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【短編】その鳥籠から擦り抜けるワルツ(中編)

振り返ると、ひとつだけ。
若様との数少ない想い出の中、ひとつだけその距離を近くした出来事があった。

確か、当時私は小学生になったばかり。そこから計算して二つ上の若様は九歳かそこら。その頃はまだ若様も足繁く我々分家の里に通い、私やウツシちゃんたちとの触れ合いを多く持っていた。

その日も里を訪れた若様と私たちはかくれんぼをして遊んだ。
何せ、田舎だ。集落を離れ、少し足を伸ばせば、そこいらに朽ちかけた小屋や物置があった。
何せ、子供だ。たかだか遊びに躍起になり、危険を顧みずそうした荒屋に踏み入った。

そして、出られなくなった。

最初にそこに入ったのは私だった。ほんの出来心で、普段大人から禁止されている区域に立ち入り、その小屋を見つけた。立て付けの悪い戸を両手で開け、中へ。入った瞬間、その異様さに気がついたため、すぐ出ようとした。

しかし、出られなかった。開いたままの戸、すぐ目の前に陽が差す景色が広がっていると言うのに、透明な壁が私を阻んだ。何度試しても駄目。違う出口はなく、天井近くにある細い窓には、届きそうもない。届いたところで縦に格子が入っており、いくら小さな身体の私とて、通ることは明らかに難しそうであった。

次に入ったのは若様だった。かくれんぼの鬼。「そんなところにいたのか」と小屋に踏み入り、私と同じ状況になった。透明な壁に阻まれ、外に出られない。「何だこれ」と幾度も試すが、結果は同様。私ですら通れない窓については、選択肢にも上らない。

普通の人間ならば、突如として現れた不可思議を前に右往左往するのだろう。しかし幼少より霊と祓い、それに纏わる各種知識を刷り込まれていた私たちには、これはもしやという予感があった。

『呪い』。

百年祓われることのない霊は呪いとなる。
一族の者なら1+1より早く教わるそれは、複雑怪奇な事象に対峙した際、真っ先に我々が値を埋め込む公式だ。誰が証明した訳でもないそれを、年端もいかぬ子供から年老いた大人まで、地動説と同じレベルで盲信している。

厄介なのは私たちが日頃人ならざるものに触れ、その手の超常現象に慣れ親しんでいるところだ。もはや多少の不可思議は我々にとっては『常』を『超』えず、当たり前にあり得るものとして存在している。『呪い』がいかなるものか、その実わかりきってはいない身でありながらも、「たとえそうであってもおかしくない」と受け入れるに足る土壌が、ゼロ歳からの英才教育により耕されていた。

そして、もうひとつ。

「牢屋、かな」

まだ声変わり前の若様が、小屋の中を見渡し呟いた言葉に、やはりそうか、と納得したのを覚えている。
壁に留められた、鉄製の手錠。重苦しい黒を讃えた鉄球、鎖。奥の隅には、便所と思しき木板で区切られた暗い穴。そのすべてが錆び、朽ち、果てようとしながらも、そこに残る負の感情は形を崩さず原型を保っているかに見えた。
そこがいつからこのままなのか、かつて何のためにあったものかはわからない。ただ、現代においてなお一族に蔓延る不当なしきたり、歪んだ価値観がこの場所を生み出したであろうことは、まだ幼い私にも容易に想像ができた。

『呪い』かも知れない。そう思うに至る要素は十二分にあった。試しに見えない壁に向け、若様が六角形を描いてぶつけてみたが、駄目だった。それまで見た中で一番大きく、輝きの強い六角形だったが、駄目だった。
霊に対する『祓い』では対抗できない。では『呪い』に相対するには、何が有効であるのか。残念ながらそれについての教えは無く、思えばそれは当然で、『呪い』が生じる前に元を断つのが私たち一族の使命であった。

では、どのようにしてそこを出たのか。

確か私が……

「どうした」

黒いスーツの男に呼びかけられ、私は現実に戻る。見上げると、癖のある前髪に隠れた細い目が、鋭く私を射抜いている。

「……いえ、失礼しました」

前を向く。目の前には、もはや見慣れた雲海の襖。こうして対峙するのも、今夜で四回目だ。通い始めて一ヶ月。黒塗りの車に運ばれ、裏口から屋敷に入り、この黒スーツの男にここまで案内される流れが、毎週のルーティンとなっている。

