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【短編】その鳥籠から擦り抜けるワルツ(後編)

最後の日を迎えるとしたら、病院のベッドの上か、住み慣れた我が家の布団の中と想像していた。いずれの場合も医師や家族、誰かしらに看取られて。まさかこんな辺鄙な場所で、人知れずそれを待つことになろうとは、思いもしなかった。

『呪い』。

あの日と同じ、否、あの日より強力と思しきそれが、私を此処に閉じ込めている。

諸々試しはした。出口からは出られない。ならば木塀の上から、とよじ登ってみたが駄目だった。最頂部に手をかけ、身を乗り出したところで弾かれる。物理的に壊そうともしたが、朽ちかけていた小屋とは違い、こちらは強固でびくともしない。ぐるりと回り確認したが、抜け出せそうな穴も無かった。

地面に落ちていた枝を拾い、木板と木板の僅かな隙間から差し込んでみた。枝は隙間を通り抜け、その先端が一センチほど塀の向こう側に出たところで止まった。この瞬間が一番の絶望だった。『呪い』は木塀の向こう側、この一帯を囲む形で存在している。塀を壊し穴を抜けたところで、その外側に壁があるなら、その手はおそらく通じない。

広さも、手強さも。あの日、牢屋の出口を塞いでいたものを遥かに凌ぐ。
物理的に抜け出すことは不可能。
であればあの日と同様に、『解く』必要がある。

だが果たして、それができるか。

口に手を当てる。そこで初めて、指先が冷え切り、かつ震えていることに気づいた。

いけない。
絶望に負けるな。

『かごめ小屋』の中央、荒屋に挟まれ、出られぬ出口を正面に見据える位置で、私は地面に腰を下ろす。硬く冷たい感触をお尻に感じながら、膝を折り、膝頭に両手と額を当て。

まず、呼吸をする。
吸って、吐いて。それを数回繰り返し。
生きていることを自覚する。
生き抜く意志が、身体にあることを知る。

大丈夫。まだ戦える。私は戦う。
では、どうする。
この絶望からどうやって抜け出す。

考えろ。
考えろ。考えろ。考えろ。
考えろ。考えろ。考えろ。
考えろ。考えろ。考えろ。
考えろ。考えろ。考えろ。

混血で祓えず、華奢で小柄で、年端も行かぬ小娘が。
生き抜く術はそれしかない。

仮説を立て。打ちこわし。その残骸から新たな仮説を立て。
何十分、あるいは何時間経っただろう。
ようやくひとつの光明に行き当たり、私は埋めていた顔を上げる。

「……………え」

飛び込んできた光景に、声が漏れる。
ちょうど正面、視界としては開けた木塀の間に、見慣れた男性のシルエットがあった。

「やぁ、ミノ」

黒フレームの伊達眼鏡が、月明かりを受け、光る。

正直なところ、誰かしら来るとは思っていた。当たり前だ。このまま家に帰らなければ、朝には母が異常に気づく。本家の屋敷に話が入り、あの運転手が問いただされる。居場所はすぐに割れ、迎えが来る。
朝を待たずして、ということも十分あり得た。あの運転手が、すぐさま本家に報告する。あるいは報告を求められる。運転手自身が近場で待機し、様子を伺っているかもしれない。兎にも角にも、身を案じた誰かしらが、私の体力気力が尽きる前に現れることは、容易に想像がついた。

しかし、迎えに来るその人が、まさか若様その人であるとは思わなかった。物別れしたばかりである当人の登場に動揺したが、一方で「ならば話が早い」と胸の内で安堵した。

「入って来ないで。『呪い』がある」
「え?」

私の言葉に、今にも入り口を通りそうだった若様の動きが止まる。

「……『呪い』?」
「あの日と同じよ。ここから出られない『呪い』。それが今度は、この塀で囲まれた一帯を支配している」
「嘘」
「本当」間の抜けたリアクションに呆れ、ため息をつく。「おそらく前回同様、一度入ったらあなたも抜け出せない。その出入り口は一方通行よ。試しに今かけてる眼鏡でも投げ込んでみなさい。多分中には入っても、こちらから返すことはできない」

