「下書き、ほか」2023年10月13日
7月の終わりに書き残した下書きを見つけた。
それから約2ヶ月半、結構文字数書いていたので載せてみる。
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前回の更新から約1ヶ月が経ってしまった。
7月は怒涛で色々あった、記録としてnoteに残せれば良かったのかもしれない。
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7月14日
宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』を、としまえんの映画館で観た。
面白かった。
初めて観たときはストーリーの整合性を掴めなかったが、多層的に表現された宮崎駿という人間と、本田雄の作画、そして久石譲の音楽が相まり、アニメーションとも映画とも呼べない、限界を越えたもの凄い何かのように思えた。
視覚的には、これまでのスタジオジブリ作品や芸術作品を基にした抽象的な世界観と、随所に登場する似つかわしくないSF的な描写が印象に残る。
加えて、エンディングに私が約10年間追っているアーティスト、米津玄師の楽曲が流れた時は感極まった。昨年の『POP SONG』以降、楽曲はあまり私の好みじゃない方向性だったが『地球儀』は私の好きなアルバム『STRAY SHEEP』辺りの雰囲気をブラッシュアップした楽曲だった。
友人の反応は微妙だったが、若手アーティストの起用は、宮崎駿が令和でも戦うという意思表明に思えた。
作品を鑑賞した後、遊園地の面影が一切なくなった、としまえん跡地を越えて、練馬春日町駅あたりまで歩いた。歩きながら、この映画は芸術の肯定であると個人的に解釈し、勝手に勇気づけられた。その時の世界が拓けて見えた感覚を覚えている。
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7月13-18日
オープンキャンパスとゼミ展。
本で埋め尽くされた部屋で、ゼミの活動を紹介する展示を行う。開催の約3日前まで部屋は荒れ放題で、本当にここで展示らしい展示を行えるのかと不安だった。しかし、結果的に本で埋め尽くされているという特性を活かす、しっかりした展示を行うことが出来た。
展示の計画を立て、2日前から設営を始めた。
最初はとにかく部屋を整頓しようと、書類で散乱する机と、延長コードと椅子が散乱する床を片付けた。部屋を片付けるだけでまとまった空間になる。
そして、本棚と机に積み重なる本を整頓して、学校の近くにある材木屋で展示に用いる木の板を購入。とにかく非力なので、一人で3×6サイズ12ミリの板を2枚運ぶのが大変だった。軍手も何もしないで買いに行ってしまったので手が死ぬかと思った。
展示に用いる素材は用意していただいたので、そこからは気持ちいいほどサクサク設営が進んだ。その結果、展示の前日に映画(君生き)を見に行く余裕が出来た。
オープンキャンパスから2日後、ゼミで主催する飲食イベントが行われた。予想よりかなり多くの人が集まり驚いた。イベントのために購入した私の好きなビール、BREWDOGが一瞬で無くなった。イベント中、後の二次会でも調子に乗ってビールやワインを飲みまくったせいで最終的にエグい二日酔いになってしまった、めちゃくちゃ吐いたことを覚えている。
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7月20-22日
7月22日は9時から17時までぶっ通しで、4年生約70人による卒業制作(卒業研究)初回プレゼンテーション。
私のプレゼンは先月のnoteに書いたことなどを基にした内容だったが、結論として卒業制作展で何をするのかについては明言せず、というか考えていなかった。まだ7月だからか、全体的にもプレゼンの内容はふわふわしていた印象。
プレゼンまではとにかく、私のこれまでの制作をマインドマップで振り返った。それでも尚、今の私が卒業制作で何をすればいいのかが未だにわからない。ただ、それでも現在はとりあえず直感的に作りたいと思ったものを作ろうというマインドで、ここ1週間は引きこもって徹夜でずっと絵を描いていた、それは後に。
私の所属する芸術文化学科の卒業制作は基本的に論文だが、作品展示を行うことも出来る。というか、ここ数年は論文よりも作品展示の方が多いどころか、論文も展示を行う必要があるため、論文の装丁や設置する什器、概要を示したパネルを凝る人がほとんど。昨年度の卒業制作展を見る限り、全員が作品展示を行っているような印象を抱いた。加えて、作品展示を行う人も7,000字前後のレポートを執筆する必要がある。ここ数年の変化で芸術文化学科の卒業制作でやることが増えた。
