして無限に管理できる場所、それがこの「閉架」だった。
 司書が本の中へ侵入するのと原理は同じだが、司書と異なるのは、入り口がここひとつしかないこと……つまり、鍵である銃も中央公文書館にしかないということ。司書は専用のガンホルダを装備しているが、公文書士は持ち歩く必要がない。近衛はベルトに銃を突っ込み、目の前の閲覧台に手を置いた。
 ラベルもついていない書架のあいだを闇雲に歩き回ることはできない。基本的にはこの閲覧台の前で、必要な文書を「呼び出す」必要がある。

東雲梓、男。

 目の前の書架が音もなく動き出す。棚は視界から消え、それほど待たずに無数の書架はたった一本になり、手を伸ばして届く位置にファイルが現れた。
 そのファイルを手に取る。前々回、十一年前の国勢調査結果だ。なぜ、前回の結果ではないのかが気になりながら、該当のページを開いた。
「東雲梓……」
 彼は当時十五歳で、世帯主は二十六歳の兄とある。
 他の家族はいないようだ。
「兄弟か」
 少子化が進み、子供がいても一人という状況があたりまえのご時世で、自分のように歳の離れた兄弟の存在にはどうしても意識が向かう。ただ彼らの両親はどちらも同じだった。そっけない調査資料からは、その兄弟仲など知りようもないのだけれど。
 東雲家は首都からいくらか離れた地方の名家で、かなり広大な土地を所有している。梓もこのときは、名家の子息が通う学園に在籍していたようだ。
 兄は長期の病気療養中とある。当主が病人で、その弟はまだ学生。だが住居は代々受け継いできたと思われる屋敷から動いていない。近衛家よりもかなり広そうなのだが、使用人も部屋数や面積に対して少なすぎる。典型的な斜陽の家だ。
 その兄の名で検索してみたが、こちらはなにも出てこなかった。公文書館の保管資料には存在しないということだ。ただ、これだけ丁寧な回答を出していた世帯が、前回の国勢調査には調査票を提出していないことは気になる。現在の戸籍情報は役場に保管されており、ここには収められていない。
 裁判記録などが出てくれば前科もわかるのだが、少なくとも裁判沙汰の犯罪や財産関係の訴訟には関わっていないようだ。ちょっとしたいざこざ程度なら、調書は警察で管理されているからここでは拾えない。東雲梓に関する情報は、これだけのようだ。
 本来ならば、ここで再び銃を出すべき流れだった。
 赤い弾丸は、まず一発目で公文書士という異物をこの「どこにも存在しない閉架」に送り込む役目を果たす。次の一発は、この空間から公文書を取り出すため。撃った本人も強制的に「外」へ押し出される。
 だが秘密裏にここへ侵入している身としては、文書自体を持ち出すことはできない。懐に忍ばせてある帳面に全て書き写すより他ない。
 近衛は東雲梓に関する情報を慎重に写し、再び帳面をしまった。ファイルを閉じて、棚へ戻す。所蔵文書が元に戻った棚は、ここを訪れたときのように書架の群れへ戻った。
 自分だけが出るときは簡単だ。文書ではなく、白い虚空を撃てばいい。
 入ったときと同じように、一度瞬きした直後には、真っ暗に思える地下室に戻っている。
「……ふう」
 胸元に帳面が入っているのを確認し、「鍵」と空の薬莢を抜いた銃を、チェストに戻す。あとは来たときの逆を辿ればいい。階段下の扉を閉め、階段を上った先に人がいないことを確認してからまた鍵をかける。
 冷たい地下室から出てきたというのに、制服の下は汗で濡れていた。そう何度もできる仕事ではない。

 そ知らぬ顔で主任室に戻ると、すぐに冬馬が入ってきた。
「近衛主任、どちらにいらしたのですか」
「座りっぱなしで体が痛くなったから、館内を歩きまわっていただけさ。気分も晴れたし、仕事に戻ろうか」
 冬馬が怪訝な顔をしたのもむりはない。ただ、こちらも「閉架」に無断で立ち入った負い目がある。今日ばかりは、この補佐官につき合って仕事をするのもやむなしと割り切ることにした。

 次の日は、昼休みに隣の中央図書館へ行く。
 利用者なのだから遠慮することはないのだが、それでも和泉には見つからないよう、注意を払って窓口へ向かった。
 東雲梓が通っていた学園の卒業生名簿の閲覧を申請する。連絡先などもそれでわかるはずだったが、そこに彼の名はなかった。留年したのかと思い何年か後まで確認したが、「東雲梓」は卒業していなかった。
「中退ということか……?」
 考え込みながら、ふと兄が言っていた「同人誌」のことを思い出す。窓口の司書に尋ねると、この学園で毎年伝統的に発行されている自費出版の雑誌があるという。彼が在籍していたと思われる期間のバックナンバーを出してもらった。
 東雲梓は、そこにいた。
 初めての寄稿は十四歳のとき。寄宿舎の日常を描いた「作文」だが、子供の手によるものとは思えない大人びた表現が並ぶ。背伸びしている印象はほとんどなく、言葉を使いこなしている。校内で選抜を受けているであろう上級生の文章と並んでも、全く見劣りしていない。
 翌年、十五歳。病床にある兄との交流を、丁寧に描いている。病状というよりは、周囲で世話をしている人々や、たった一人の家族である自分とのやりとりが主で、帰省するたびに悪化していく兄を、まるで励ますような文章は、胸に迫るものがあった。
 さらに翌年、十六歳の彼はいきなり小説を書いていた。文章の凄みは変わらない。ただ、前の二作と比べると、稚拙というのではないが、後半が妙に雑な印象を受けた。小説は得意ではなかったのか、あるいは提出までの時間がなかったか。
 以降の年にはもう彼の作品はない。この十六歳か翌年の十七歳で中退したのだろう。
 その三年分を、司書に頼んで写しを取ってもらう。現像までに少し時間がかかるため、閲覧席に腰を下ろして考えをまとめることにした。
 東雲梓は学校を中退して雑誌記者になったということか。たしかに文章力はずば抜けている。だが、今でも出版社に勤めてはおらず、署名入りの記事も未だに書いていない。
 斜陽とはいえ広大な土地屋敷と、そして病気の兄はどうなった……。
「近衛さま」
 受付の司書が、遠慮がちに声をかけてきた。ずいぶん早いなと思いながらふり返ると、肩をすくめた司書の横に、青筋を立てた主任補佐官が眼鏡を光らせて立っていた。
「主任……本日の業務に、中央図書館での資料検索は含まれていなかったと存じておりますが?」
「ああ……」
 時間切れだ。昼休みがとっくに終わっていることはわかっていたが。近衛は冬馬に愛想笑いを向け、写しはあとで取りに来ると司書に告げた。中央図書館でのサボりは、もう通用しないらしい。主任室で作戦を練りなおそう。