若様は口をへの字に曲げながら、眼鏡の蔓に手をかける。しかしそのまましばらく動かず、「いや、いい」とその手を下ろした。

そして。

「え?」

躊躇うことなく、入り口から中へと踏み込んだ。

足のつま先から頭のてっぺんまで、完全に『かごめ小屋』に入り込む。振り返り、辿ってきた道筋を逆になぞろうとするが、案の定、見えない壁に阻まれて、戻ることはできない。

「わぁ、本当だ。出られない」

能天気な声に、瞬間的に血の気が引いた。

「馬鹿! 何してるのよ!!」

夜の静寂に、私の声がこだまする。

「どうして入ってきたの?」
「本当に出られないのか試した」
「入っちゃ駄目、って言ったわよね」
「やってみなきゃわからないだろ」
「やってみてわかったじゃ手遅れなの。ねぇ、馬鹿なの? さては馬鹿なんでしょう、あなた」
「そんなに馬鹿馬鹿言うなよ、傷つくだろう」

傷ついてろ。知るか。
もっと罵ってやりたいが、その気力も湧いてこない。

「どうするのよ、これ。もう……」

思わずその場でへたり込む。

たったひとつの頼みの綱が、いとも容易く消え去った。恐怖と戦いながら、散々考えてようやく掴んだ蜘蛛の糸。それを無邪気の鋏でちょん切られた。

「大丈夫だよ」若様が言う。
「何が大丈夫なのよ」言い返す。
「お前は『呪い』を解く。あの時だって、そうだった」

見上げると、若様が口を真一文字に結んで、こちらを見ていた。そして私の背後へと指先を向ける。そこには、戸に穴が空いた荒屋。かつて私たちが『呪い』を体験した、牢屋。

あの日。
出来心からこの『かごめ小屋』の廃屋に踏み入り、閉じ込められたとき。
見えない壁に阻まれ、開かれたままであるはずの戸から出られなくなったとき。

「今でもよく覚えているよ」若様は続ける。「お前はまず、石を投げた」

目の前、見えない壁に向かってではない。
頭上にある、通り抜けが不可能な格子窓。その隙間に向けて、投げた。
石は木格子の隙間を抜けて、牢屋の外へと抜け出した。

「最初は何をしているのか、と思った。でもそれを見て、お前は言った」

出られるかもしれない。

「もしこれが『呪い』なら、それを生み出した『霊』がいる。『霊』がいたなら、それを生み出した『想い』がある。ここが牢屋であるとして、囚われの身となった人が抱いた『想い』とは何か。『呪い』の性質から逆算して考え、ひとつの回答を導き出した」

『出られない』。
その絶望が時を経て、見えない壁となり顕在化した。

「ではその『想い』は何に対して向けられたものか。牢屋の構造上、戸の正面に錠がある。『想い』の主がそこに繋がれていたとしたら、この戸に向けたものである公算が高い」

そこで、先ほどの石だ。石は窓から外へ出られた。

「ここからお前は仮説を立てた。この『想い』は単なる『出られない』ではない。『出られるはずなのに、出られない』」若様はそこで、少し顔を歪める。「後になって、ここがどういう場所であったかを知り、合点がいったよ。『かごめ小屋』。ここでは、『駕籠女』として集った女性たちと向かい合わせに、反逆者を繋いだ牢を置き、見せしめとされた」

見せしめ。つまり、戸は開け放たれていた。
目前に開けた外界の景色。
踏み出せばそこへ戻れるはずが、錠に繋がれ叶わない。

『出られるのに、出られない』。

「お前は戸を閉めた」

戸を閉め、それを蹴り、牢の中にあった鉄球をぶつけ。幼子ひとりが通れるほどの穴を空けた。
身体の小さいお前は、そこを擦り抜けて外へ出た。

「『出られるのに、出られない』。ならば、出られないはずの場所からなら、出られる。人が通れない格子窓然り、閉められた戸も然り。そこに空けた、大人では抜け出せぬほど小さい穴も、また然り」苦笑した顔で、若様は私を見る。「驚愕したよ。まるで打ち手がわからない『呪い』に立ち向かい、お前はそれを解いて見せた。だけどね」