いつもはここで去っていくところ、しかし黒スーツはいまだ私を睨んだまま、場を離れようとはしなかった。

「ひと月」
「え?」
「およそひと月も繰り返し呼ばれているというのに、一向に艶っぽくはならないな、お前は」

かちん、と、ぎくり、が同時に来る。

艶っぽくならなくて当然だ。週一日、朝までの時間を共にしながらも、互いに指一本触れぬまま、頭脳労働に勤しむのみ。多少仮眠はとるものの、勉強時間は深夜まで及ぶ。むしろ睡眠不足で、肌荒れが気になるくらいだ。

しかし、それを悟られてはならない。実態は家庭教師であったとしても、あくまで周囲には『夜伽』と思わせなくては。特に若様の側近と見られるこの男に対しては、勘付かれぬよう注意が必要だった。

なんとなく勘が鋭そうだしな、この男。

目を伏せ黙ったまま、というリアクションがつまらなかったのか、黒スーツはようやく私から目線を逸らし、鼻息を漏らした。

「あのバカ王子がここまでご執心な女なら、折を見て味見してやろうかとも思ったが。残念なことに、まるで食指が動かん」

…………それは残念だったなぁ、下衆野郎。

『バカ王子』とは言い得て妙だが、そういうお前は『クソ執事』だ。口の端が歪みそうになるのを堪えつつ、心の中で悪態をつく。

「また朝来る」。ぶっきらぼうに言い残し、髪をひと掻きして黒スーツは去っていった。
薄暗い廊下に取り残され、再び雲海の襖に向き合う。

「……ひと月、か」

息を吸って気を立て直し、襖を開け、中へ。踏み込んだ勢いのまま、薄暗い畳の間を突き進み、奥の襖の前に立つ。

「入るわよ」
「どうぞ」

目の前のそれを開けると、白色灯が放つ明るさと共に、眼鏡姿の美男子が私を迎えた。

「やぁ、ミノ」

第二次性徴後の、しかし男性にしては高く細い声。一方で、シャープペンシルを片手にこちらを見つめる顔は、先ほどの回想にいた小学生姿と同様、どこか無防備で可愛らしい。そこがかえって憎らしく、何の因果でこんなことをしているのか、ため息を吐きたくなる。

「はぁ」
実際吐いた。
「どうしたの」
「なんでもないわ」

訝しげに眼鏡の位置を直す若様。ちなみにこいつは伊達眼鏡であり、私が用意したものだ。無骨なプラスチックの黒フレームで、街中にある百円ショップで購入した。「視界が狭まって見えづらい」と本人は嫌がったが、「視界を狭めることで集中力を上げる」と説得し、着用させた。

もちろん嘘である。

実際のところ授業に集中できないのはこちらの方で、当初、ビジュアル満点の教え子に見惚れ、意識が逸れる危機に幾度も見舞われた。故に、眼鏡。少しでも顔面偏差値を下げてやろうとの思惑だったが、あにはからんや、眼鏡姿は眼鏡姿でぐっと来るものがあり、逆効果であったことが後にわかった。これまでとんと響かなかったはずの嗜好に目覚め、しばらくその手の画像検索に余念がなくなる事態に陥った。

まだ自分用のスマートフォンを買ってもらっていないので、母の目を盗み、家の端末を利用して。
痕跡を残さぬよう、いちいち履歴を消している自分に、恥じらいと呆れを覚えながら。

本当、何をやっているんだろう。私。

「え、なんか怒ってる?」
「別に」

部屋の中央、ローテーブルに積まれた参考書や広がるノート、無作為に散らばった筆記具たちには温もりが宿り、完全に受験生の装いだ。私は観念し、学習机のペン立てから、ノック式の赤ボールペンを抜き出した。

授業と言えど、私の方針はただひとつ。ただひたすらに問題を解かせる、それだけ。予備知識があろうが無かろうが関係ない。トライ&エラーの積み重ねの中で、弱点を洗い出し、克服していく。それが一番手っ取り早い。

「何やってたの。英語?」
「うん。長文和訳」

差し出された答案用紙を受け取る。几帳面な文字で手書きされた和訳文を、問題文の英語と照らし合わせ、ざっと確認。長文でありながら、致命的な誤りは見つからない。私はあらためて回答をチェックし、二、三赤ペンで下線を引いた上で、その紙を突き返した。

「ここでいう"after all"は『結局』という意味の慣用句。あとここは単純に単語の意味が違う。文脈から当てずっぽうで読み取ったのだろうけれど、惜しかったわね」
「正解は?どういう意味なの」
「辞書で調べて」
「スパルタだなぁ」