教授曰く作品展示の人は、展示した作品と執筆したレポートに乖離が見られる傾向にあるらしい。
芸文の卒制は論文でも作品レポートでも、参考文献が30冊以上必要であり、教授からの指摘も相まって、その内容は学術的なものになる。しかし、作品制作は基本的に学術的な知見を参照しないだろう。というか、どれだけその知見に基づいた作品を制作しようと、前提としてそれは個人の経験や感情に基づいた表現であるため、乖離は生じてしまうのは必然であると考える。そうなると、作品展示でこの卒制を乗り越えるためには、とにかくまず作品を制作して、そこから批評的な観点に基づいてレポートを執筆するのが近道だろう。プレゼンを通してそんなことを考えた。
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7月24-29日
この期間は学芸員課程の最終科目、博物館実習。
芸術文化学科の学芸員課程の履修者は約50人で、そのほぼ全員が『武蔵野美術大学美術館・図書館』で実習を行う。他の大学には無い、唯一無二の博物館実習なのかもしれない。
大人数のため、実習は基本的に大学内の講義室のような場所で、美術館の関係者による講義やグループワークを行うものだった。実習の当日まで具体的に何をやるのかについて殆どわからなかったため、こんな大人数でどうやって実習を行うのか気になっていた。
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下書きはここまで。
それから約2ヶ月、言及していた卒業制作の方向性はだいぶ見えてきたが、まだまだ。同じく最終提出まであと約2ヶ月、短いようで長いようで短いのか……。
卒業制作は結局、女の子のキャラクター(美少女キャラクター)を描く絵画を中心にしようと決めた。レポートを執筆するにあたり、美少女キャラクターは漫画、ゲーム、アニメ、スーパーフラットなど、切り口が非常に多いため、どこを主軸にするのかが未だに定まらない。
そんなところだが、先ほど自身の描く美少女キャラクターについて初めて言及したnoteの記事を見つけた、誕生日に書いた。
後の記事でも一度触れた気はするが、上記の通り私には性愛を巡る矛盾とコンプレックスを抱えている。最近はあまりコンプレックスのようには感じられないが、潜在的に思っていることは確かだろう。
これは私にとって向き合いたくない問題ではあるが、こうなってしまってはしょうがない、割り切ってこの部分と改めて向き合う必要がある。嫌だな〜〜〜〜〜
ここ数日でリサーチを多々行い、美少女キャラクターのあり方は数十年前と現在で全く異なるのではないかと考えた。
「萌え」から「推し」へ。かつては美少女キャラクターを自らの理想とする他者として捉えていたが、現在は美少女キャラクターを自身の存在、主体そのものとして捉えている節があると考える。その要因としてインターネットによるメタバースやVtuberの存在などがあるだろう。
昨日レポート執筆の参考にしようと思い、約半年前に関心があった布施琳太郎の論文をまた読んでみたが、現在の私の研究テーマに大きく繋がる内容だった。
前半ではインターネットとの接続により主体性が失われる中で、身体がモジュラー化されているという言及が行われていた。この感覚はものすごいわかる、論文でも言われていた通り、Vtuberはまさにモジュラー化された身体の象徴だ。当時はあまりピンと来なかったが、まさにVtuberにどハマりしている現在はめちゃわかる。
誕生日の記事でも言及していた私の「女の子」になりたいという願望は、モジュラーとしての身体を求めているということであり、自身の魂、ココロまで「女の子」になりたいという訳では無いだろう。だからこそトランスジェンダーでは無いという但し書きが付いている。
先ほど友人がこの研究はジェンダーに関する問題だと言っていたが、いまいちピンと来なかったのはこの部分に原因があるのかもしれない。しかし、私が「美少女キャラクター」と呼んでいる以上、その問題も無視できない。それでも最近私が描いているキャラクターを「美少女キャラクター」と呼んでいることに対して違和感を感じていた、もしかしたらこの呼び方を新たに考える必要があるのかもしれない?
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という訳で疲れた、おいおいおいおい考えていく。
また明日〜〜〜〜〜