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予感《短編小説》
予感がした。誰かがその戸を叩く予感。
おそらくそれは雨粒の、窓にトンと打つ音のせいだろう。そう思っていながら私は、外の灰色から逃げて来た、予感の誰かに胸躍り、古びたソファから僅かに身を乗り出した。今にあの戸が叩かれて、入って来るに違いない。
今、今、とノックの初めを予測して、そうする間にふと、こんな時間に現れる誰かは一体誰だろうという疑問が湧いた。
私に家族はいなかった。いや、いるのだけれど、私には、晴れでも昼でも心配で私の顔を見に来る家族がいなかった。
それに友達もいなかった。いや、これもまたいるのだけれど、私には、私だけを真の友と呼び些細なユーモアを分つような友達がいなかった。
私には恋人もいなかった。これは本当にいなかった。隣に座って静かに微笑み、私の溢した酒をナプキンの端でそっと拭くような恋人が、出来ようとしたことすらなかった。少々この恋人像は古臭くて遺憾だが、私の知り合いは皆大抵、自分の女はこうだと言って踏ん反り返るので、私の中での恋人像も概ねこんな感じだ。
兎にも角にも私には、家族も友達も恋人もいない。それなら私が来ると予感した、今に戸を叩く誰かは誰だろう。
もしかしたらそれは、未だ見ぬ誰かなのかもしれない。私は家の外に出ることが少ない。もともと会いに行くような相手もいないのに、この連日の雨で余計に一人で家に籠ることが増えた。それだから自然と会う人間の数は限られる。その中に、新しく出会う人は極々少数だ。
だからもし、わざわざこんな雨の日に私の家の戸を叩いて現れるのが、まだ名も知らないような人ならば、これほど嬉しいことは無い。
何故なら今日の夜は毎日の何倍も寂しくて、一人鬱々と酒を飲むしかできていなかったからだ。誰でもいい。私に会いに来てくれたなら、きっと私にとって新しい、良い関係を築けるだろう。
きっと濡れた傘を束ねながらその人は、私が戸を開けるとニコリと微笑んで、「生憎の雨ですし、もしや少々暇を持て余しているのでは?」そしたら私は傘を受け取りつつ、「えぇ、それはもう。実は先ほどから、何か誰かが来てくれる。そんな予感がしていたんです」それから「小汚いですがどうぞ」と家の中へ招くのだ。
二人は何時間も時間をかけて、酒を飲み飲み言葉を交わす。
私には碌に気にかけてくれる人がいないと愚痴をこぼすと、そんなの本当は誰にもいないと相手は言う。でも君が来てくれたから私は一人いたと言えるかなと聞くと、「貴方はいいな。誰かが来る予感がするなんて。私は一度もそんな予感したこともない。」と切なそうに呟くので、私は咄嗟に手を握る。数時間前に打たれた雨の冷たさが、まだ残っているような手を握り、「大丈夫。君にもきっと予感がするさ」そう言うと相手は不思議そうに、「何故そんなことが分かるのか。私達はまだ出会って数時間だというのに」「私がきっと、君に会いに行くからだよ」
すると拍子抜けしたような顔が段々と、緩んで私もつられてしまう。「今日は君が来てくれて良かった。お陰で一人きり、雨が止むのを待たずに済んだ。だから今度は私が行くよ。君が一人の場合、きっと君の戸を叩くからね。そしたら予感が、すると思うな」相手はこくりと頷いて、その瞳の中にはきらりと光るものも見えるようだ。
「ありがとう。私も貴方を待ちます、きっと」
二人はそれ以上何も言わずに、そっと互いにグラスを掲げる。そして雨の日の素敵な予感と幸福に満ち満ち、一口喉を潤すのだ。
はっと気付くと、私はソファの背にもたれ掛かっていた。一点に焦点を当てながらぼうっとしていた目が正気に戻ってシパシパする。私はその時、自分の予感がいつの間にかただの妄想と化していたことに気付いた。一体どこからだろう、右手に握られた酒のグラスは空だった。
トントンと窓を打ちつける雨音ももう消えて、窓からはほのかな朝日が差している。時の流れに驚くと同時に、未だぼんやりとした頭の中、自分がどれほど哀れな男かを感じた。全く、これほどまでに自分に幻滅したことはない。惨めだった。夢とも言えない微睡は、わざわざ自分が作ったものだったのだ。私はゆっくりと身体を起こし、この頭が見せた奇妙な幻に頭を抱えた。
するとふと、また予感がした。それはもしや今、戸の向こうに誰かが立っているという予感。いや、流石の私も分かっている。一度なかったことは二度もない。黙ってそんな予感など一蹴すればいい。けれど不思議と、冷静な頭で思えば思うほど予感は強くなる。胸はソワソワふわふわとする。
するととうとう私はそうなった胸を無視できずに、ソファから立ち上がった。そうして大股に一歩一歩と、戸に近づいて行く。誰かがいる、きっといる。そんな予感がしている。
早まる鼓動を感じながら戸を開けると、そこには、ただの一人もいなかった。
またも私の予感は当たらなかった。だが、それはそうなのだが、今回は少し違った。私は予感を外し、誰も立っていない玄関を見ても、がっかりするようなことがなかった。むしろその逆だった。それは玄関のその向こう、小さな庭があるのだが、手入れなどされていない草たちに、連日の雨の雫が降り注ぎ、それが朝日に照らされてキラキラと輝いているのを私は見たからだった。美しかった。それから私が自分で戸を開けて、外に出るのは何日ぶりだろうと考えた。久しぶりにちゃんと吸う、外の空気は美味くて、雨上がりの湿っぽい匂いも鼻から抜けた。小鳥の声が近くに聴こえる。それを感じると、今までどうして外に出ることがなかったのだろうかと思えてきたから不思議だった。
昨日の夜など私は、ずっと家に篭って一人、誰かが来る予感だけを感じていたが、それもただ待っていただけだったのだ。誰かが来て欲しいという願望が、昨日の予感を起こしただけなのかもしれないのだ。
結局のところ誰も私の家には来なかったが、果たしてそれは肩を落とすようなことなのだろうか。
私はふと、昨夜ぼうっと哀れにも一人妄想していた話の中で、「次は私が会いに行く」と誰かと約束したのを思い出した。
ー私を待っている人間が、この家の庭の、そのずっと先にいる。
また予感がした。
そうなると、やはり決まったように胸はソワソワふわふわとし始めた。変な予感だ。
実際、誰かも分からない誰かがどうして私のことを待ってなどいようか。これは雨上がりの外の美しさに感化されて、正常に考えられなくなっているだけではないか。
そんな考えが浮かんではきたが、そう保たずに消えてしまう。
馬鹿みたいに浮かれた心が掻き消してしまう。
私は自分のはやる心にだけ忠実に、いよいよもっと先へと進む一歩を踏み出そうとしていた。
それもその一歩の理由は、ただの予感だ。愚かにも思える、ただの予感。けれどその予感が私をどこかに導いてくれる、そんな予感もしているのだ。
雨上がりの庭は照っている。私はまだ酒が抜けていない。けれどこれ以上ないほど清々しい気分。不安もままある。だけど今はいいだろう。私は昨日私の戸を叩かない誰かに、今日会いに行く。
予感ばかりを胸に行こう。
行ける予感が確かである。