ぶつくさと言いながらも、本棚から英和辞典を抜き出す若様。
素直で勤勉、良好な授業態度。
そんな様子を眺めていると、再び憂鬱になってくる。

困ったものだ。

家庭教師を始めて一ヶ月ほど。当初はハードルが高かった敬語禁止も、幾度も嗜められるうち、板につき始めてきた頃合いの今。純粋に教師として通知表をつけろ、というのなら、我が生徒のそれは二重丸だらけである。

このバカ王子、バカではあるが馬鹿ではない。

学習において「わからない」で躓くことはほとんどなく、課題の大半は「知らない」ことに起因する。それは他の教科においても同様で、数学では公式を知らず、理科では法則を知らず、社会では世間を知らず、それら知識を要さないからか国語は元よりよく出来た。わからぬものを理解するのは難しいが、知らぬものは知れば足りる。極論、独学で十分賄えるレベルであり、このペースでいくと、私が教えられることがなくなる日も近い。

問題は、その優秀な生徒に教鞭を振るっている理由が、一世一代の家出計画のため、という点だ。遊びではない。誰にも気づかれぬよう秘密裏に実行すべく、わざわざ『夜伽』として呼び寄せるという徹底ぶりからも、当人の本気度が伺える。

一族最強、なんなら一代飛ばして次の当主に選ばれかねないほど有力な跡取り。その期待の星が、こともあろうか進学を目的に家を出るつもりなど、広く知れれば、本家にも分家にも混乱が巻き起こる。人知れず事を進めようとしているのは、そうした周囲に与える影響を考慮してのことだろう。

本気だ。
本気であるからこそ、困っている。

「ねぇ」

消しゴムをかける手を止めて、こちらを向く若様。

「何」

曇りのない瞳。呼びかけてしまったことを後悔しかけたが、しかし、ここに来てひと月。そろそろ頃合いというものだろう。

ひとつ咳払いをしてから、私は続けた。

「あなたの頑張りは認めるし、水を差すのは忍びないのだけれど」
「うん」
「無理じゃないかしら」

きょとん、とした表情。眼鏡が鼻先へとずり落ち、形の整った目がレンズを通さず、こちらを捉える。

「え、何が」
「家を出る、という話よ」

当初から引っかかっていたところだった。

高校受験に合格し、通学のために家を出る。若様の計画はこれ一本であり、その先の展望が見えない。試験に受かり、入学するまでは可能だろう。その後はどうする。夜逃げでもするつもりか。では逃げた後は。住むところを探して、生活を続けなくてはならない。一番のネックは金銭面だ。最強の祓い師。これまで稼いだ分、いくらか貯蓄があるのかも知れないが、学費も込め、数年を賄えるほどとは思えない。

「そして何より」一番言いづらいところに、私は踏み込む。「大父様がゆるさない」

そう。
一族の長であり、絶対的なルールブック。一滴でも祓いの血が流れる者なら、逆らうことは叶わぬ存在。徹底した実利主義により、一族の繁栄をいの一番に考える大父様が、稼ぎ頭たる若様を野に放ったままでいるなど、あり得ない。

「断言する。たとえ逃げたところで、すぐにここまで連れ戻されるわ。学校側に働きかけ、退学を余儀なくされる。口座を止められ、困窮する。それぐらい訳なくやれる人なのよ。何の根回しもせず家を出るなど無謀だし、根回しを試みたところで、そもそも相手にされないでしょうね」

だから、無理だと思う。

そこまで言い切って、私はひとつ息を吐いた。胸の支えが取れたような感覚と、その支えが取れたことによる揺らぎを同時に覚える。

このひと月、『処罰』との名目に従い計画に加担しながらも、果たしてうまくいくものか、絶えず疑念を抱えていた。抱えながらも、当人の気を削ぐことが憚られ、言い出せぬままでいた。

でも、これでもう終わり。
夢から覚める頃合いである。

私は若様を見つめる。子どもの夢を踏み潰したかのような後味の悪さを覚えつつ、ただ黙って反応を待つ。

若様は純真な光をいまだ瞳に湛えたまま、

「そうかなぁ」

人差し指で頬を掻き、えへらと笑ってみせた。

あぁ、やはり、と思う。

わからないわけではない、知らないのだ。
公式を知らず、法則を知らず、世間を知らず。

そして、身の程を知らない。

当然だ。
境遇が違う。純血に生まれた、最強の祓い師。力の発動は遅咲きなれど、身の丈以上の六角形を、十代の若さで難なく描く。およそ祓いの世界に身を置く者ならば、誰しも羨む才を持ち生まれてきた。
環境が違う。本家に生まれた、当主の血筋。一度は分家に預けられながらも、英才教育の下、最上の形で力を磨き。一族の誰もが寄せる期待、そのどれひとつをも裏切らず、さらには上回る格好で応え続けてきた。