一番痺れたのはその次だ。

目線をこちらに、若様は続ける。

「外へ出たお前に向け、大人を呼んでくるよう、僕は言った。そうしたらお前は、たった今抜け出た穴から顔を覗かせ、こう返したんだ」

『だけど、もう遊べなくなるよ』。

覚えているか。表情からそう問われた気がして、無言のままに首を振る。まるで記憶に残っていない。
反して若様は、繰り返し観た映画のあらすじをなぞるように、続ける。

「なるほど、大人を呼べば、外側から戸を壊し、さらに大きな穴が空く。当時の僕の身体くらいなら、通り抜けられるサイズとすぐなったろう。だけど大人を呼べば、僕らが閉じ込められた、という事実が知れる。一族の跡取りを危険に晒したともなれば、分家全体の責任問題だ。僕も今まで通りには、皆と会うことができなくなる」

この土壇場で。
この修羅場で。
そこまで先が見通せる。
見えない壁を抜けて、外に広がる景色を見れる。

「僕が信用できる面子の中で、お前が一番頭がいい。僕が頭がいいと思う中で、お前が一番信用できる。あらためて言うよ、ミノ」

若様はしゃがみ込む。折った膝に腕を置き、眼鏡の奥の目を、私と同じ高さに合わせる。

「お願いだ。僕をここから出すのを手伝ってくれ」

命令でも、処罰でもない。よって応える義務も、責任もない。
契約でも、詐欺でもない。だから得る見返りも、打算もない。
ただの、お願い。
一方通行のエゴの押し付け。

「お前にとっては、リスクしかない申し出だ。負担と負い目に塗れた挙句、負債を抱える負け戦だろう。だけど、お前しかいない。こんなことを頼めるのは、頼むに足るのは、お前しか」

真正面から、真っ直ぐな眼差しを、直射日光の如く浴びせられ、堪らず私は顔を背ける。

「……だからって、どうして忠告を無視して、ここに入ってきたりしたのよ」
「お前に面倒ごとを押し付けようとしているんだ。お前が抱えている面倒ごとを無視して、僕だけ安全圏にはいられないさ」

結果として。本家も、分家も。
否、元より。純血も、混血も。
等しく同じ、籠の中というわけか。

ふ、と唇の隙間から息を吐く。

横目でちらり。変わらず若様の目線はこちらに固定されている。
ただのお願い。一方通行のエゴ。つまりは我儘。
場違いなほどの純度で向けられるそいつに、嫌気を通り越して、呆れてくる。

やっぱり馬鹿。
いや、バカだ。

「…………眼鏡を取りなさい」
「え」
「いいから取る!」

お前がかけろと言ったからかけていたんだけれど。ぶつくさと言いながら、黒フレームを顔面から外す。裸眼の瞳がこちらを向くのを確認し、私は顔を正面に戻した。

「あなたのお願いに応えるかどうかは、後回し。とりあえずはこの『呪い』から抜け出すことに集中するわよ」

立ち上がる。
「お」しゃがみ込んだまま、私を見上げる若様に向け、続ける。

「まず、本質的にこの『呪い』は、以前私たちを閉じ込めたものと同じ。であれば主となった霊も同一人物ではないか、と私は踏んでいる」
「でも、あの『呪い』はお前が『解いた』だろう」
「解き目を作って、隙間から『抜けた』だけよ。完全に解除した訳ではない」
「じゃあ、今もあの牢屋には『呪い』が残っている?」
「いいえ。おそらく、あの『呪い』が拡がったものが、今の『呪い』」
「拡がった?」
「ええ」

あの牢屋から『出られない』という思いから生まれた『呪い』。
年月を経て、今度はそれが『かごめ小屋』という範囲にまで拡がった。

「どうして」
「私とあなたが、あの日抜け出すことができたからよ。傷を負った肌が強く固くなるのと同じ。一度打ち破られたことをきっかけに、『呪い』はより強固なものとなった」
「なんだか生き物みたいだな」
「わからないわ。これはただの仮説よ。だけどこの仮説に立った場合、ひとつだけこの『呪い』を解く方法がある」

