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【掌編】今ここにあるもの、ないもの。
街クジラが海岸に打ち上がった。
僕は君の手を引き、それを見に行く。
クジラやイルカが波打ち際で死を遂げる。度々見られる事象ではあるけれど、その理由については、未だ具に解明されていない。それはもちろん街クジラについても同様で、砂浜に横たわるその屍からは、何故こんなものがこんなところに、という違和感と、お前はまだわからぬだろうがこういうものなのだ、という説得力が漂っていた。
「あの中に、街があるの?」
君が訊ねる。
防波堤に腰掛け、僕と君は並んでいる。
「一説によればね」
僕は答える。
クジラの身体は確かに巨大で、僕や君くらいならまるっと飲み込んでしまえそうではあるけれど、しかし、さすがに街ごとその腹に収まるサイズかとなれば、眉唾だと言わざるを得ない。
そのクジラに呑まれた者は、腹の中の街に住まう。
荒波に攫われ、未だ帰ってこない船乗りを思う仲間や家族が、希望を込め紡いだ物語。元来『街クジラ』は、その中に棲む架空の存在だ。いつしか一定の大きさを超えるクジラを指し、その名を呼称する者が現れ始め、今や船乗りの息災を祈るシンボルへとその意味合いは変化している。
今、僕らの前に横たわるクジラもそう。街クジラの呼称に耐えうる体積をたたえただけの、ただの大きな黒い屍。
「あの中に街があったとしても」君が言う。「きっと、お父さんはいないね」
僕は驚いて君を見る。君の目は真っ直ぐ、海岸の街クジラへと向けられている。
「……どうして、そう思うの?」
訊ねると、君は嬉しいでも悲しいでもない表情で、僕を見た。
「だって、私たちがここにいるもの」
「……え?」
私たちが迎えにきたのに、出てこないなんておかしい。
そう言って、君はまたクジラを見る。おかしいよ。もう一度呟いて、目を細める。
僕も同じように、クジラを見る。
君と僕の記憶の中にいる父と、街クジラの腹の中にいるかもしれない父と、そして目の前の動かない塊と。
胸の内、いや、頭の中で順番に触れ、一番温かいものを選ぶ。
「帰ろう、お兄ちゃん」
君が僕の手を取る。
「うん。帰ろう」
防波堤を降り、僕らは来た道を戻る。
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この作品は、こちらの企画に自主練習として参加しています。