慢性的な万能感。初期値としての全知全能。
身の程など、学ぶ隙がない。
結果として、できることとできないことの区別がつかず、不相応な願いに手を伸ばしてしまった。

馬鹿ではないのに、バカになってしまった。

幸か不幸か、ここにいる限り、バカでも生きていけるのがこの男だ。
対して、私は。

「ごめんなさい。これ以上は付き合えないわ」
「え」

感情の波に押し出されるようにして、私は手にしていた赤ペンをテーブルに置く。

ここまでするつもりはなかった。しかし、一度動き出した思いが止められない。

「ミノ?」
「さっきも言った通り、この計画には無理がある。必ず破綻する泥舟よ。あなたにその自覚がないならなおのこと、危なかしくて乗っていられない」
「待って」
「いい?」語気が荒くなる。「今のままでは、必ず大父様に連れ戻される。それだけならばまだいいわ。でも現実は甘くない。あなたは勿論、こんな馬鹿げた計画に加担した者にも、何らかの処罰が下るでしょう。きっと私も、おそらく私のお母さんも、この一族にいられなくなる」
「そんなことはさせないよ」
「あなたの意思は関係ない。大父様がそうと決めたら、そうなるの」

頭の中、かつて閉じ込められたあの廃屋の姿が浮かぶ。
鉄枷が設置された独房。かくれんぼの最中、閉じ込められた私と若様。
今だって変わらない。この家の血が流れている以上、私たちは決して出られぬ檻の中だ。

それを日頃から、身に染みて思い知らされている混血と。
身に覚えもなく育て上げられ、未来を夢見る純血の違い。

そう、違うのだ。

苛立ちに拍車がかかる。

「ねぇ、どうして家を出る必要があるの。ただ学びたいだけなら、他にもやり様があるじゃない。メディアもひとつやふたつじゃないし、通信制の学校だってある。それで不足があるならば、それこそ私を呼んだように、誰かしらのサポートを受ければいい」
「…………それじゃあ、駄目だ」
「何が駄目なのよ」

若様は、何か言い淀んだ顔つきでしばらく黙り、呟くように答えた。

「人の心」

突拍子もない単語の出現に、身体が固まる。

「……は?」
「初日にお前が言ったろう。人の心を学べ、って」若様は続ける。

これまで「祓え」と命じられれば、どんな霊も祓ってきた。それが自分の使命であると信じ込み、疑いもなく点を六つ打ってきた。

「でもある時を境に、その正しさが揺らぎ始めた。自分のやっていることが是が非か、わからなくなったんだよ。待ってくれ、と叫ぶ霊、やめてくれ、と懇願する霊。それまで鼓膜を震わすだけだった彼らの声が、胸まで届き、響くようになった」

祓わなくてもいいんじゃないか。
祓わなくてよい霊もいるんじゃないか。
そう思い始めた。

「……世の祓い師が聞いたら、卒倒しそうな話ね」私は言う。「忘れたのかしら。百年祓われなかった霊は『呪い』になる」
「確証はないよ」
「でも、『呪い』はある。あなたも私も体験したでしょう。あの日、あの廃屋で私たちを阻んだものは、明らかにそれと呼んでよいものだった」
「それもまた、祓われずにいた霊によるもの、とは断言できない」
「逆もまた然り、よ」膝の横、拳を固くしながら、私は続ける。「祓われずにいた霊の仕業でない、とも言い切れない。だからこそ、その危険性を排除するのが、あなたたち祓い師の仕事でしょう」
「言いたいことはわかる。でも、このまま一族に言われるがまま祓いを続けることが、どうしてもできなくなってしまった。祓うべきか、祓わざるべきか。自分で見極める環境が欲しい。力が欲しい。そう願うようになった」