この呪いの主は、囚われたかつての『駕籠女』。
目前にあるはずの自由。それを渇望しながらも、鎖に繋がれ叶わなかった女。

「咎められ、牢に入った『駕籠女』が解放される方法はひとつ。本家の者から『ゆるし』を得ること。つまり」

あなたが外から『ゆるす』と言えば、私はおそらくここから出られた。

じっとりと、恨めしい目で睨んでやる。が、「あぁ、なるほど」と若様は柳に風。もはや予想していた反応であり、怒る気にもなれない。

「そういうことなら」
「……え?」

若様は徐に立ち上がり、見えない壁が阻む入り口へ顔を向け、

「クロ!!!」

声を張り上げた。

「……クロ?」

しばらく待つが、何も起こらない。若様はもう一度叫ぶ。「おーい、クロ」、「まだ車の中かな。聞こえているかい、呼んでるよー」、「クロやーい」。
何度目かの呼びかけで、ようやく変化が。薄闇の奥から、闇より濃い黒のシルエットが近づいてくる。
気だるげな足取りでのそのそと動くそれは、いつも私を案内していたあの黒スーツの姿だった。

「うるせぇな。寝させろ」

入り口の手前で止まり、ポケットに手を突っ込んでいた手を抜いて、頭を掻く。
「入ってくるなよ。そこにいろ」。言いながら、若様はクロへと歩を進める。「事情は後で話す。とにかくまずは、僕らに向かって『ゆるす』と言え」

「はぁ?」眉を顰めるクロ。「なんでだよ」
「後で説明する」
「嫌だね。今、話せ」

ふん、と鼻息を漏らし、若様は説明を始める。この一帯に『呪い』がかかっていること。『呪い』の主が、ここに囚われた『駕籠女』であること。故に『呪い』を解くには、本家の者の『ゆるし』が必要であること。

すべて聞き終えたクロは細い目を幾度か瞬かせ、呆気にとられたような表情で固まった。

「……『呪い』」
「そう」若様は真っ直ぐ歩き、出口から出ようと試みる。しかし、案の定弾かれ、後退。「ほらね。パントマイムじゃないぞ」

少し考える様子を見せ、「その手持ちの眼鏡、投げてみろ」クロは言う。「眼鏡だけゆるす」
なんだよ、それ。若様は言いながら、「大事なものだ。投げないよ」腕を伸ばして眼鏡を差し出す。

通過。
心臓が跳ねる。
立証された。いける。

出られる。

はずだった。

「要は、本家の者たる俺が今この場で『ゆるす』と言わなければ、お前たちは一生そこに閉じ込められたまま、というわけか」

固まっていたクロの顔がみるみるうちに融解する。口の端が歪み、浮かんだ笑みに月明かりが陰影をつける。

「最高じゃねぇか」

通過した黒フレームは受け取られず、再び若様の手元に収まる。

クロは入り口の正面に立ったまま、上着の内ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。顎を上げ、夜の闇に向け紫煙を吐き出す。月明かりと相まったそれが、空中、高い位置でゆるりと燻った。

「おーい。何をしているんだ」
若様が呼びかける。
「吸わせろよ」顔を上げたまま、クロ。「こんな愉しい夜は久しぶりなんだ」

俺がゆるさなければ、こいつらは出られない。
俺がゆるさなければ。
煙を吸って吐き出す合間、クロは独り言を繰り返す。

「なんとかこのまま見殺しにできねぇものか」
「おい」煙が苦手なのか、数歩下がりつつ、若様。「お前、仮にも僕の付き人だろう」
「正式には付き人候補だ。センゲを襲名するその日まで、当主の血筋に仕える義務は俺にない」
「じゃあ、今は?」
「ただの世話役」
「なら迷っていないで、ちゃんと世話を焼け」
「世話が焼けるからこそ、迷っているんだろうが」

