【雑談】noteの読者はとても手強い
読書中、作者の影を感じない作品をお届けしたい。
別の記事にて、そのようなことを書きました。
巧みな文章表現に成功したとしても、それを「巧みだ」と感じさせた時点で読者の意識が作者へと向き、作品の世界から遠ざかってしまう。
それは作品を味わっていただく上でマイナスであるため、巧みさを感じさせないような巧みさが欲しい、という内容です。
分不相応な望みではあるものの、心がけたい事項ではあり、しかし、その実現を試みる上で、このnoteという場はなかなかに特異な環境であると言えます。
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noteで作品を読んでいただく方のほぼ全員が、ご自身でも文章を書かれる方です。
詩・小説・エッセイと守備範囲に差はありますが、より伝わりやすく、より楽しんでいただけるよう言葉を紡がんとしている点では同じ。
読者である以前にひとりの表現者であり、「この先『書く』か『読む』かどちらかしかできない」と迫られれば、おそらく『書く』を選ぶであろう方が太宗を占めています。
そのように表現者であることに本質を置く方々を読者たらしめるのは、容易なことではありません。
日頃『書く』側の視点でご自身の文に接していらっしゃる習性が、他者の作品に触れる際にも働いてしまう。中には積極的に「何か活かせる気づきはないか」と目を光らせている方もいらっしゃいます。
例えるならば、同業者ばかりが客席に並んでいる舞台で、芝居を打つイメージ。
常に鋭い視線が壇上に向けられ、大道具や小道具、照明の配置から裏方との連携まで、すべてを見張られているかのような。
演者へのリスペクトを最大限に感じつつも、noteでの執筆活動は、そんな緊張感を孕んだ上演に準えることもできるように感じます。
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さらに言えば。
優れた書き手が数多くいるnoteの世界、他と比べたことは無く、あくまで主観ではありますが、白鉛筆の周囲にはとりわけ熟練者・技巧者が集っているように見受けられます(「コメント欄が豪華すぎる」と時折羨ましがられます)。
優れた書き手でいらっしゃる方は、往々にして優れた読者でもあり、つまり皆様のように目の肥えた読み手を相手にすることは、正直たいそう骨が折れます。
安易な伏線では、先の展開を読まれる。
推敲を怠れば、文の粗を見咎められる。
視点と熱が偏れば、思惑を気取られる。
それらを成し得るのは、先述の通り皆様が鋭い「書き手の目線」を持っているからに他ならず、こちらとしてはその目線をどうにか休ませていただきたいところ。
そのための手法はいくつかございますが、一番手っ取り早いのが、皆様ご自身に「読者でいたい」と思っていただくことです。
すなわち、面白い作品を書くこと。もっと言えば書き続けること。
「この人が書くものは、純粋に一読者として味わいたい」と思っていただければ、こちらから何か仕掛けるまでもなく、皆様の方から「書き手の目線」を放棄していただけることでしょう。
簡単に言いましたが、もちろん簡単ではありません。
むしろこちらがいつも皆様の作品に魅了され、一読者に身を留めんとしている立場なのです。そんな皆様を逆に魅了し返すことの何たる難しいことか。
そんな過酷さを感じながらも、作品を読んでいただけている環境に感謝しつつ、活動を続けている次第です。
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本題からはずれますが、noteの手強い読者ばかりを想定した作品が、普段小説を読まない方々にどこまで響くのか、という点には興味がございます。
どちらにも響くのか、何かしらのアレンジが必要となってくるのか。
これを確かめるには、どちらにも響きうる作品を書く技量と、どちらにもそれを届けうる環境が必要であり、そこに至るまで、自分にはまだまだ遠い道のりであるように感じます。
いつかそんなチャンスに恵まれることを願いつつ。
今日も皆様を読者たらしめんと筆を握って。
白鉛筆でした。