だから、家を出る。
ここではない世界を知り、ここにはない善悪を知り。
ここに縛られず、祓うべきを祓う。

「…………傲慢よ」
「かもしれないね」

なんて贅沢な。なんて身勝手な。

祓えるくせに。どんな霊でも祓えるくせに。
世を救うに足る、絶大な力を持っているくせに。

「なおのこと承服しかねるわ。計画が杜撰なだけでなく、そんな独りよがりの自分探しが動機だなんて。同じ一族にいる者として、このまま手を貸し続けるわけにはいかない」

若様は何も言わず、ずり落ちていた眼鏡の位置を指先で直す。
レンズと手の甲で隠れたその顔に向け、私は言い放つ。

「申し訳ございません若様、私がご一緒できるのはここまでです」

一礼して、勢いのまま部屋を出る。
呼び止める声はない。

後ろ手に襖を閉めると、白色灯の光が途絶え、たちまち私の体は薄闇に包まれた。

驚いたことに、裏口から外へ出ると、いつもの黒塗りの車が待機していた。ずっとここで待っていたとは思えず、手配するとしたら若様しかいない。喧嘩別れした相手に温情を向けられるとは決まりが悪いが、さすがに徒歩で帰れる距離ではなく、ありがたく使わせてもらうことにした。

無言かつ無表情の運転手にドアを開けられ、後部座席に乗り込む。この男は何と聞かされているのだろう。時刻は二十二時前。『夜伽』がこんな時間帯に家に帰されるとは、何かあったと訝って然るべきだ。そんな素振りを一切見せず、淡々と仕事に就く姿勢はプロフェッショナルの鏡であり、そのブレないノーリアクションが逆に私を安心させた。

だから、頼んだ。

「向かって欲しい場所がございます」

このまま母の待つ家に帰る気には、どうしてもなれなかった。私の心情を慮りながらも、私以上に一族の価値観に身を晒し続けてきた人だ。一族当主の血筋の者から、我が子が寵愛を受けていることを、どこか誉れと感じている。こんな時刻に帰れば、余計な心配をかけてしまうだろう。もう『夜伽』として本家に通うことはないなんて伝えようものなら、卒倒するかもしれない。

いずれは避けて通れない。そうはわかっていても、今夜これからそれをするには、どうしても気力が湧いてこない。

行き先を告げると、それまで機械のように動いていた運転手は、初めて逡巡する様子を見せた。

「あそこは禁区です」バックミラー越しに目を合わせ、運転手。
「知っています」私は答える。

そのまま視線で語り合う攻防が続いた。責任は自分で取ります。顔を逸らさぬままそう言うと、運転手は黙って頷き、静かに車を発車させた。

闇の中、濃い群青に染まった景色が流れる。窓ガラスに映る自分の顔が視界に入ることのないよう、額がくっつく近さでそれを眺めた。
先ほど、あの部屋で交わした言葉の数々を反芻する。そのひとつひとつを飴玉にし、舌の上で転がすように。どれもが苦く、尾を引いて、それでありながら次を舐めずにはいられない。後悔に塗れたそれらを溶かし尽くし、その中にある自分の正当性を確かめなくては、気が持たない。

しかし、どれも空っぽだ。飴玉の中には何もない。そこにあるのは「正しい」と信じ込む私の舌先だけであり、それは醜い動物のように蠢いて空を切る。

これでよかったことは間違いない。
ただ、これしかなかったとは思えない。

「着きました」

初回から数え、都合八回目となる運転手の台詞を耳に、窓ガラスから額を離す。いつもと同じ「着きました」だが、停車した場所はいつもとは違う。屋敷でも分家の集落付近でもなく、ただ闇に沈む廃墟の一帯。

禁区。かつて私と若様が閉じ込められた、あの廃屋があるエリア。

「ここで待ちます」
「いいえ、去ってください」運転手の声に、間髪入れず答えた。ドアを開け、外に出ようとする。慌てた様子で運転手もシートベルトを外し始め、それを制するように、私は告げる。「お願いです。子どもに映るかもしれませんが、『夜伽』を務めたひとりの女です。自分の足で帰りますので、どうかこの場は」

お世話になりました。頭を下げて、外へ出る。運転席側の窓ガラスの前に周り、改めて一礼を。そのまま振り返らずに、禁区へと足を向ける。歩を進めてしばらくの後、背後より車が動き出す音が聞こえ、遠のく。

禁区の周囲は、記憶のそれと同じく木塀で囲われていた。当時は見上げると首が痛くなるほどの高さだったが、今はそうでもない。風雨に晒され朽ちかけている塀の真ん中一箇所、それが途切れた入り口に行き当たる。門も扉もない。ただ数メートルの隙間。