さて、どうしたものか。独り言モードが再開。堂々と完全犯罪を目論むクロを眺めつつ、私は若様に近寄り、小声で訊ねる。

「『センゲ』って?」
「当主の付き人の呼称だ。表には出ないけれど、代々うちの血筋に仕える家系の者がいてね。あいつはその跡取り」

そんな役割の者がいるとは。表に出ない、ということは、何かしら公にできぬ職務を担っているのだろう。『夜伽』であった私の案内役であったところからも、その一端が垣間見える。

態度はまるで、やがて当主に仕える者とは思えないけれど。

「まぁ、軽く嫌がらせしておくか」

短くなったタバコを地面に落とし、革靴で先端の火を消して、クロはこちらを見る。
そして、言った。

「お前、その女を諦めろ」

傍で聞こえていた若様の呼吸音が、一瞬止まる。

「……どういうことだ」
「面倒なんだよ。毎週毎週、お前の部屋までその娘を連れて行くのが。かと言って、分家の混血をひとり屋敷で自由にさせておくのは、ぞっとしない」煙を吐きながら、クロは答える。「職務放棄がゆるされないなら、職務そのものを無くしちまえばいい。そうすれば、こうして痴話喧嘩の末逃げ出した女を迎えに、運転手をやらされることもないだろうしな」

だから、諦めろ。
同じ言葉が繰り返される。

若様は先ほど眼鏡を差し出したほどの距離まで、相手へと詰め寄る。十センチほどの身長差、下から睨めつけるような格好。

「調子に乗り過ぎだ、お前」
「お前こそ調子に乗るなよ。何ひとつ代償を払わずに、何かを手に入れようなんざ御門違いだ」
「ミノは手放さない」
「その発想も、御門違いだ」

それまで若様にばかり注がれていたクロの目線が、突然私の方を向く。

「理由はなんだか知らないが、この娘、お前に愛想を尽かして出て行ったんだろう。逃げる女に追う男。主導権がどちらにあるかなんざ、明白だ。お前がこの場でどれだけ喚こうが、そこの娘が首を振るなら、諦めるしかないんだよ」

若様は振り返り、私を見る。

「ミ……」
「猿芝居を打たれてもかなわんからな。この際はっきり言っておくぞ」若様を遮り、クロが続ける。「お前が何か企んでいることはお見通しだ」

若様の目が見開かれ、そして鋭いものに変わった。

「なんの話だ」
「やめておけ。お前は化かし合いには向かない。嘘を見抜くのは得意なくせに、隠しごとは下手だからな」
「何も隠していない」
「何も隠せていない」間髪入れず、クロ。「なんなら当ててやろうか。家を出るつもりだろう、お前」

若様は思わず振り返る。
「下手糞」。致命的とも言えるその反応に、クロは呆れ顔でため息をついた。

「ここ数年、『アタワズ』と対峙し、恩師を失い、溜まりに溜まった感傷と哀傷。人生の重みに耐えきれなくなった甘ちゃんのやることなんざ、逃避行と相場が決まっている。女に逃げるのか、と思いきや、呼んだ『夜伽』は色気のない小娘。ひと月泳がせてみたものの、男女の香りは一切しない」

クロは再び私を見る。

「『呪い』を解く策を立てたのは、娘。お前だな」
「………………はい」
「祓いの歴史は長きに渡れど、『呪い』について触れられている文献は皆無に等しい。解き方があるなど、驚愕の極みだ」クロは若様を顎で指す。「そこまで頭が回る女を、こいつは抱きもしないのに『夜伽』として呼び寄せた。これで勘付かない馬鹿はいないぜ。あらかた参謀役として、このバカ王子に家出の手助けでも頼まれているんだろう」
「頼んでいない」すぐに若様。「ミノは『夜伽』だ」
「ならばこの場で、口づけのひとつでもしてみせろ」