 冷え込む朝、いつものように珈琲一杯を朝食代わりにしている近衛の前で、吉野が新聞を読んでいる。その見出しを見るともなしに眺めながら呟いた。
「『殺人幽霊、正体不明』……三人も殺されたのに、まだ手がかりもないのか」
「らしいな」
 さすがに三度目の殺人ともなれば、ある程度の情報がそろっているはずだと、素人考えで不思議に思う。
「三人とも毒殺、現場には『GHOST』のカード、全員小説家……共通の関係者を洗えば、すぐにでも犯人がわかりそうなものなのに」
 記事に目新しい事実はない。興味がなくとも、これだけ毎日同じ情報をくり返されれば、いやでも記憶に残る。
 最初の被害者は、推理作家の赤芽柏。
 その次に殺されたのは恋愛小説家の唐木秋。
 そして三人目は、純文学作家の能染加須良。
 三人とも同じ小説家という職業ではあるが、分野が異なることもあり、面識は全くなかったという。出身も家柄も経歴も、重なるところはない。
 使われた毒の種類や残されていたカードの写真などは公表されていないため、模倣犯という可能性は低いらしい。しかし動機も容疑者も絞り込めず、家族や友人知人に熱心な読者までが、片っ端から取り調べを受けているとか。
 犯行に使われた毒が、一人目の被害者自身が所有していたものであるという点も厄介だ。推理作家である赤芽柏は、資料としてさまざまな薬品を集めていたという。他にも紛失した毒物や薬品があるかを警察は公表していない。
 狂信者の蛮行、この世からフィクションを消し去る陰謀、そして幽霊の呪い……無責任な憶測は、飽きられるどころか広まるばかりだ。
 吉野は別の記事を読みながら、ぼそりと呟いた。
「四人目が出ないといいな」
「そういえば、おまえは二人目……唐木秋の読者だったか」
 リビングの隅にある吉野の本棚を見やる。三人の作家の本も、背表紙くらいはその中に見かけたことがある。
「読者といえるほど追ってはいないが、文体は好きだった。残念だとは思う」
 この話は終わりとばかりに、彼は新聞をたたんで立ち上がった。コートを着込めばすぐに出勤できる状態だ。
「なんだ、そのタイピン。おまえにしちゃ洒落てるじゃないか」
 胸元に見覚えのない装飾具が目についたので指摘してやると、吉野は決まり悪そうに目を泳がせた。
「もらいものだ」
「この前の、新しい恋人か」
「……………」
 その言い方が彼の癇に障ったのはわかったが、事実は事実だ。吉野は時折、彼自身が決して選ばないような小物を身につけていることがあり、それは大概「そのときの」交際相手から贈られたものだった。
「七宝だな。朱色はうるさくなりがちだが、臙脂のタイには意外となじむからな。紺の制服にも映える。なかなかセンスがいいじゃないか」
 にやつきながら上から評価を下してくる近衛に、吉野はまともに取り合っても仕方がないと思ったのか、コートを取って全く別次元の単語を口にした。
「和泉室長が」
「あの小うるさい片眼鏡がなんだって」
 朝からあのしかめっ面を思い出してうんざりした気分になったところで、吉野が平坦な口調で追い打ちをかける。
「隣の近衛主任が、利用者として来館するのはかまわないが、そのたびに職員を口説いていくのは業務に差し障るからやめてほしい、と言っていた」
 調べ物をしにいっているのが伝わったのか。我ながら目立つ外見は承知しているが、古書閲覧室には関わりがないはずで、文句を言われる覚えもない。
「ただの愛想だよ、おれのために骨を折ってくれる司書への感謝の表れさ」
「安心しろ、中央図書館の司書は無愛想な利用者にも等しく忠実に対応する」
 彼は手袋をはめた手で帽子を頭の上に乗せた。
「今夜は遅くなると思う」
「デートだな」
 だからプレゼントのタイピンをつけているのかと納得がいった。吉野は帽子をかぶりながら近衛を睨みつけ、時計のほうへ顔をしゃくってみせる。
「あ……」
 隣の口やかましい室長よりも、さらに厳しい補佐官が眉をつり上げる顔を思い浮かべる。
 近衛は急いで、ぬるくなった珈琲を飲み干した。

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