躊躇うことなく、中へ。
乾き切った土を踏み、左右に荒屋が並ぶ中を進む。

『かごめ小屋』まで行ってください。私は運転手にそう告げた。長らく禁区とされる、この塀で囲まれた一帯、その俗称である。
『かごめ』とは、大昔に使われた『夜伽』の呼び名だ。『駕籠』の『女』と書いて『駕籠女』。当時、対象となる女は夜になるとここに集い、駕籠に乗せられ本家へと運ばれたことから、その名がついたと言う。

今にも増して胸糞悪くなる慣習だが、嫌悪を催すのはこれだけではない。

『駕籠女』の中には、屈辱に耐え切れず逃げ出そうとする者、逆に夜を共にした純血に恋慕を抱き、道ならぬ想いを抱く者が現れた。そのような者は捉えられ、牢の中、赦しが出るまで鎖に繋がれ過ごしたと言う。

『かごめ小屋』では、中央の通りを挟み、向かい合う形で建物が並んでいる。片側一方はこれから駕籠に乗せられる女が、もう片側には捕らえられた女がそれぞれ収容され、互いに互いを見つめ合う形で夜を過ごした。

つまり、見せしめ。

大それたことは決してするな。お前たちもああなるぞ。脅しの役割を果たすべく、夜間、牢の扉は開けられたまま、囚われた女は痛々しく衰弱する様を晒され続けたと言う。

あの日、私たちが閉じ込められたのは、そんな牢屋のうちのひとつ。
おそらくは、鎖に繋がれたまま、命を落とした女性がいた場所。
『呪い』が生まれてもおかしくはない。

その廃屋の前で、私は足を止めた。閉ざされた戸、しかしそこには、あの日私が開けた無骨な穴がある。間違いなく、あの牢屋だ。

今ここに入れば、また閉じ込められるだろうか。理屈上、当時と同じ方法で抜け出すことは可能なはずだ。いまだ『呪い』が生きていたところで、きっと戻れることだろう。

頭上を見る。思いのほか月が眩しい。
それでも闇は闇のまま。

自分がいかなる思いでここに来たのかは、明確にはわからない。ただ、逃げる先としては、ここが似つかわしい気がした。ここで一夜を明かして、帰るべきだと思った。

が。
いざとなって見れば、そんな思いは消え失せた。

感傷に任せ、目一杯の我を張ってここまで来たものの、視界を奪う闇、肌を刺す冷気、耳鳴りを誘う静けさが、秒単位で五感を蝕む。薄汚れ、血塗られた破れ屋。こんなところで夜を越すなど、まったくもって正気の沙汰ではない。

現実だ。
生身の体を持ち、それを生きていく以上、センチメンタルにはなり切れず、物語を貫けない。

しかし、この廃屋もまた、現実。視界を覆う闇、肌を刺す冷気、耳鳴りを誘う静けさに蝕まれ、ここに囚われていた女性が、かつていた。存在していた。
命を賭して、人生を奪われ。そんな過酷なリアルを思えば、今、私が浸ろうとしていた感傷など、たかが知れている。『呪い』の主となったかの人から見れば、思春期の娘が、ただ劣等感を抱いているだけに映るだろう。

その通り。劣等感だ。
近しくなったと思い込んでいた相手が、実は遠く、相入れない存在だった。
その事実に、傷ついただけ。傷ついているだけ。

こんな傷、生きていればすぐ癒える。

「…………帰ろ」

踵を返し、歩き出す。荒屋に挟まれる道を直進し、先ほど通ってきた入り口へと。

あそこを抜け、夜を抜け。いつもの我が家で朝を迎えれば、また日常が来る。もう本家には呼ばれない。母は落胆するだろうが、それもありふれた落胆だ。きっと受け入れてくれるだろう。

我々混血には、望める未来が決まっている。
決められた未来を受け入れ、生きていくしかない。

逆に言えば、生きていける。ゆるされた範囲の世界で、ふさわしいだけの幸せを享受すれば、『呪い』など残すことなく、穏やかにこの世を去れる。

あの屋敷にいる純血たちとは違う。
しかし、この小屋にいた女性たちとも、違う。
それでいいではないか。

入り口が近づく。月明かりの下、斜め下に目線を向けつつ、歩みを進める。
そのまま通り抜けようとした時、ふと前頭部に柔らかな抵抗が触れた。

顔を上げる。何もない。
不思議に思い、もう一度。
前へと進み、また弾かれる。

月光が照らす木塀の内側。それが途切れた数メートルの隙間。
闇夜への入り口。日常への出口。

それを阻む、見えない壁。

出られない。


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この作品は、こちらの企画に自主的に参加しています。



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