クロの言葉に、私は反射的に身構える。しまった、と思うがもう遅い。止まった息を、肩の強張りを、見逃すことなど一切なく、「ほらな」といった顔で鼻息を漏らす。

参った。曲者だとは思っていたが、まさかここまでとは。

『嫌がらせ』と称しつつ、おそらくこの男の狙いは、若様に家出を諦めさせること。私を手放すことが、そのままイコールでその目的に繋がると見越し、条件を提示してきた。

私が若様を振らなければ、ここから出られない。
若様が私を諦めなければ、ここから出られない。
『呪い』から抜け出すための、新たな『呪い』。

どうする。
そもそも、振ったからこそここに来た。同じことをまたするだけだが、しかし、若様が容易く受け入れるだろうか。

いや、違う。
先ほどとは、状況が違う。

『お前しかいない』。
つい先ほど、眼鏡越しの眼差しと共に受けた熱弁。
その熱が胸を焦がしつつある今、再び絶望を突きつける勇気が、覚悟が、果たして私にあるか。
後悔しない、と、断言できるか。

「あと一本吸えば帰るからな」クロは悠々と新しいタバコに火をつける。「今すぐ答えろ」

時間がない。

考えろ。

このジレンマから抜け出す策を。この『呪い』を解く術を。

考えろ。

「…………"七割"」

思考がまとまらぬまま、言葉がこぼれる。

顔を歪めるクロ。若様も訝しげにこちらを見る。
当然だ。私自身、まだこの閃きを形にしきれていない。

「小娘。何か言ったか」

クロが煙を吐く。
こぼれた思考を拾い、鑑定を始める。

七割。
いけるか。
根拠はない。だが、吟味している時間もない。

行く。
行け。

「若様が祓いにより得た収益の七割。こちらを一族に上納する条件でいかがでしょう」

クロに視線を固定する。視界の端に、当の本人たる若様。何か言いたげだが、目を向けていられない。今はこの男、おそらくは本家の中枢におり、その運営にも関与しているであろう者の反応に集中しなくてはならない。

「何の真似だ」
「このまま何もなく振ったとて、若様が素直に応じるとは思えません、それこそ、タバコ一本の時間では済まない」

故に、置き土産を。
若様が私に求めていた『知恵と時間』。その片方だけでも残せたのなら。

「……なるほどな」

タバコを口につけ、ゆっくりと、細く長い煙を吐くクロ。
その煙が空中で霧散する様を、思案顔でしばし眺めて、

「”七割”か」

呟いた。

いける。
よかった。穴が空く。

家を出るために私が必要な若様と、それを阻止せんと私に若様を振らせようとしているクロ。相反する二つの要求を満たし、この場を突破する方法は、ひとつ。

交渉。
双方が納得する条件の提示。

綱渡りだ。仮にこの男が一族の存続ではなく、若様の当主継承に固執している場合、この手は一切通じない。一笑に伏される可能性は十分にあった。
が、それは免れることができた。

対して、若様は。

「若様、申し訳ございません」

視線をクロに向けたまま話す。意図的に敬語を使った。

「勝手ながら、若様の今後に制約を設けました。既に申し上げた通り、今回の計画で最も心許ないのは金銭面です。故に、若様には祓いの仕事を続けていただく必要がある。一方で、一族側が若様を引き留める一番の理由も、おそらく金銭。『アタワズ』すら容易く祓うという若様の力、それがもたらす富の大きさは計り知れない」

必要ものが同じであるならば。
折り合いをつけられるポイントを探り、互いに理のある関係を築ける。

六つの点は打てなくとも。
その一点が打てれば、この場を抜けられる。

「ミノ……」
「これしかございません」

目線は向けない。向けられない。

「ご容赦ください。ご理解ください。今、私が、私としてできるのはここまででございます。一族の、それも混血の身にある者として、身勝手な理由で家を出る若様をゆるすわけにはいきません。かと言って、私を追いここまで来てくださった若様を、ただ退けることも憚られる。どちらに振れるべきか、気持ちの整理がつかぬままのこの状況で、選べる選択肢はこれしかなかった」

ですが、これで十分なはず。私は続ける。「若様が求めているのは、私ではなく、私が持つ知恵と時間。時間はもう叶いませんが、知恵だけならば差し上げられる」
「それが、”七割”か」

