当たり前を失うということ
コロナによって失われた当たり前。
当たり前が失われるたびに、当たり前の素晴らしさ、当たり前の貴重さ、当たり前の幸せさが再認識される世の中。
それはそうなんだけど。
もっと当たり前を失う前に当たり前を大事にできるようになりたい。
2011/03/11 東日本大震災
これは、2018年の夏に訪れた時の旧大川小学校の写真。避難行動の遅さにより多くの児童や教師が亡くなったことで知られています。
3.11で学んだ、当たり前のもろさ。自然の脅威。あの日から9年以上が経ち、過去の歴史の話となりつつあることは、僕自身否めません。
2018年西日本豪雨
これは、僕が撮った写真じゃなくて、拾い画なんですけど。まさかあの平和でどうあがいても警報が出ないような瀬戸内地方で、このような災害が起きるなんて、あの日までは想像だにしていませんでした。幸いにも僕の家族や友人は無事でしたが、京都にいながら不安に思っていたことをはっきりと覚えています。
個人的に「日本ってどこにいても危険なんや」って思わされた、非常に嫌な意味で印象深い出来事でした。
この2つ以外にも熊本地震だったり、北海道地震だったり、毎年のように起こる豪雨だったり、自然の恐ろしさを見せつけられ、かたや大量殺人の事件が起きたり、あまりにも不運すぎる事故で人が亡くなったり…
少なくとも、「当たり前が幸せだと知」る機会はいくらでも転がってるはずなんですよ。
でも、気付いたことがあって。
これまでの出来事って、どこか他人事だったんですよね。
東日本大震災は広島にいた僕に大きな影響を与えなかった。西日本豪雨の時は京都にいて安全だった。家族や親族には「天寿を全うした」以外で亡くなった人はいない。友人にだって恵まれている。
どこまで当事者意識を持てるかってのは本当に人それぞれだと思うけど、少なくとも過去の出来事は、僕の猫の額ほどの「当事者意識」の中にはどうも入らなかった。
2020年 コロナ騒動
でも、コロナだけは、これまでのことと違う。
圧倒的に、僕の生活に影響が及んでいる。
所詮、僕はこの程度の人間なのです。自分の生活に直接影響があって、初めてジブンゴトに落ちてくる。それほどの小さな人間なのです。
でも、多くの人って、そういう面を少なからず持ち合わせてるんじゃないかなって思います。多分、ユーラシア大陸ほどの大きな大きな当事者意識を持てる人って少ないんじゃないかなって。
だからこそ、このコロナを、あえて、頑張って、ポジティブに捉えるとしたら、コロナ後に当たり前を大事にできるあたたかい人になれるかもしれないってことかなって思います。
でも、もう、当たり前を失う虚しさはわかったからさ。
もういいでしょ、神様?
※コラム「群青」
これは、石巻のひまわり畑の写真。ここも震災前は人が住んでいたそう。今自分が踏みしめる大地が、ちょっと前まで人の営みの場であったことを知らされた時の衝撃はすごかったです。涙が出てきました。
そんな東日本大震災に関連した合唱曲に「群青」というものがあって、これがすごく好きなんですよね。メロディもそうだし、今日のテーマの“当たり前の儚さ”を歌った歌詞があまりにも美しすぎて。ぜひ聴いてみてください。
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