クロがようやく口を開く。

「はい。いかがでしょう」私は答える。「一族は……大父様は、ご納得されるでしょうか」
「さぁな」
「あなたならその見立てが立つ、と思ってのご提案です」
「ふん」タバコを口に。「俺に言わせれば、七割は低い」
「では、八割」
「八割五分」

数字を提示してきた。
交渉に応じた。

「若様、八割五分です。よろしいですね」

ようやく若様を見る。不服があるのか、下を向いたまま、何も答えない。
迷うな。ここはとにかくイエスと言え。歩合に納得がいかないとしても、『呪い』を抜けた後で手を打てばいい。

無言の時間が続く。
仕方がない。

「若様、お諦めください」

一方的に言い切り、私は若様の側を通り抜け、クロの正面まで歩み寄った。

「『ゆるし』を」
「いいぜ」クロが頷く。「ただし娘、出ていいのはお前だけだ」
「な……」

声を失いかけた、その時。
背後から小さい引力。

「え」

振り返る。
若様が俯いたまま、腕を伸ばし、ブラウスを摘んでいる。

「…………そうじゃない」
「……え」
「そうじゃないんだよ、ミノ」

どういう意味だ、問いかけたところで、若様が顔を上げる。

その、表情。

暗がりでもわかるほどの頬の色。

その赤らみが、耳の先まで。

おい。
おいおいおいおいおいおいおい。

「…………はぁああああああああああああ!?」思わず声が出た。「ちょ、あなた、何、ちょ、はあああああ!?」

やめてくれ。
せっかく落ち着いた、落ち着けたと思ったのに。

これ以上揺さぶらないでくれ。

「離して」
「離さない」
「離せ!」
「駄目」
「いや、ごめ、本当もう……せめてあっち向いて……」

へなへなと力が抜けていく。涙腺が弛緩して、目が潤む。

そんな顔を、眼鏡姿の方がまだマシだと思えるような、そんな顔を向けられては、敵わない。

前提が違った。
知恵を置いただけでは足りない。
きちんと、振らなくてはいけない。
できるか。
私は、この男に対し、それができるか。

私は。

「くっはははははははははははは……!」

場違いに乾いた笑い声。振り向くと、クロがタバコを挟んだ指先を上げ、腹を抱えて笑っている。

「ざまぁねぇな、王子様」

涙目のクロ。
背後の若様から、恨みがましいオーラを感じる。

「…………満足かよ」
「あぁ、満足だ。思いのほか、いいものが見られたよ」くくく、と余韻のひと笑い。「これに懲りたら今後、女を口説くのに姑息な真似はしないことだな」

歯に衣着せぬ物言いに、思わず肩がびくりと震える。
クロは呆れ顔で私を見やり、言った。

「悪いがこれ以上付き合う気はない。とっとと帰って寝たいんでな。続きは後日、勝手にやってろ」

タバコを落として足で踏み、踵を返すクロ。おい、と呼び止める若様の声に、「あぁ、忘れてた」と面倒そうに頭を掻く。

「ゆるす」

これ以上、世話を焼かせるな。言い足し、先へ進むクロの背中を私たちは追いかけ、外へ出た。

after all.
結局。

その後、私が『夜伽』として若様から呼ばれることは無かった。

高校生活が本格的に始まり、日々の主軸がそちらへと移り行く中、あの日あの夜の出来事は徐々に私の中で温度を失っていった。ロケーションも、起こったドラマも、非日常が過ぎたからかもしれない。衝撃的ではありながらも、現実感をもって受け入れられず。一度観たきりの映画のごとく記憶は断片的となり、出来の悪い総集編さながら脳内で継ぎ接ぎされ。月並みな言い方をすると、夢を見ていたかのような感覚でもって胸に残った。

春の嵐がそうであるように。
多くの恋がそうであるように。
季節が過ぎればその激しさを忘れ、時間と共に熱が冷める。
おそらく若様の中でも同様の風化が起こり、あの夜のことはすでに過去になったのだろうと思われた。

だから、一年ぶりに本家に呼ばれた時には驚いた。

『夜伽』としてではない。明確に用向きを伝えられぬまま、母親を経由し、ただ「来い」という指令が私に下った。指定の日時は夜。手配された車に乗り、裏口から中に入った。足繁く通っていた頃と同様、クロが私を出迎えた。

「変わり映えしないな」

それこそ変わり映えのない小言を言われ、「来い」と促される。

若様に会うのだろうか、と思ったが、違った。入ったことのない部屋に通され、畳の上、座布団もなしに正座で座らされ。
若様は家を出た、とそこで告げられた。

「八割五分で落ち着いた」クロは言った。一瞬何のことかわからなかったが、あの夜の会話だと思い至った。「他にもいくつか条件がついたがな。一年かかるとは思わなかった」

滔々と語り始めるクロの様子に、どうやらこれは報告会らしい、と気がついた。あの夜の交渉、そこから端を発する一連の計画が、如何様に着地したか。それを律儀にも、知恵出しをした私に向け、レクチャーする場。『センゲ』の後継という立ち位置の特性なのか何なのか。粗暴で面倒臭がりな装いに反して、まめな一面があるらしかった。

あの夜以降、一年をかけて若様は計画を遂行し、クロはその手助けを行った。そこにはそこで物語があるようで、端々にそれを感じ取れる物言いではあったものの、多くは語らず、淡々とクロは話を終えた。

そして、一枚の紙を差し出した。

「あいつの住所と連絡先だ」

渡すように言われている。ぶっきらぼうに言い放たれ、私にそれを。広げると電話番号とメールアドレス、それから他府県の住所が書かれていた。
かつて見慣れた若様の字に、家庭教師としてこの屋敷に通っていた日々が思い出された。

「煮るなり焼くなり好きにしろ。ただし、通じるならバレないようにやれ」クロは言った。「あいつは一族の裏切り者だ。身勝手な理由で逃げ出した、バカ王子。恥知らずと石を投げられ、後ろ指をさされる存在。実際そうであるし、そうでなくてはいけない」

あいつを慕い、あまつさえ讃えるような者がいては、一族の統制が取れない。

「お前も表向き、特に純血の前ではそのように振る舞え」

報告会はそこで終わった。来たときと同じように車で送られ、家に帰った。唯一の土産である一枚の紙を、自室で広げてぼんやり眺めた。

住所と連絡先。

「ぇぇぇぇぇぇぇぇ………………」

驚いた。全然過去になっていない。現在進行形であの夜が続いている。
混血として、女として。きちんと振ることができるか、逡巡したあの夜が。
『呪い』がまだ、続いている。

『呪い』。

ふと、思う。
あの『呪い』は解けたのだろうか。

クロが仕掛けた底意地の悪い『呪い』ではない。見えない壁で『かごめ小屋』に私たちを閉じ込めた、囚われの女が残した『呪い』。
本家の者からゆるしを得ることで抜け出すことはできたものの、しかし、完全に消え去ったとは言い切れない。仮説ではあるが、元は牢屋にかかっていた『呪い』が拡大したもの。一度破られたことで強固となったとしたら、二度目も同じことが起こらないとは言えない。

牢屋を超え。『かごめ小屋』を超え。もしかしたらすでに、私たちの周囲にまでその外郭を拡げているのかも。やがて見えない壁となってそれが現れ、行く手を阻むことがあるやもしれない。

つまりは、同じ。
どこまで行っても、私は、私たちは籠の中。
都度、思考を巡らせ、点を打ち、穴を穿って抜け出すしかない。

若様の文字が並んだ紙を見る。
そこに書かれた情報を、書くに至った心を読む。
読み取った心が、私の中に描く波紋を見極めて。
私は私の出口を探す。

「あいつ、まだあの眼鏡持っているかしら」

高鳴る胸、純とは言えない血を巡らせるため、脈打つ鼓動は三拍子。

十六歳。四度目の誕生日をようやく迎えた小さな私は。
出来損ないのワルツを、今日も踊る。


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この作品は、こちらの企画に参加しています。

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